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人の名前と木の名前

先日、某女子大の学生が木を使った研究をやりたいとのことでゼミの先生と一緒に僕の工房であるMAR_Uを訪れてくれて打ち合わせをした。
大学生女子ばかりが5人、ひとりひとり自己紹介をしてくれたのだけど、メモでも取ればそらいいのかもだけど、どうしても覚えられない。まあ覚える気がないと言われればそれまでだけど、年のせいにはしたくはないが覚えられない。

数日経って、今後の進行などお礼も兼ねて先生の方にメールを送ろうとして、学生の全員の名前でも覚えていて書き込んだりすれば先生も「すごいですね〜」なんて言われてちょっといい気になるかもと思って、思い出そうとするがやっぱりどうしても思い出せない。

でも、その時に出身地をそれぞれ言ってもらっていたのを覚えていて、ひとりひとりの顔を思う浮かべながら思い出してみると、なんと全員の出身地を覚えていた。小野市、倉敷市、垂水区、加古川市、鳥取市。不思議と覚えていた。

それを何でかなと考えてみた時に、人の名前(特に苗字)って、その人のアイコンやその人を表す記号みたいなものにすぎなくて、その人の個性や人となりを表したりその人を想像できたりするものではないなと。少なくとも僕は。

じゃ、出身地てその人を表すものかと言えばどうかというのもあるのだけど、僕の場合、その人と出会ってその人のことを何となく理解したり想像したりする時に、その人がどんな幼少期を過ごしたとか、どんなふうに暮らしていたとかってその地域(ローカル)を想像したときに、それが正解かどうかは別としてその人に対する興味が湧いてくる。小野や加古川なら、「あーしょっちゅう最近言ってるな」とか。鳥取なら「智頭ってすぎの産地があるよねえ」とか何気ないところからその人への興味が湧く。

なので個性とか個とかいうけれど、その人「個人」で形成される「個性」て実はその一部であって、いわゆる土着というかその地域の様々な環境、空間、自然などに影響されて形成されるものではないのかなと思っている。なので「個性」とかって正直何なんだろうって思うことがある。

神戸の里山の樹や六甲山の樹を地域の木として向き合っていると、不思議と似たような感覚になることがある。木そのものを分類して「すぎ」とか「ヒノキ」とかいうけれども、学術的にはそれで括られるのかもしれないが、それって僕からすると「山田さん」とか「鈴木さん」とかいう記号にしかすぎないような気がする(全然学術的な話をしてるのではないのでご了承ください)。

つまり、六甲山のヒノキも岡山のヒノキもそらあ所詮「ヒノキ」ですけど、高品質とかどうかとかそういう事ではなくて、そこで育ったが所以のその「ヒノキ」の個性ってあると思うんです。いや学術的には一緒ですよと言われるかもしれないけど、やっぱり君は「吉野の子だね」とか「長崎で育つとこんな感じなんやね」みたいな地域性を楽しむことで、もっとローカルの木材利用が楽しくなるのではないのかなと思った。

人の名前とか木の名前って、半分どちらでもいいなんて思ったりしてるからいつまでも「オカ」なんやろうけど笑。

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