見出し画像

10万円でなにする?


半ば事後報告のような形で地元を出て行って、一人暮らしを始めてから半月ほど経つ。

地元でちゃんと治療を続けながら徐々に生活をやり直すという選択肢も無きにしもあらずだったけど、基盤もしっかりしないまま勢いでいろいろ決めてしまって後から不安が波のように襲ってきたし今もそれは変わらないんだけど、後悔はないということを未来と当時の自分のために記録しておこうと思う。


コロナの影響でこれからどうなるのかな、と心配して眠れなくなったりとか、アイドルのコンサート中止になったのももちろんしんどかったけど、これまで以上に友達と会えなくなったのが思いの外一番堪えた。簡単に帰れなくなったことに急に寂しくなって、片っ端(まぁそんなに多くはいないんだが)から電話かけて声聞きたくなったり、夜中フッと起きては「地元帰ろうかな・・・」とか思って泣いちゃうくらい。

でも今はオンラインでいつでも連絡取れるし、もう少し落ち着いたら旅行しようって計画立てながら「いつでも帰ってきなよ」って言ってくれる人達がいてくれて、もう少しここで模索しながら頑張ろうと思った。ネットが発達してる時代に生まれて良かったな〜としみじみ。

上の写真は遠方から友達が遊びに来てくれて、迎えに行ったときのなんだけど、青信号がチカチカする東京駅前の交差点を笑いながらふたりきり、一緒に走り抜けた時見たきらきらの景色は多分一生忘れないと思う。次の日の朝、ふいに「よかったね、生きててくれて。ほんとによかった」って呟くように言った友達のことも、一生忘れない。わたしも、よかった。


人生というものは乗換電車の繰り返しに似ている、と本で読んだことがある。降りるのか乗り続けるのか乗り換えするのかの選択の繰り返し。それを読んでから、「もしあのときそのまま乗り続けていたら(降りていたら)どうなっていたのだろうか」とたまに考える。途中まで一緒に乗っていた人も、いつかは降りる。もしくは、自分から降りるのかもしれない。どれが正しかったのかはきっと誰にも永遠にわからない。正しくなかったとしても、良い選択だったと自分が納得するための努力はできる。

きっとまだまだ可能性はある。



未だに自分の中に海底からゴポゴポ湧き出るような破壊衝動はあるし、生きるのはやっぱりしんどいし、あ〜あって思ったり思わなかったりする毎日の繰り返しではあるんだけど、以前と確実に違うところは、自分のために生きているということ。食べなきゃ死ぬし、仕事しなければ生きていけない。自分が生きるために自分で生きる。死にたかったわたしがこれまで生きてこれたのは、わたしを生かすために生きてくれた人達がいたからだ。


自分がどうありたいかより、だれがわたしにどうあって欲しいのか察知してそうあるべきだという勝手な考えが破滅に向かわせたというところまでは自覚しているんだけど、他人と(自分以外の人間は家族だろうがなんだろうが他人だと思っているのでこういう言い方をしますが)物理的な距離が近いと、途端に主語を他人に置き換えて自分のあり方を自分で考えることを放棄しちゃう悪い癖が出るので、なるべく誰とも近くなりすぎないように注意しながら慎重に生きてます。これが今のところ最善なのかなと思ってる。かなし〜けど。


境遇を理由にしていつまでもぐずぐず甘ったれんなよ、自分の主語を他人にするなよ、という意味でも、新しい可能性を探す環境に身を置けたという意味でも、やっぱりこの選択をしてよかったなと思ってます。

それにしても直接的な接触がなくなったとはいえ、母からの連絡受けるとどっと疲れます。お母さんっていうものは普通こんなんじゃなくてもっとあったかくて尊いものなんだよな。でもこれが彼女なりの愛情なんだよな、わたしが求める形とは違っただけで。


思うように愛されない、許されないのが幼心に辛かったのか、いつからかそもそもなにかを求めることを諦めていたように思う。願ったところで与えられることはない。だからなのか、バッドエンドを自ら望んでいる節があるというか、幸せな選択を遠目に「あぁ、やっぱそうだよねダメだよね」って絶望することがむしろ安心材料になっていた。変な話だけど、結局叶わないなら求めるだけ悲しいから最初からそこに関して何も考えない。だから成長して自分から掴み取りに行けるようになったとしても、思考が止まってるから体が動きようもなかった。

もっとがむしゃらに、何がほしいのかどうしたいのか明確にしたいし、自分の足で取りに行きたい。と考え始めると途端に頭の中が暗く淀んで思考停止していくのがわかる。ここを打破しなきゃいけないけど、まだまだ時間はかかりそう。


これは愛だ、お前のためだ、と「これは愛情です」と書かれた呪縛で身動き取れなくさせられるくらいなら、いっそ無関心でいることが優しさだと思っていた。

何をどう話したところで否定されたり矯正されることばかりで自分の意見とか考えを聞かれることが本当に苦手だったのに、どうしたい?どう思ってるの?と純粋な気持ちで聞かれることと、それになんの恐れや迷いもなく答えていいんだ、と喜びを噛み締めている、最近。


ただどうしても染み付いたものって簡単に拭い切れるものじゃないなというのも同じくらい痛感していて、やっぱりどこか怖くて一定距離保ってしまうこととか「自分のしたいことイコール相手のしたいこと」になってしまっていることがなかなか変えられなくて、しかもそれを冷たいとか無関心と捉えられることに勝手にショック受けてる自分にダブルでうんざりしている。難しいな。客観的にどう見てもそうとしか見えないのにね。ちゃんと伝えたいことはちゃんと言葉にして話さないと伝わらないですね。頭の片隅ではわかってはいるんだけど。自分のこととなると全く俯瞰で捉えられなくなるのは改善したいな。


相手の求めるものとは違うのかもしれない。けど、わたしの愛情や気持ちはこうですよ、ってなんでもいいから、上手くしようとしなくていいから、まずは表現することが大事なのかなと思ったり。あとどうなるのかまでぐるぐる考えなくてもいいんだよね。


  

ところで10万円入ったらなに買おうかなとずっと考えてるんですがいざとなるとぜんぜん思い浮かばない。めっちゃ欲しいわけでもないのにMacBook買おうかなとか思い始めてきた・・・。


あとルラボほしい・・・。(ドヨンのサセン)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?