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Why "WONDER"?

まえがき

小さい頃、ゲームを買う時は親ではなく孫に甘いおばあちゃんにせがんだりお年玉で買ったりしたものだが、唯一、本は親にすぐに買ってもらえた。
本の虫などと言うと、本当の本の虫に怒られてしまうほどの読書量でしかないが、生育環境のどの過程でも文庫を持ち運んでいた記憶はある。
わたしにとって文章はとても大事なもので、ものすごく力と影響力のあるコミュニケーション方法だと思っている。
だからこそ、文による力が強いと思っているからこそ、自分でnoteやTwitterをやることには少し抵抗があった。文として手元に残ったり(小規模ながら)社会に出ることでそれらに、書いたわたし自身が巡り巡って影響を受けてしまいそうだなと思っていたからである。
しかし、今後を考えてもわたしのクリエイションに於いてやはり文章は欠かせないものであると思い、幾ばくかの覚悟を以て重い腰を上げてみることとする。
なお、noteは不定期更新であり、わたしの作品(WONDER)以外についても記載することがあるかと思うが、ご了承いただきたい。
一旦初回の今回はWONDERを軸とした話で筆を取ることとする。正確には筆ではなくパソコンであるが…


アート

さて、わたしは服のようなアートを作っている。服なのかアートなのか線引きがとても微妙であるが、思考回路とアウトプットを踏まえるとアートに括られるであろう。

基本的にわたしはアートを見る時、そのアート単体を見て「アーティストが何を表現したいのか」を、感じ取ることが出来ない。
「あーなんかいいなぁ」とか「なんかすごい」とか、論理的に何がどういいのかと説明をすることができないなりにただ「なんとなく」の感覚を持つことはあれど、それらの感覚の起因がどこにあるのかわからない。アーティスト側の意図ではなく、アートを通じて自分がどう感じるかという情緒的な部分にフォーカスしてしまう。
アーティストから実際に話を聞いたり、あるいはそのアートの解説のようなものがあったりすると「あーなるほど!」と理解することはできるのだが、その理解はある意味、ファーストインプレッションの「なんとなく」の感覚に「勝つ」ことができない。

しかしこれまた不思議なもので、わたしはその「なんとなく良い」という状態だけではお金を払ってアートを所有したいと思わない。「なんとなく良い」ものがどういった経緯・背景を持って製作されたものなのかが「理解」出来た時に所有したくなる。

わたしはリメイクアーティストと名乗っており、そのわたしが製作している作品群を「WONDER」と総称している。(恐らく見てくれている方からはリメイクブランドとして解釈されているような気もするが、解釈はそれぞれで良い気もする)

話を戻すが、わたしはそのような「感覚→理解」のプロセスを通してアートを購入するのに対して、WONDERでわたしが製作するものに関しては、「理解」を促すことをしてこなかった。それは「理解」のプロセスを飛び越えて所有に進んでほしいと思っていたからなのだが、クリエイションをしている本人の意識はアートに対して「理解」を求めるのに、見てくれている方に対して「理解」を促さないのは逆に失礼なのではないかと思った。

ということで、まず今回は作品の根幹とも言える「WONDER」という名称について、そのバックボーンを書き記したいと思う。


WONDER

「WONDER」という単語には動詞と名詞があるが、わたしの場合は動詞の意味合いを使っており、以下のような意味合いを持つ。
・疑問に思う
・知りたいと思う
つまり、これらの要素が「WONDER」としての、ひいてはわたしのクリエイションの土台となっている。
それぞれ、わたしの思っていることを交えながら噛み砕いていこうと思う。
ちなみに、わたしが大好きなインストバンドのtoconomaの大好きな曲にWander Wanderという曲があるのだが、そことも少し引っ掛けている。言葉の響き的な意味で。


疑問に思う

現代社会では、おしなべて価値がお金に代替出来る。一部お金で代替不可能なものもあるが、資本主義の自由経済ではお金による価値支配からはどうしても逃げられない(逃げにくい)。
わたしは基本的にファッションの世界の中で生きてきて、かつそれらのフィルターを通して世の中を見ているため、例えがファッション(アパレル)となってしまうことはご容赦いただきたい。

例えば、アパレル産業の構造はセールという存在ありきで成り立っているが、それがどうしても我慢ならない。「自分が買った服がセールになっている」という経験をしたことがある人は少なくないと思うが、その時のやるせなさの原因は「もっと安く買えた」という事実ではなく「自分にモノを見る価値がなかったのではないか」という真実に基づくものなのではないかと思っている。
ただ、その真実は、これまた相対的な価値に基づいて一喜一憂しているに過ぎない。お金をモノに代替した瞬間に、そのモノに対してはそのお金を払うだけの価値があると判断したわけであって、極端に言えば、その瞬間に自分がそのモノへの価値判断をすでに下しているわけなのでその後の価値変化に悲観的になる必要はない。
といったような相対的な価値と絶対的な価値に差があるなどと理屈を並べたところで、シンプルに感情的にはげんなりしてしまう。だからセールは嫌いなのだ。自分が自信を持ったものを自信を持ったまま着用したい、だからわたしはアパレルからセールがなくなる日を切に願っている。
セールありきでモノづくりをしている生産者側は、その事実をしっかり受け止め、セールの値段を定価にすべきだ。セールで売れるというのは逆説的に捉えればセールの値段こそがその商品の正しい価値であるということなのだから。
そして、消費者側もまた、社会にはびこる様々な相対的な価値基準を一度踏みとどまって疑問視し、個々人なりの絶対的な価値基準をそれぞれが見つけてほしいと願っている。
それらは、そもそも社会への相対的な価値基準を再考することから始まるので、社会の価値観の土台に対して疑問を持つことが何より大事なのではないかと考えている。例ではファッションのセールを上げたが、ファッションに限った話ではない。「幸せ」というの概念なども、土台を再考すると、多分に相対的な価値観に左右されていることが多いのではないかと思っている。


知りたいと思う

インターネットとスマートフォンの普及で消費の市場は以前にも増して肥大化し、需要に対して圧倒的に供給過多となっている。供給過多の世界では、供給側はなるだけ消費者の目に止まるようにアプローチしようとして様々な策を実行し、消費者は思考停止状態でも生産者側からのアプローチが止まらないという状態に陥る。その結果、消費者から「自分で探す・掘る」といったような能動的な姿勢が失われていく。そうしてまた資本主義の流れに飲まれ、資本が多いモノ勝ちという構造が加速する。マスを受動的なマスとして調教してしまえば、あとは広告なりマスが好むものなりをうまく使って消費意欲を刺激すれば簡単にお金が回る仕組みを構築出来るからだ。
これらの感覚は資本主義での消費のみに限らず、マスコミの偏った報道や、ネットでの過度な炎上など、様々なシーンで散見される。
それらはすべて、「知りたいと思う」という感覚の欠如、先の例を参考するのであれば社会の為すことに対して受動的であるから起こる現象であると言える。

新聞→テレビ→YouTube→TikTokなどの変遷を見ていると、そのような「わかりやすい社会」への歯車はまだまだ拍車がかかるであろう。
わかりやすくなるのは便利である反面、それらに支配されやすくもあるということを念頭に置き、それらに振り回されるのではなくむしろそれらを有用に使えるようになりたいと思う。
そして、そうなるためには「知りたい」という能動的な姿勢で以て、モノや情報などに対してそれらの背景や正誤を自身の目で見て判断する必要がある。


総括

さて、上述の通り、現代はわかりやすい社会であるのにも関わらず、このような文字だけでかつひねくれててめんどくさそうな、ダラダラと漢字の並んだ文章を離脱せずにここまで読んでくれた貴方はWONDERへの熱量が高い方だと推察出来る。ありがとうございます。
(あるいは、とりあえず総括だけ読めばいいかと思った方が読んでいる可能性も否定出来ないが、私には知る由もない。)

わたしは、上述したようなこと(既存のアパレル構造への疑問・相対的な価値と絶対的な価値への疑問・情報やモノの供給過多への疑問…)を日常で考えながら、なるだけそれらのエッセンスを作品に投影させたいと思って日々製作をしている。

・ん?なにこれ?
・こんなめんどくさいものを製作しているのは非合理では?
・こんなのどこに売ってるの?
・こんなの誰が買うの?
・同じのが欲しいのに買えない… 等
このようなの感覚を、もしわたしの作品に対して持っていてくれてるとしたら、あるいはわたしの作品を着用してくれている誰かが他の人に少しでも「ん?」って思われることがあれば、わたしの作品を通して、わたしが社会に伝えたいことは届いているとも言える。それぞれの人が持っている、ファッションや市場経済に対する土台への再考を促すキッカケになってくれているかもしれないから。

つまりWONDERはそれ単体で作品ではあるが、ファッションという、衣服単体ではなく人間性やその人の顔、表情、雰囲気、声、アイデンティティ、オーラなどのような着用者の特性と、わたしの作品が融合して、それらが社会に溶け込んだ時に完成するとも言える。

わたしの作品を見て、直感的に「おっ」と思った時、ビビッと来た時、それらの感性はおそらく間違っていないはずだ。
もし心が動いたのであれば、ぜひ身体に馴染ませていただきたいと思う限りである。


Image Credit
Photo by Ryo Tsuchida

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