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無知は加担

イスラエルとパレスチナの問題について論じたり行動したりしている人のとある投稿で、この言葉に出会った。

その方は「イスラエルの攻撃により、多くの民間人が犠牲になっている。なのでイスラエルに攻撃をやめて欲しい」とした上で、イスラエル(の資金源)に繋がる製品や企業の不買運動を周知させようとしていた。そのリストには世界的に見ても余りにも有名な企業、そして僕がかなり日常的に使っている企業が記載されていた。

イスラエルとパレスチナに関わらず、ロシアとウクライナもそうだし、その他の場所で起こっている僕の知らない戦争や紛争に関しても、こと個人的には「なくなって欲しい」と思っている。平和であって欲しい。多くの人が暴力や死に怯えず、笑って毎日を過ごしていて欲しい。自分や家族もそうありたいし、だから人にもそうであって欲しい。

でも、冒頭の「無知は加担」理論に基づくと、僕は製品や企業を通じて(今回の件であれば)イスラエルに加担していることになり、そうした僕は間接的に殺人を肯定、援助していることになる。心理的に「ウッ」となる。
その言葉に出会ってから、モヤモヤを胸に抱え続けて生きている。結局それらを知りながらも、自分の生活スタイルをガラッと変えて全ての製品の不買運動をすることもしないし、デモに参加するわけでもない。何かしらの行動を起こさない自分がとんでもない極悪人であるかのように感じてくる。

気にはしている、気にかけてはいる、だけど見守るというか、見ていることしかできない。というか、そもそも見えていない事象の方が圧倒的に多い。知らない内に傷つけていることもあるだろうし、知らない内に間接的に悪に加担していることもものすごく多いだろう。それは多分冒頭の「無知は加担」という言葉を書いた人もそうだ。こと自分の知が届く領域以外に関しては、全知全能の神でない限りそうなり得ない。
ただ、そんなふうに考えていると生きているのが辛くなる。自分の都合の良いように解釈しているだけだろうと言われればそれも否定は出来ないだろう。

昔はどうだったんだろう…などと考える。そもそもメディアやSNSがなかった頃。特定の土地で生まれ、定住し、育ち、死ぬ。そうして生命が繰り返される。もちろんそうした生き方だけではないが。
でも行ったことも、知りもしない異国の人の死が自分の生活と(とても薄いながら)繋がっていると考えた人は比較的少ないのではないだろうか。というか、資本主義がここまで加速して世界が繋がるようになる前は実際に関係はあまりなかったのか…。
やはり消費をベースとした資本主義の社会構造と、圧倒的な情報社会が招いた現状なのだろう。

だからなんだ、という話だし、僕の場合SNS(特にInstagram)がなければ告知や自分の作品を見てもらう機会もよっぽどなかったわけであって、こうして便利になってくれたお陰でさまざまなものが繋がっていき行動やコミュニケーションが変わっていくのは魅力的だと思う。まだもちろんあるけど、人と人の間の垣根が少しだけニュートラルになっている感覚も感じる。
だけれど、そうしたツールで自分の処理能力を超えた情報を多量に浴びることにより今回のような感情にもなり得る(少なくとも自分はそうなり得た)。
なので、一概にメディアやSNSのあるなしとかではなく、そうした感情への向き合い方はもちろんながら、自分が一人間として取るべき指針や生き方を常に模索して生きていく時代なのだなと再認識した。善悪や正義などの話は立ち位置や切り取り方で変わってくるが、良識を持ってそれぞれが生きていくことが大切な気がする。
どこをどう切り取っても立場や考え方によってはがんじがらめになるし、突っ込もうと思ったらいくらでもなんでも言えるほど社会は情報が溢れまくっている。だけれど、その中で、良識をもってそれぞれが判断・行動して生きていくことは少なからず悪いことではないのではないだろうか。

結局冒頭の「無知は加担」はまだ僕の中で渦巻いているし、この文が何をどう伝えたかったのか、そもそも伝えたいものがあったのか、よくわからない。
ただ、僕が例に挙げた問題に限らず、もし似たような感覚で以てモヤモヤしている人がいたら、何か思考整理の一助になれれば良いなと思った。

ちょうど少し前に「傷を愛せるか」という本を読んで、なんとなくこうした感覚との引っ掛かりを覚えたので紹介しておく。とてもとても良い本でした。

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