見出し画像

R6.5.10(金/晴)【釈尊語録…🔴般若心経】


般若心経 意訳

(大般若経の肝心な教えを更にまとめた経)

(この教えが説かれたのはお釈迦様が王舎城の霊鷲山に比丘・比丘尼方や菩薩方とご一緒で、その時お釈迦様御自身は深い知恵の禅定に入定しておいででした。また同じ時、)
観自在菩薩は実体を分析する知恵の修行を行い(私はこの身体を含め借り物なので、何処にも私の実体・本体はないのですが、私自身と同様に私を構成する五蘊という)五つの括りも皆実体がないと正しく理解する事で、完全に自身に対する一切の煩悩や悪習慣から自由になる(と見ました)。

(その時舎利子は観自在菩薩に「菩薩はどのように実体を分析する知恵の修行を行うべきですか」と質問され、観自在菩薩は)

『舎利子、物質として括られる存在はかりそめの存在でその名付けられたそれ自体の一々の条件にも何処にも、自分の身体も含め自由になるような、好き勝手に出来る究極の実体・本体がない、空性と異なる性質はありません 究極の実体・本体がない空性の性質でない物質として括られる存在もありません 物質は即ち究極の実体・本体がなく 究極の実体・本体がないのが即ち物質なのです 苦楽の感覚、概念、衝動、意識として括られる存在もまた同様です

舎利子、全ての存在は本来空の性質なので どんな存在も本体・実体を伴って生まれず滅せず 穢れず清まらず 増えず減りません

この故に空性を理解する知恵の禅定中に物質、苦楽の感覚、概念、衝動、意識として括られる存在は本体・実体を伴ってありません

眼耳鼻舌身意という認識側とその対象側も本体・実体を伴ってありません

更に細分化された認識側とその対象側も本体・実体を伴ってありません

煩悩障・所知障の影響を受けないので輪廻の原因も輪廻の原因が尽きたも 老死も老死が尽きたまでの順・逆の十二縁起も本体・実体を伴ってありません

苦諦・集諦・滅諦・道諦も本体・実体を伴ってありません

智も得も本体・実体を伴ってありません

実体を伴った得るというのがない為です

菩薩は空性を理解する知恵の修行に励むので 直接空を知る禅定中はもちろん、日常生活でも実体を伴う現れという煩悩のきっかけになる錯覚の影響が弱まります 錯覚の影響が弱まるので 煩悩の力も弱まり自他を粗末に扱うという恐怖がなくなって 一切の錯覚・誤解から遠く離れ全ての有情をそれぞれに合わせて大事にする状態に到ります

三世の諸仏は知恵の完成を目指した修行の故に全ての有情を大事にする(無住処涅槃の)状態を得ます

そういう訳で、知恵の完成は 是れ大神呪 是れ大明呪 是れ無上呪 是れ無等等呪 一切の苦を能く除く(呪)と その修行の初めから涅槃に到るまで修行者の心を煩悩から守る真言(心を守るものという意味)です 知恵の完成により無住処涅槃に到るのは虚からざる真実です

即ち知恵の完成を凝縮した真言を説きます

(知恵の完成に向かって)行きなさい 行きなさい 煩悩から自由な境地に行きなさい 所知障からも自由な境地に行きなさい 菩提を打ち立てなさい

(舎利子、菩薩はそのように実体を分析する知恵の修行を行う様に』と答えました。 それからお釈迦様は禅定を解かれ、観自在菩薩らに「素晴らしい素晴らしい、菩薩は観自在菩薩が説かれたそのように、深い知恵の完成の修行を行う事で如来方も随喜されます。」と伝えました。それに対し舎利子、観自在菩薩、比丘 比丘尼 優婆塞 優婆夷の四衆などその場の聴衆皆随喜しお釈迦様のお言葉を讃えました。)

般若心経

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?