R6.8.22(木/晴)【釈尊語録…ひたすら時を待つ】
国籍を失って無国籍だったフジ子は東京芸大を卒業後、留学の機会を伺いつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。
生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。
フジコは「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。
作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。
しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。
失意の中、フジコはストックホルムに移住する。
耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。
現在、左耳は40%回復している。
母の死後、1995年に日本へ帰国し、1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こった。
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