十両在位1場所力士列伝 福ノ里邦男編

どんな大横綱や名力士、あるいは名行司・名呼出であっても、力士生活の中で一番嬉しかった瞬間を尋ねられれば、口を揃えて「十両(格)に上がったときだ」と言う。
本連載では、その十両の地位に生涯たった1場所だけ在位することができた男たちの土俵人生を追いかけていきたい。
第2回は、現在若者頭として活躍する福ノ里(立田川部屋)の十両昇進物語。

高校球児一転、中退しての角界入り

福ノ里邦男こと福田邦男は、前回の主人公・大石田と同じ昭和36年6月生まれで岩手県九戸郡軽米町(くのへぐん かるまいまち)の出身。
入門前に相撲経験はなく、2年生の途中まで軽米高で野球をしていたが、実兄が影虎(九重部屋 当時幕内)と同級生だった縁から相撲に興味を持ち、高校を中退。昭和53年7月、本名の福田で初土俵を踏んだ(※1)。

もっとも、入門したのは影虎がいる九重部屋ではなく、立田川部屋。
横綱・鏡里の13代が昭和46年に部屋を興し、51年には師匠が脳梗塞で倒れる事態に陥ったものの、独立に際し同行した4人の部屋付き親方(大関・大内山の立田山、大波三兄弟の祖父として話題の若葉山こと錣山、上手投げの名手として知られた潮錦の式秀、のちに部屋を受け継ぐ青ノ里の二十山)がよく守り立てて、福田が入門する前後は、おおよそ10数人の力士が所属。幕下力士としては、厩務員出身の高幡山や入門から3年かからず躍進した和歌の里らがいた。
また、福田に遅れること半年あまり、54年3月には、のちに十両昇進を果たす高道(森乃里)が入門している。

決定戦を経ない6勝1敗での各段優勝

53年9月、初めて番付に載った福田はいきなり序ノ口優勝の快挙を達成。この決まり方が珍しく、なんと6勝1敗にも関わらず本割で優勝が決まったのだ。
(休場者は多いが)東25枚目まで、計49人もいる中、こういう現象が起きるのだから面白い。どのように取組が組まれたのか興味深いが、本題から逸れるので、今回は詳しく触れないことにする。

(前略)角界に入ってまだ二ヶ月足らずにしては相撲が巧い。優勝を争った玉若(片男波部屋)戦では一年も兄弟子を向こうに回し、すばらしい突き、押し相撲で完勝している。下半身が鍛えられているのと運動神経の良さが優勝をものにした原動力だろう。
相撲カンがいいので楽しみ。
(『相撲』昭和53年10月号 101頁より)

入門から2年強で幕下へ

出世を目指し順調に漕ぎ出した福田の航海は、その後も大きな挫折なく昭和54年9月には新三段目。序二段に下がった55年5月に6勝1敗と大勝ち、翌7月は三段目中位(61枚目)で4勝3敗も『相撲』昭和55年8月号は「幕下以下各段報告(122頁)」にて好評を記している。

将来性の点では福田(立田川部屋)が楽しみな存在だ。179㌢90㌔「入門してから10㌔しか増えていない」と軽量に悩まされる福田は足腰がいいのだから、体重がアップすれば力を発揮できそう。

福田の快進撃は続く。三段目在位4場所目にあたる翌(昭和55年)9月、西45枚目の自己最高位で6勝1敗と大勝ちし、三段目上位を一度も経験しないまま、新幕下の座を掴んでしまったのだ。
ちなみに、この場所最後の相撲で対戦したのが頭から6連勝していた大石田(大鵬)。星違いの福田に敗れて全勝を逃した一番については、大石田編(上)の記事を参照してもらうとして、ここでは福田の幕下入りを報じる『相撲』昭和55年11月号(112頁)を引用しておく。

ガッツマン福田が幕下入り
◇有望力士は和歌の里だけではない。九州場所には"ガッツマン”の福田が待望の幕下入りだ。筋肉質の体つきは千代の富士をひとまわり小さくした感じで精かんな取り口も似ている。
福田はいう。『体重を増やして、押されないようになればしめたもの」

昭和55年11月、幕下昇進を果たした19歳の福田は、四股名を福ノ里と改名。その躍動感あふれる取り口で専門家筋から「楽しみな若手」と目される機会も増えてきた。唯一の懸念は彼らが口を揃えて指摘し、自らも認める体重の不足。それは今後長きにわたり福ノ里を苦しめ、前途に立ちはだかり続ける難関であった。

コラム 立田川部屋の動向①

昭和55年後半、福ノ里の躍進にも関わらず、立田川部屋を取り巻く雰囲気は必ずしも明るいものではなかった。
初土俵から4年で順調に幕下上位へ進出、部屋創設後第1号の関取誕生なるかと期待されていた和歌の里が網膜剥離によって2場所連続全休(7月~9月)の憂き目に遭っていたのだ。
番付は一気に三段目まで降下し、福ノ里が同時に新幕下を決めた55年11月は、ついに番付が入れ替わるまでに(部屋頭は昭和51年春初土俵でやはりこの場所が新幕下の深川)。
それまで立田川部屋のホープといえば、いの一番に和歌の里の名前が挙がっていたところ、この頃からは福ノ里も並び称される存在となっていく。アンコ型で突き押しの和歌の里と、ソップ型で四つ相撲の福ノ里。正反対のタイプであるがゆえにより一層対比されやすい面があったのかもしれない。

しばしの停滞を経て三段目優勝

とはいえ、すでに幕下上位経験を有する和歌の里と、三段目在位4場所で幕下昇進を果たした福ノ里では、この時点においては歴然たる地力の差があった。
復帰後すぐに番付を戻し、56年後半からは幕下上位定着、57年春には西4枚目まで進んだ和歌の里に対し、福ノ里は56年11月~58年1月まで8場所連続で三段目に甘んじるなど我慢の時期を過ごすことに。
そして、しばしの停滞を経た58年初場所。福ノ里は西8枚目の地位で7戦全勝、自身2度目となる各段優勝を手にする。

七戦全勝の福ノ里(立田川部屋)と梶の戸(出羽海部屋)が優勝決定戦を行い、番付上位の福ノ里が切り返しで梶の戸を退け、序ノ口以来二度目の優勝を飾った。
福ノ里は(中略)甲子園を目指す球児だった。足腰が強く、豪快な投げで幕下まですんなり上がり、部屋の親方衆の期待も大きかった。だが、体重が一向に増えないのに、胸の合うがっぷり四つになる相撲が多く、最高位は幕下の四十五枚目止まり。ここ一年は幕下と三段目を上下するスランプ状態に陥っていた。
今場所も相変わらず強引な取り口が多かったが、それでもやはり地力がついてきたのだろう。七番相撲の宮内(春日野部屋)戦では左前廻しを引きつけてのスピード相撲で相手をほんろうするなど、強く、たくましくなってきた。
(『相撲』昭和58年2月号198頁)

初の幕下上位挑戦と兄弟子の廃業

三段目上位で全勝優勝を果たした福ノ里は翌58年3月、一気に幕下西13枚目まで躍進。兄弟子和歌の里(東22枚目)の番付を久々に上回った。かつて上位を一度も経験することなく在位4場所で三段目を通過したのと同じように、従来の最高位を30枚以上更新する急上昇。さすがに家賃が高いかに思われたこの場所、福ノ里は連日の健闘で下馬評を覆し、見事5勝2敗と勝ち越した。

(前略)初場所三段目全勝優勝して一気に五十五枚もハネ上がって三段目西八枚目から、幕下西十三枚目にランクされた福ノ里(立田川)の健闘が目を見張らせた。九十㌔台の体は幕下上位では見劣りするが、けいこ十分を思わせる相撲を取って五勝二敗は立派だ。
もちろん、自己最高位である。初場所の全勝優勝の裏返し(全敗)を心配する部屋の関係者もいたが、そんな予想を大幅に裏切って?の勝ち越し。二十山親方(元関脇青ノ里)は
「福ノ里は十一日目に花車に掛け投げで勝って勝ち越しを決めたんだが、ワシが審判員で土俵下に座っているとき、とびあがりたいくらいに嬉しかったね。しぶとく残したものね。土俵際で。こっちも思わず力が入ったよ」
と、給金直しの一瞬をそう語っていたが、五勝目は十四日目。長身の北尾(立浪)にごぼう抜きにつり上げられ完敗のケースだったが、土俵際でしぶとく残すと左へうっちゃり。これが鮮やかに決まり逆転勝ちした。北尾に気のゆるみがあったことは確かだが、最後の土壇場で逆転に結びつける執念は、日頃の稽古のたまものだろう。いままでの立田川部屋の”部屋頭”和歌の里は三勝四敗と負け越し。今の勢いなら福ノ里が先に関取になりそうだ。
(『大相撲』昭和58年6月号91頁)

同じ号の『大相撲』では、94頁「幕下訪問」の連載でも福ノ里を特集している。ここでは長年の懸案事項である体重に関して、本人が述懐している箇所をご覧いただこう。

「だってワシ、内臓も弱いし、酒もあまり飲めない。エビスコも強くないから体重も増えない」と。
水割りなら五杯が限度。ドンブリめしも二杯か三杯。それに酒を飲むとめしも食べられないと、もう見るからに虚弱児のようなイメージだ。

普通の成人男性がそれだけ飲み食いすれば虚弱児どころか立派な生活習慣病予備軍だが、力士としてはたしかに物足りなさを感じる胃袋(もっとも、人一倍エビスコが強いのに肥れない人もいる)。
いっそ怪我で稽古できない状況にでもなれば、その間に肥ってしまう場合もあるのだが、福ノ里の場合は三段目時代に一度休んだ以外は皆勤、おまけに稽古熱心さは折り紙付きと来ているから、肥りようもなかったというのが実情だろうか。
それでも、細いなりに力をつけ、幕下の土俵においても一目置かれる存在となったことは間違いない。幕下西5枚目まで上がった5月は1勝6敗に終わったものの、いよいよ番付上で並び立った和歌の里との出世争いも加熱。抜きつ抜かれつ58年を過ごすと、59年は1月・3月ともに揃って勝ち越した。

ところが、ここで思わぬ事態が起きる。59年5月、この場所およそ2年ぶりに5枚目以内へ進出していた和歌の里の廃業届が提出され、角界を去ることとなったのだ。
本題からは逸れるため、詳細を伝える『相撲』昭和59年6月号を長々と引用することはしないが、ともあれ、26歳の和歌の里が辞め、23歳の福ノ里にかかる期待はより一層大きなものに。
折よく5月5勝で、7月は東3枚目に躍進。今度こそ部屋創設初の関取誕生へ、いやが上にも期待は高まった。

好機を逃し低迷。部屋の念願は弟弟子の手によって・・・

4場所連続の勝ち越しで飛び込んだ1年ぶりの5枚目以内、その壁は分厚かった。
琴ヶ梅(佐渡ヶ嶽、のち関脇)、市来(高砂、のち十両・伊予櫻、現若者頭)に連敗スタート、花車(花籠→放駒、のち十両・若ノ海)に勝って初日も、播竜山(三保ヶ関、元小結、のち年寄・待乳山)、星甲(陸奥、のち幕内・星岩涛→年寄陸奥)に敗れて早々に負け越し。翌場所なんとか西7枚目に留まるも、1勝6敗で上位挑戦は霧散した。
その後は長く中位近辺を漂い、目立った活躍は、西41枚目で頭から6連勝するも志州山(出羽海)に敗れた60年5月くらい。次第に「関取」の声は上がらなくなり、部屋の期待は弟弟子の高道へと移り始める。

昭和54年春の初土俵から新幕下まで5年(59年3月)は和歌の里、福ノ里より遅かったものの、その分すぐに定着。60年1月に初めて福ノ里の番付を超えると、61年からは上位に進出し、部屋頭の座を不動のものにしていく。5月初の5枚目以内参入、数度跳ね返されながらも一桁の地位を保ち、62年1月、東筆頭で5勝2敗。文句なしの成績でついに部屋創設後初の関取誕生と相成った。
部屋付き・錣山(若葉山)は11月、師匠・立田川は翌年4月限りでの定年退職が迫る中、いつしか所属力士も3人(福ノ里、高道に加え、大波三兄弟の父として現在時の人となっている若信夫が在籍)のみとなっていた小部屋に訪れた歓喜の瞬間。『大相撲』昭和62年3月号は3ページも割いて高道の昇進を報じているので、機会があればぜひ手にとっていただければと思う。

発奮材料には事欠かないが・・・伸びぬ番付

高道の十両昇進に燃えないはずがなく、また親方衆からも「次はお前だぞ」という声を飽きるほどにかけられていたであろうこの時期の福ノ里。昭和62年にはもう一つ発奮材料となりそうな出来事があった。173㌢84㌔、自分よりもさらに小さい維新力が夏場所で新十両昇進を果たしたのだ。
自身の体重もこの頃には97~98㌔まで増えていた。十分に昇進のチャンスはあるはず・・・
しかし、それでも番付は伸びない。十両はおろか、上位にも返り咲けず、中位~下位に甘んじる日々。

そして、師匠の定年前最後となった63年3月、福ノ里の四股名は幕下からも消えていた。

コラム 立田川部屋の動向②

福ノ里が低迷、高道も在位3場所で十両から陥落、膝の怪我で一気に幕下下位まで番付を落としていた昭和62年後半以降、部屋別の話題を伝える『相撲』誌「部屋別聞き書き帖」も、力士の情報は一旦お休みモード。代わりに錣山(元小結・若葉山 昭和62年11月限り)、13代立田川(元横綱・鏡里 昭和63年4月限り)の定年退職や、後を継いだ14代立田川(元小結・青ノ里)による新部屋(千代田区飯田橋)移転などを伝えるうち、時代は平成へと移っていく。
しかし、この時期、福ノ里の体には人知れず待ち焦がれた変化が訪れていた。

念願の「3ケタ」到達!

昭和63年3月、師匠定年の場所を5年ぶりの三段目で迎えた福ノ里は、地力の違いを示して6勝。体重は95.5㌔であった。
新師匠となって最初の5月は幕下東40枚目で5勝2敗、体重は98.5キロに増えている。翌7月(西25枚目)は左手を痛めたため(『相撲』昭和63年9月号82頁)1勝に終わるも、9月(西55枚目)は5勝で失地回復。
そして、この場所の身長・体重を伝える『相撲』昭和63年11月号には、ついに100㌔の文字が記されていた。

勢いは止まらず、11月(東34枚目)、新元号を跨いでの元年1月(東16枚目)とも5勝。3月は実に4年半ぶりとなる一桁枚数(東7枚目)でも4勝3敗と勝ち越した。体重はさらに増えて105㌔(『相撲』平成元年5月号)。63年1月と比べればおよそ10㌔近い増量である。
同時期の『相撲』に体重増の効能を伝える文章は見当たらず、時系列の映像を視られているわけでもないので、あくまで筆者の想像や一般論になってしまうが、大型力士にとっての10㌔と、軽量力士にとっての10㌔では、やはりその価値も大きく異なるはず。短期間での増量が相撲内容に好影響を及ぼした可能性は高いのではないだろうか。

ともあれ、快進撃は続く。5年ぶりの5枚目以内(東3枚目)となった5月は、5番目の相撲から3番連続で十両力士にぶつけられる厳しい割だったが、9日目前進山(高田川、現若者頭)を突き落とし、千秋楽には同郷の2学年後輩にあたる岩手富士(朝日山)を下手投げで下して、5場所連続の勝ち越しを決めた。
翌元年7月は自己最高位を更新しての西筆頭。十両昇進を目指し、待ったなしの7日間が幕を開ける。

悲願成就のとき

平成元年7月場所、新十両を目指した福ノ里の星取りは十両力士との対戦が多く、6日目までに4番、中日で5番目の相撲を取り終えるハードスケジュール。
連敗スタートでどうなるかと思われたが、5日目、同学年の小金富士(花籠→放駒 最高位幕下筆頭。その土俵人生は、今年1月に発行された佐々木一郎『関取になれなかった男』を参照)に勝って初日。6日目、この場所新十両も、急性腎炎のため中日から途中休場を強いられる琴別府(のち幕内)を蹴返して連勝。中日、十両大竜(現年寄・大嶽)に敗れて追い込まれるも、11日目大師龍(放駒)を破って星を五分に戻し、翌12日目、早くも十両・太刀光(友綱、のち幕内)との取組が組まれた・・・

・・・察しの良い方ならば、この微妙な間をもって既にお気付きかもしれないが、今回もまた肝腎の相撲内容に関しては資料がなく、再現することができなかった。
この辺り、いかに専門誌といえど、十両取組の手さばきまで搭載しきれない事情は理解しつつ、当連載を続けるにあたっての大きな障害と言わざるをえないところ。
翻って、当ブログで「十両昇進決定の一番」を詳述することには、未来に向けて一定の意義があるのだろうし、今後も是非続けていきたいと思っている。

閑話休題、十両昇進をかけたこの大一番、福ノ里は太刀光を送り出して勝ち越し決定。この時点では幕下上位に好成績者が多く確定というわけではなかったが、2番前の相撲で同部屋の森乃里(返り十両の平成元年初場所を機に高道から改名、この場所は幕下西3枚目)が敗れたことも皮肉ながら追い風に。最終的には、14日目、舛田山(元関脇、のち年寄・千賀ノ浦)が敗れ、陥落相当の星となった時点で昇進当確。場所後の番付編成会議を経て、無事新十両昇進が決定した。

初土俵からおよそ11年、28歳での悲願成就は十分なスロー記録なのだが、同時新十両に同学年かつ1年兄弟子の琴白山(佐渡ヶ嶽、昭和52年5月初土俵)がいた分、やや霞んだ感はある。
ただ、場所後の巡業は折よく地元の岩手県(盛岡市)を回ったため、このときは文句なしに福ノ里が主役。特別参加として土俵に上がり、大きな拍手を受けた。

(前略)引き上げてくる福ノ里を待ち受けていたのは、郷土・九戸郡軽米町出身の元幕内・影虎の滝沢和彦さん(筆者註:昭和56年3月限り廃業)。部屋は別だが喜びは同じ、心ばかりの祝儀を受け取って
「うれしいですね。上がれそうで上がれなかった5年前、ヤケになってやめようと思ったこともあったけど、やめないでよかった。三段目に落ちながら貴ノ嶺さんを見習えと励まされて・・・。人間ヤケになったら自分が損するんですよね」と目をうるませていた。
(『相撲』平成元年9月号55頁)

場所後には、ご当地岩手を含め、実に4度もの激励会が開かれて、新生立田川部屋最初の関取・福ノ里誕生を祝福。
また、明け荷に関しては、一般に同期生が贈る慣習となっているが、そもそも同期が少ない名古屋初土俵な上、遅咲きの新十両ということで、このとき現役で残っていたのは最上山(宮城野、当時三段目)ただひとり。それでも、彼が全額を賄ってくれたという(『相撲』平成元年10月号77頁)。

改めて周囲の後押しの大きさを感じながら、福ノ里は関取としての15日間へ向かっていった。

その後の福ノ里

平成元年9月、新十両・福ノ里は身長180㌢・体重107㌔。
初日は同じく新十両で同学年の琴白山との対戦が組まれた。十両昇進の一番を再録できない代わりに・・・というわけではないが、以下に手さばきを記しておく。

1-0福ノ里(外掛け)琴白山0-1
福ノ里は痛めている左ふくらはぎにサポーターを巻いて登場。締め込みは資料(『相撲』平成元年10月号101頁)によれば茄子紺とされているが、映像や画像では少し赤みがかった色合いにも見える。一方の琴白山は、現在でもあまり見掛けない鮮やかなうぐいす色の締め込みだ。

福ノ里は、立合い琴白山にもろ差しを許すも、構わず右で得意の上手を深めに引くと、左を差して膠着。
機を見て相手の脇腹に当てていた左を下手に替え前へ圧力をかければ、琴白山深い右上手で捻り方向に振り回そうとするが、福ノ里タイミングよく右の外掛けで応じつつ、左下手、右上手を引きつけながら
上手方向に出て、腰が入った琴白山をそのまま土俵の外へ追いやった。

福ノ里はこの白星を皮切りに連日健闘。この人にしては珍しい寄り切りでの決着が3番、十両仕様の取り口で9日目には白星をひとつ先行させ、勝ち越しを期待させた。
ところが、終盤に入ると急に元気をなくし、10日目からまさかの6連敗。5勝10敗の星で無念、関取の地位を明け渡すこととなってしまった。

「場所の間は、なんとかやれるんじゃないか、と思っていたんだけど、終盤になって体が動かなくなってしまった。自分じゃスタミナ切れだとは思わないんだけど・・・。今度は森乃里関が十両に上がるけど、二人で約束したんです。入れ替わりじゃなくて、二人一緒に関取の地位にいるようにしようってね。もう一度チャレンジです」
(『相撲』平成元年11月号)

そう意気込む福ノ里、東4枚目で迎えた翌11月場所は、3連敗スタートから4連勝で勝ち越すも2年初場所は半枚上がっただけ。ここで1点の負け越しに終わると、3月は利き腕の右を痛めて3勝1敗から3連敗、短期間での十両復帰を果たすことはできなかった。
11月には西4枚目に戻るも3勝4敗。以後、長く5枚目以内への参入は果たせなくなるが、上位近辺を維持する地力は健在で、時折中位以下に落とせば大勝ちで挽回。年齢が30歳を越え、競い合ってきた森乃里が3年9月限り土俵を去る決意をしてもなお、再十両に向けた熱意はいささかも衰えなかった。

ところで、この頃になると、吉種(のち幕内敷島、現年寄・浦風)、(のち幕内豊桜)ら代替わりを機に入門した平成元年初土俵組はだいぶ力をつけており、力士数も二桁を数えるように。部屋付きの年寄がいないという事情ゆえ、面倒見がよく、人望のある福ノ里は、コーチ役としても欠かせぬ存在になっていた。
平成4年1月、四股名を福之里とマイナーチェンジするが、この頃から「やがては若者頭」という話がメディアに伝わり始めていたようで、また本人の中でも津軽海(春日野部屋)の定年退職により空席ができる5年5月場所をひとつの区切りに・・・という覚悟はあった。
それだけに、4年9月、(東16枚目で)1勝6敗と崩れ、十両復帰への道が遠のいたところで気持ちが切れてもおかしくなさそうなもの。しかし、福之里はむしろここから渾身の「ラストスパート」を見せる。
4年11月、東42枚目で最初の相撲から6連勝、旭豊(大島、のち小結、現年寄・立浪)に敗れ惜しくも幕下優勝は逃すも、東19枚目まで戻した翌5年1月も6勝して、3月には久々の5枚目以内返り咲き。11日目、十両秀ノ海(三保ヶ関)戦では3年半ぶりに大銀杏姿で土俵に上がり、100㌔以上重い相手を巻き落としで沈めるなど4勝3敗と勝ち越して、節目の5月を再十両が見える東3枚目の地位で迎えたのである。
なお、この5月は吉種が十両昇進を果たし、新十両・敷島が誕生。お互いの成績によっては、先代以来の目標である2人同時の関取在位を狙える状況でもあった。

平成5年5月場所
2日目 力桜  0-1
3日目 山中山 1-1
5日目 霧の若 1-2
7日目 梅の里 1-3
9日目 大天濠 2-3

2勝3敗と後がない福之里は、11日目に十両駒不動(放駒、元幕内)と対戦。吊り出しで敗れて負け越し、およそ4年ぶりとなる十両復帰は叶わなかった。
しかし、現役続行の命脈を絶たれる瞬間、大銀杏姿でその場に立てたことは、「2場所目の十両在位」を諦めず、ひたすらに前を見据え続けてきた努力の賜物と言えるのだろう。

苦労人・福之里が若者頭に
◇元十両の福之里が夏場所限りで廃業し、若者頭に転向した。すでに1年ほど前から決めていたそうで、気持ちの整理はついていたというが、13日目に中嶋(二子山)と最後の一戦を終え、花道を引き揚げてくると、目には涙が・・・・・。
「最後だから思い切って行こうと思ってました。終わった瞬間、今までの15年間のことが思い出されて・・・・・。前もって断っておいたんですが、花道で知り合いの方が花束を渡してくれて、グッときちゃいました」
温厚な人柄で力士間の人望も厚いだけに、若者頭という仕事はうってつけ。場所後の花相撲では早くも背広姿で顔を見せていた。断髪式は7月24日に国技館の大広間で行われる予定。
(『相撲』平成5年7月号)

立田川部屋はその後、敷島、豊桜、十文字の3関取を擁する中堅部屋として繁栄。師匠定年時に部屋は閉鎖され、力士、年寄らとともに福ノ里も陸奥部屋へ転籍。旧立田川部屋出身の琉鵬、白馬は新天地で幕内力士となった。
現在、福ノ里は60歳。今や「鏡里の弟子」としては協会に残る最後の一人である。


次回は安芸の嶺良信(三保ヶ関)編。6月上旬の公開を予定しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?