十両在位1場所力士列伝 山中山和洋編

今回の「十両在位1場所」は、先日亡くなった二代目若乃花(下山勝則氏)率いる間垣部屋第2号の関取、山中山和洋を取り上げる。
あくまで主人公は山中山だが、下山さんへの追悼も兼ねて、できるだけ間垣部屋初期の息遣いを感じられるよう仕上げていきたいと思う。


Ⅰ駆け出し時代

間垣部屋の創設とホープ本松


昭和58年初場所限り引退した横綱・若乃花は年寄・若乃花を襲名。同年夏場所後に行われた引退相撲の日に18代間垣となり、同年12月に内弟子1人(五十嵐→大雪山)を連れて独立した(所在地は墨田区亀沢)。パンチパーマ風の髪型にメガネをかけた青年親方の姿を、昨日のことのように覚えているファンも多いだろう。

創設当初、関取第一号の期待を担ったのが本松哲浩である。九州工(現真颯館高)を卒業後、当時の幕内力士・板井(大鳴戸部屋、のち小結)を輩出したことでも知られる実業団の名門・黒崎窯業に進んで全日本青年選手権優勝などの実績を残すと、22歳のときに角界入りを志し、新興部屋の門を叩いた(昭和59年初場所初土俵)。

本松は序ノ口、序二段と連続優勝し、デビュー1年未満で幕下昇進。
しかし、順調な出世の陰で病魔がその体を蝕んでいた。自己最高位の幕下13枚目で2勝5敗と負け越した昭和61年春場所後、発病して入院を余儀なくされる。
そして、同年9月、闘病の甲斐なく悪性骨腫瘍による腎不全のため死去。まだ24歳の若さであった。

師弟ともども「2年で関取」と意気込んでいたホープの土俵人生は、デビューから3年足らずにして儚い終わりを告げる。その本松が入院して部屋を離れるのと入れ違いにやってきたのが山中山こと、中山和洋少年であった。

史上最多128人が受検


山中山こと、中山和洋は昭和45年9月17日生まれで出身は栃木県那須郡。中学時代は柔道をしていたが、中3の時、駆り出された相撲の大会で県大会2位になり、関東大会出場を果たす。その現場にいた間垣親方の知り合いが中山少年に目をつけ、親方自らスカウトに訪れたというのが入門に至る経緯だ。

昭和61年春場所、新序二番出世を果たした中山は、その段階で山中山と改名。当時、本名の「中山」を名乗る力士はいなかったのに、敢えて頭に「山」をつけた理由は不明だが、結果として彼の本名を「山中」と誤認させる原因となった気がするのは筆者だけだろうか(ちなみに、「山中」の四股名は、この時点でのちの安芸乃島=現高田川親方が名乗っている)。

この場所は、史上最多(当時)の128人が新弟子検査を受検し、116人が合格。その中で一番の注目は、元横綱・栃ノ海(当時中立親方)の長男・花田(のち序二段・日の出海)だった。
のち関取となるのは、平野(幕内・巌雄、北の湖、現山響親方)をはじめ、大鈴木(十両・豊富士、時津風)、稲子(十両・若隼人、宮城野)、山根(十両・嵐、九重)の面々。
また、50代力士として話題をさらい、今年(令和4年)初場所限り引退した華吹もこの場所デビューの一人。本名の山口で二番出世、翌場所から立山口と改名し、華吹を名乗るのは平成11年以降のことである。

デビューから1年あまりで三段目昇進


初土俵を踏んだ中山は173㌢115㌔。のちの堂々たるアンコ型を思えばまだまだ小さいものの、過去2回の主人公がなかなか100㌔に届かず苦戦したことを思えば、デビュー時点にして堂々たる体つきと言えるだろう。

当時の間垣部屋は、引退してから3年ほどの人気横綱が経営する効果もあり、20人前後が在籍していたものの、部屋頭の本松を失い、一番弟子の大雪山も三段目中位まで番付を上げたかと思いきや怪我で挫折するなど、質の面ではまだまだ。三段目力士を輩出することすら苦労していたが、昭和62年になってようやく金本(のち十両・若闘将)、林(若乃嶋、のち幕下)らが台頭。7月にはデビュー1年あまりの山中山も三段目昇進を決め、有望力士の一員に加わった。

「善行力士」として評判に


新三段目場所で大きく負け越すも、翌場所の大勝ちで取り戻し、その後は三段目で連続の勝ち越しを続ける山中山。体重もこの時期には130㌔台を突破し、押し相撲向きの体型を一層進化させながら成長の時期を謳歌していた。

土俵外ではこんなことも。まずは以下の記事をご覧いただこう。


2月13日
☆午前7時すぎ、大阪府堺市中田出井町の南海電鉄高野線浅香山6号踏切で難波発三日市町行き下り電車と、会社員Aさん(筆者註:記事中には実名で記されているが、ここでは伏せておく)運転の乗用車が衝突。車は大破して線路内に取り残された。
三月場所のため近くのタクシー会社寮を宿舎にしていた間垣部屋の若大将、山中山、伊集院の3力士が騒ぎを聞いて駆けつけ、駅員ら8人ほどでも動かなかった約1.2㌧の乗用車を、3人そろって線路の10㍍外へと撤去した。

『相撲』昭和63年3月号「角界ニュース(107頁)」


この「押し出し」によりダイヤの遅れを最小限に食い止めたため、近くの桃山学院大で実施予定の入試が無事に行われたとして、大学側は20日、3力士に日本酒一斗樽を贈呈(ソースは上掲分と同じ)。
また、3月12日には協会からも表彰を受け、二子山理事長から金一封が贈られた(『相撲』昭和63年4月号「角界ニュース」132頁)。

俄然「善行力士」と評判になった3人の取組内容は専門誌でも多く載せられることに。ここまで情報が全然なく、書こうにも書けなかった「本業」の話にやっと目処が立ち、筆者もやれやれの心境である。

土俵でも満点の”善行力士”
▽二日目
三人の”善行力士”のうち、この日は山中山(間垣)の出番。頭から当たって、立ち合い勝ち。後手に回った国見山(友綱)がまともに引くところをつけいって、そのまま”電車道”で押し出した。「こんどは土俵の上で表彰されたい」という山中山だ。秋場所六勝一敗、九州場所、初場所四勝三敗の山中山である。

『大相撲』昭和63年4月号114頁

▽三日目
(前略)山中山はこの日もいい相撲。頭から当たってそのまま右を差すと速攻で寄り切り。雲の湖(北の湖)にまったく力を出させなかった。

『大相撲』昭和63年4月号114頁

▽五日目
(前略)山中山は旭浪(大島)をもろ手突きから一気に押し出し。満点相撲だ

『大相撲』昭和63年4月号114頁


成長と挫折

ライバルの幕下昇進に奮起


善行表彰を受けた昭和63年春場所、山中山は自己最高位の西37枚目で4勝3敗と勝ち越し、翌場所は西19枚目へと進出する。しかし、この場所を3勝4敗と負け越すと、名古屋場所前の稽古中に左膝の靭帯を痛め、入門以来初の休場を余儀なくされた。
秋場所の番付は一気に序二段目前まで降下、その地位でも4勝3敗と一点の勝ち越しにとどまったが、徐々に復調し、元年初場所には西49枚目で6勝1敗。春場所東3枚目で一度跳ね返されるも、名古屋場所、西6枚目で勝ち越し、入門から3年半にして幕下昇進を果たす。

63年後半~元年前半にかけて、山中山が怪我で番付を落としている間に、兄弟子の若乃嶋、金本(新幕下を機に若闘将と改名)が立て続けに新幕下を決めたことも発奮材料になったことだろう。
この時期、所属力士の人数も30名を越え、れっきとした大所帯に。創設7年目を迎える部屋をいよいよ軌道に乗せるべく、幕下を張る「3羽ガラス」の出世争いが始まろうとしていた。

番付も体重も急上昇


平成元年秋場所、新幕下場所で4勝3敗と勝ち越した山中山。驚いたのが7月→9月にかけての体重で、139.5㌔→150㌔にまで大幅に増えているのだ。例のごとく、ピンポイントでこの時期に・・・ということなのかどうかはさておき、175㌢、150㌔の体はアンコ型の王道を行く堂々たる威容。九州場所4勝、2年初場所5勝と快進撃は続き、番付の面でも急上昇の波が一気に押し寄せていた。

この時期の評論を以下に纏めて取り上げる。

若手成長株、山中山に熱い期待
◇・・・間垣親方(元横綱・二代目若乃花)が”若手成長株”としてまず名前を挙げたのが幕下東38枚目の山中山(栃木県出身)。
「積極的にけいこをするようになった。腰はドッシリと重たいし、体質的にもいいものを持っているね。ひところのケガ続きもなく、それだけ、けいこも集中して気合が入っているからだろう。重心が低いので、下から攻める動き、特に押し相撲の形で何とか伸ばしてやりたい」と親方も目を細める。(後略)

『相撲』平成元年12月号 154頁

”三羽ガラス”ともに好スタート
◇・・・「オレが(関取)一番乗りをする。負けられない」とお互いにライバル意識を燃やしているのは幕下”三羽ガラス”の山中山、若闘将、若乃嶋。
5日目の土俵。若乃嶋がベテラン・小金富士(放駒)を一方的に押しまくると、若闘将が外小股で勇鵬(大鵬)を一蹴し、しんがりの山中山は一気の押し相撲で龍勇児(三保ヶ関)に快勝。それぞれ持ち味を出しての白星に、間垣親方(元横綱・二代目若乃花)も「いい方向に進んでるね」とニンマリ。
(『相撲』平成2年2月号)

『相撲』平成2年2月号162頁

『相撲』平成2年3月号では「幕下以下話題力士訪問 あすなろのうた」に登場。当時19歳の初々しい語り口を見て取ることができる。

(前略)「親方には”アゴをあげるな、ワキを締めろ”と注意されてます。目標とするのは北勝海関です」
その憧れの人・北勝海に胸を借りたことが一番うれしいことだという。
「九重部屋の土俵が使えないときがあって、両横綱がうちの部屋に出げいこに来たんですよ。何番か胸出してもらったんですが、嬉しくてけいこのあと『北勝海関にさわっちゃった!スゴイなあ』と大騒ぎ(笑)。そうそう、千代の富士関の胸も借りたんですが、『お、いい押ししてるなあ』って言ってくれたんです。それも記念ですね」

『相撲』平成2年3月号121頁

成長期を襲った腰の爆弾


この後の山中山はしばし浮き沈みの激しい時期を過ごすことになる。
平成2年春場所で自己最高位の東16枚目に躍進するも、2勝5敗が2場所続いて忽ち三段目に逆戻り。7月からは巻き返しスタート、4場所連続の勝ち越しで平成3年春は初の15枚目以内進出(東13枚目)、その番付でも5勝2敗と勝ち込んで、翌夏場所は一桁(西7枚目)にまで番付を上げた。

体重をさらに増やして156㌔。いよいよ十両を視界に捉えての夏、その結果は・・・
1勝6敗の大敗に終わった。もっとも、そこまではよくある話、弱冠二十歳の若武者にとっては勉強の場所と呼べるのだろう。
苦難が待っていたのは場所後の6月、師匠の間垣も現役時に苦しんだ腰痛の発症である。

「(前略)稽古中に急に痛くなって、塩原の温泉病院に3回入院した」という。
横綱・柏戸が再起、全勝優勝を飾った病院が故郷にあったわけだ。
「親方とおかみさんが、そこを探してくれたんです。ヘルニアの一歩手前だった。稽古できないから四股と鉄砲だけで、休まないで場所だけ取ったが、相撲が怖くてしょうがなかった」と振り返る。

『相撲』平成4年2月号 76頁

負け越しが続いた3年秋場所には四股名を飛中山(由来は不明)と改めるも悪い流れは止まらず。翌九州場所、三段目陥落とともに早々と元に戻したが、またも負け越し、4年初場所は西三段目38枚目まで番付を落としてしまった。
上記記事にある通り、本場所には出場を続けていたので、星取表だけを見ていると、2年春~夏にあった不振がさらに長引いただけのようにも見えるが、当時とは様相を異にする重度の腰痛が成長期のホープを襲っていたのである。

山中山にとって救いだったのは、師匠のはからいもあり、地元の病院を拠点に療養できたことだろう。かつて柏戸の心身を癒やした塩原の人と風土が山中山の支えになっていた。

「やめようと思ったことも、何度かあったけど、地元の人たちが応援(見舞い)に来てくれた」のを支えに頑張った。

『相撲』平成4年2月号76頁

番付も下りくだりて、時は平成4年1月。いまだ腰の状態も安定しきらぬ中ではあるが、この場所から山中山一世一代の快進撃が始まる。


十両栄進までの道

再起の三段目優勝を機に上昇


平成4年初場所、腰痛の影響で三段目中位まで番付を落とした山中山は、さすがに地力が違ったか連戦連勝。9日目に同学年の対馬灘(のち幕内・出羽嵐、出羽海、故人)、11日目には1歳年下の北桜(のち幕内、北の湖、現式秀親方)と、後年幕内力士となる二人から勝ち星をあげると、勝てば優勝の13日目はベテランの大島山(井筒)戦。立ち合い突き勝ってからの叩きで簡単に沈め、自身初の各段優勝を飾った。

師匠の間垣によれば、腰の状態は依然芳しいものではなく、優勝した場所後も塩原へ治療へ通う日々は続いていたとのこと(『相撲』平成4年3月号105頁)だが、幕下復帰を果たした翌場所以降も快進撃は続く。
春場所東26枚目、夏場所は西17枚目で連続の5勝2敗。自己最高位タイの西7枚目で迎えた名古屋でも、12日目に前々回の主人公・福之里(立田川)を突き出して勝ち越し、秋場所は初の5枚目以内(西5枚目)進出だ。
腰への負担を考えればどうなのかという気もするが、この時期、体重は160キロを越え、押しだけで勝負をつける相撲が格段に増えてきた。

環境の面でも発奮せずにはいられない要因がさまざま。一番は兄弟子の若闘将が平成4年名古屋場所で部屋第一号の関取となったこと。それに加え、4年夏には弟弟子の若展竜(平成元年九州初土俵、のち幕内・五城楼、現濱風親方)が前場所の三段目優勝で幕下10枚目までジャンプアップしていた。
所属力士数はいつの間にやら40人前後で推移するようになり、角界有数の大所帯となった間垣部屋。
ハワイ出身の大和(のち幕内)・男波(若力)兄弟や、鳴り物入りで入門した阿嘉(のち幕内・若ノ城)らにも追いかけられる活況が確実に山中山を刺激していた。
同期生で見ても、第1号関取の大鈴木(豊富士)が十両で頑張るほか、4年初場所には巌雄が第2号に。1場所遅れ(昭和61年夏場所初土俵)の巴富士(九重、最高位小結)が4年名古屋で新三役に上がったことも、気にならないわけはなかっただろう。

腰の爆弾という拭い去れない不安を、体に負担をかけぬ取り口と気力とでカヴァーしながら、平成4年を4場所連続で勝ち越してきた山中山。いよいよ西5枚目で迎える秋場所がやって来た。

22歳の新十両昇進


平成4年秋場所、山中山は7日目を終えて2勝2敗の五分。西5枚目という番付を考えても、この時点で場所後の昇進については頭になかっただろう。
しかし、10日目若道山(二子山)を押し出し、12日目若足立(のち幕内・朝乃若、現若松親方)を引き落として勝ち越しを決めたあと、十両昇進をめぐる争いは混沌とし始める。

12日目
・元関脇逆鉾(先代井筒親方、故人)と栃天晃(春日野、最高位十両)の幕下陥落が濃厚に。
・幕下東2枚目玄海(朝日山、元十両)は十両佐賀昇(押尾川、元幕内)に敗れて負け越し。

13日目
・幕下で唯一全勝の東12枚目大翔龍(大鵬)が東8枚目5-1の成松(のち小結智ノ花)に敗れ、優勝と新十両昇進を逸する。
これにより、東筆頭で4-2の星安出寿(陸奥、最高位十両)と、この日6勝目をあげた東3枚目駒不動(放駒、元幕内)の十両昇進は当確。
・新十両星誕期(陸奥、最高位十両)が幕下東4枚目の若足立に敗れ、幕下陥落濃厚に。勝ち越した若足立は十両昇進へ望み。

14日目
・俄然チャンスが出てきた山中山は2枚上(西3枚目)の太田(若松、のち十両朝乃涛)と対戦し、寄り切りで勝って5勝目。
・幕下西2枚目の力桜(鳴戸、のち幕内)が佐賀昇に敗れて負け越し。佐賀昇は十両残留が決定的になった・・・かに思われた。

千秋楽
・十両の一番下(西13枚目)に在位しながら後半以降なぜか全然幕下と組まれず、7-7の新十両秀ノ海(三保ヶ関、最高位十両)が勝ち越して残留決定。佐賀昇はすでに昇進濃厚の星安出寿に敗れ、下に3枚で6勝9敗。


この結果、十両ー幕下昇降は
昇進 星安出寿 駒不動 山中山or太田
陥落 逆鉾(引退)星誕期 栃天晃

という形になったと見られ、山中山としては3枠目で太田ときわどく競り合う情勢だったが、直接対決での勝利も効いたか、9月30日、番付編成会議の結果、晴れて新十両昇進の朗報がもたらされた。

もっとも、話題の中心は予想外の新十両昇進となった成松改め智ノ花。東8枚目の6勝にも関わらず、(十両)西10枚目6勝を上回ったのだから、陥落した佐賀昇には気の毒としか言いようのない案件である。
百歩譲って佐賀昇を落とすにしても、上がる対象は太田ではないかと思うのだが、本題から逸れるので、これ以上の言及は控えることとしよう。

話題性で智ノ花に喰われる格好になったとはいえ、初土俵から7年足らず、22歳で掴んだ新十両の喜びは同じ。間垣部屋としても、創設8年半でやっと誕生した若闘将から僅か2場所の間隔で第2号が誕生し、長年の苦労が一気に実りつつある、そんな時期を謳歌していた。

その後の山中山

新十両場所は大敗で出直し


平成4年九州場所、新十両山中山は身長176㌢・体重169キロの見事なアンコ型。
この場所の取組として、関取として初白星をあげた3日目熊翁(高砂、最高位十両、故人)戦の手さばきを記しておこう。

0-3熊翁(寄り倒し)山中山1-2
山中山はやや深みがかった緑色の締め込み。対する熊翁は紫のイメージも強いが、この時期は鮮やかな空色を締めている。山中山よりも5歳年上、十両在位はこの時点で10場所を越える中堅力士だ。

ほぼ同じ身長で体重は山中山が50㌔近く上回る対戦。熊翁は中に入って相撲を取りたいので、立ち合い右で張ってもろ差しを狙う。山中山が左で相手の肩口あたりを押し、右からも弾いて距離を取るところ、熊翁構わずあてがいながら黒房方向へ強襲。山中山俵に詰まるも、踏み堪えながら左で相手の右を抱え、右は浅く覗かせた相手の左を下から持ち上げるような突き落としで泳がせる。
山中山、流れのまま青房へ攻めんとするところ、熊翁は左を抜いて山中山の左を手繰り、右で上手を探って回り込む、令和4年春場所優勝決定戦での若隆景のような動きで逆転を図るも、山中山、落ち着いて手繰られた左を突きつけながら腰も寄せて挽回を許さず。最後は左肩をぶつけるようにして潰し、3日目にして嬉しい初日。温厚さがにじみ出た丸顔に安堵の表情が浮かんだ。

難しい1勝を比較的早く手にした山中山だったが、その後は慣れない十両の土俵で大苦戦。10日目芳昇(熊ヶ谷、最高位十両)に叩き込まれて早々に負け越した。
12日目に佐賀昇を極め出し、千秋楽には同期生豊富士を押し出すなど、終盤はやや持ち直した感もあるが、トータル4勝11敗の大敗。1場所での幕下陥落が濃厚となってしまった。

「いい勉強になりました。調子が出るのが遅かった。勝とうという気持ちが強すぎたみたい」と出直し宣言。
(『相撲』平成4年12月号 75頁)

幕下上位を往復するも・・・


十両東13枚目(下に半枚)の番付で「負け越し7」にも関わらず、翌場所の番付で幕下西10枚目まで落とされるという現在では考えられない(5枚目以内残留は確実だろう)編成を食らった山中山だが、その場所(5年初)4勝、春場所も西6枚目で6勝とすぐに挽回し、夏場所は東筆頭。しかし、前半から十両力士と連戦が組まれた(4番相撲までの間に3番)割運もあってか2勝5敗と崩れると、秋場所には西21枚目まで後退。ここでは格の違いを見せつけ6番勝つのだが、腰の具合は思うに任せず、苦心の土俵が続いていた。その時期の体調を見て取れる記事があるので、以下に引用する。

「今場所も、一番も稽古していない。腰さえ治れば、一番稽古するのに、それができない。痛さで泣いている。可哀想でね。自分でも歯がゆいだろうよ。やめた若闘将(筆者註:平成5年春を最後に十両の座を明け渡し、秋場所限り引退)なんかとは、性格が違うからね。顔を見たら、やりたくてもやれないんだから、怒れないよ。治ればいいんだけどね」
と、親心をのぞかせて表情を曇らせながら話すのは師匠・間垣親方。
(中略)13日目、荒ノ波(武蔵川)を突き合いから、右を伸ばして黒房へ押し出して6勝目。十両カムバックが待たれるところだ。

『相撲』平成5年11月号 82頁

その後の山中山は、幕下5枚目以内に入っては負け越し、6~10枚目に落ちては勝ち越し・・・のサイクルを1年半。上位に定着しながら十両復帰には今一歩届かない時期を過ごす。
上記のような腰の状態は大きく上向くことなく、にも関わらず幕下上位で勝てるのだから、間違いなく強かったのだろうし、年齢的にもまだ20代半ばと取り盛りではあった。

しかし、そういった常識もあくまで体が元気であってこそ。稽古で磨き上げることのままならない情況では力を伸ばすことはおろか維持することも難しい。
五城楼、大和、阿嘉ら期待の若手がそれぞれ怪我や停滞によって番付を伸ばしきれない中、平成7年前半頃まではなんとか幕下上位で頑張っていたが、大和が7年春、五城楼が同7月、阿嘉(十両昇進を機に若ノ城と改名)が同9月と立て続けに新十両昇進を果たす中、山中山はとうとう定位置を明け渡し、中位~下位へ後退。
平成8年夏にはおよそ4年半ぶりに三段目へ落ち、二度と幕下に復帰することはなかった。
最終場所は、前場所の全休によりおよそ10年ぶりの序二段在位となった平成9年春場所。この場所もすべて休み、場所後に引退届を提出。こうして、間垣部屋第2号の関取・山中山は静かに土俵を去っていったのである。


さて、次回いよいよ最終回。山中山から1場所遅れでデビューしたその力士は、山中山引退の平成8年前後、立て続けに最高位を更新し、幕下中位へ進出。まさに伸び盛りの時期を迎えていた。
これだけでも、「早熟と晩成、それぞれの相撲人生がある」と書きたくなるものだが、話はそこで終わらない。
いろいろな意味で桁違いの土俵人生を体現した次回の主人公、遅咲きの花が開くまでの長い物語を楽しんでいただければと思う。

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