押尾川部屋の歴史

令和4年1月27日、理事会で尾車部屋の閉鎖が決定。同時に部屋付き・押尾川の独立も承認され、2月7日からいよいよ新部屋の経営が始まる。
ところで、創設メンバーの中に名前がある飛燕力は、元々大関・大麒麟の押尾川部屋に入門した力士。平成17年の部屋閉鎖で尾車部屋へ移籍し、以降「旧押尾川最後の現役力士」として長く頑張ってきたが、今回の部屋新設により、およそ17年ぶりの「押尾川部屋」所属となった。
そこで、今回は大麒麟の旧押尾川部屋について、その歴史を振り返ってみたい。


難産の末の独立

もはや昔話はおろか歴史になってしまった感もあるが、「押尾川の乱」と称される二所ノ関部屋からの独立問題はこじれにこじれて泥沼化。最終的には幕内・青葉城(のち関脇→11代不知火として押尾川部屋付き年寄に)以下6人を引き連れての部屋創設が認められるも、移籍を許されず意気消沈した幕内・天龍の廃業という悲劇をも生んでしまった。
この騒動について詳しく書き始めると、それだけで先発の「友綱部屋の歴史」2回分に匹敵しかねないのでひとまず措いておくが、いずれ相応の時間と労力をかけて取り組みたいと思う。

多数の幕内力士を輩出

難産の末の独立劇には当初厳しい目も向けられたが、各自の個性を的確に伸ばす押尾川の手腕は間違いなく一級品。関脇・益荒雄を筆頭に8人(独立当初すでに幕内力士だった青葉城を含めれば9人)の幕内力士を育て上げ、一代で独立元の二所ノ関(あるいは二所ノ関部屋の先輩・大鵬)を上回るほどの勢力を築き上げた。
惜しむらくは、益荒雄騏ノ(乃)嵐という大器が怪我によって豊かな前途を閉ざされてしまったことだが、上位初挑戦場所で3大関を倒した遅咲き恵那櫻、児童養護施設の出身で苦労して幕内に上がった佐賀(嘉)昇、蹴手繰りの一芸が印象深い日立龍、甚句の名手としても知られた大至ら、取り口も体型もバラバラな力士たちがそれぞれのスピードで出世し、たとえ大きく地位を落としても我慢強く再起していった姿は、好角家の心に見かけの最高位や成績以上の記憶を残している。

1代での幕引き

晩年に至っても、若兎馬若麒麟壽山など関取の輩出は続いていたが、出世頭の益荒雄とは独立の際に揉め、それ以外の候補は青葉城の不知火を残して全員が協会を去っていたため後継者は不在。ひとまず6歳年下の不知火に受け継ぐ道も採りうるところ、押尾川は停年まで3年ほど余裕があった平成17年3月いっぱいでの部屋閉鎖と尾車部屋への合流を決意。こうして繁栄を謳歌した押尾川部屋の歴史は一代にして静かに幕を下ろしたのである。
令和2年、益荒雄の阿武松が相撲協会を退職したことにより、押尾川の直弟子で協会に残るのは、冒頭で記した飛燕力に加え、呼出の3人(二所ノ関部屋の禄郎、大嶽部屋の志朗&吾郎)と錦戸部屋に移籍した床山1人(床中)の5人だけとなってしまった。

新押尾川部屋の創設にふれて

元豪風の22代押尾川による今回の押尾川部屋創設、そしてその立ち上げメンバーに旧押尾川部屋出身の飛燕力がいることは、大麒麟時代を懐かしく思い出させるキッカケとなった。
このようなケース、すなわち「直弟子によらない、かつての直弟子を引き連れての独立」というパターンは珍しく、14代春日山(藤ノ川)弟子の大昇が部屋閉鎖によって立浪部屋へ移籍、その後、15代春日山となった名寄岩の独立に同行した事例が思い起こされる。
今回のケースを、あえて再興と呼ぶ必要はなさそうだが、あくまで1ファンの勝手な願いとして、旧押尾川部屋の流れを汲む飛燕力には、新押尾川のもと1日でも長く頑張ってほしいもの。
来る3月場所、会場に響く「押尾川部屋」の場内アナウンスが今から待ち遠しい。


参考資料
小池謙一 年寄名跡の代々 押尾川代々の巻  『相撲』平成8年1月号
「我が相撲人生に悔いはありません」審判部長を花道に退職した押尾川親方(元大関大麒麟)の述懐 『相撲』平成18年8月号

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