さらっと読める【ニッチな<立体>世界史】大学受験と「遊牧民族」

「遊牧民族」というと世界史の中で、時間をかけて扱われることはありません。しかし、世界史の中で大きな影響を与えてきました。今回は、この遊牧民族に焦点を当てて、世界史の問題にアプローチをしたいと思います。

●移動する民ってかなり重要な役割をしているのでは?

現在のような通信手段がない時代、「他国」の情報を得ることは難しく、もっと言えば「他国」の存在すら知ることができないかもしれません。

そのような状況で、陸を渡り、海を渡り、知識や宗教などを広める役割を果たしたのが「移動する民」です。実際、我々が使っている「漢字」「ローマ字」「仏教」「キリスト教」…はすべて外国から伝わったものです。

文明同士の媒介者となり、時には発展を、時には混乱をもたらしたのです。その視点で見てみると、遊牧民に対するイメージ変わるでしょう。

●なぜ、遊牧民は遊牧するのか

紀元前3000年ごろ、黒海やカスピ海の北部地域で気候変動が起こりました。乾燥化が原因で、広葉樹林が草原地帯へと変化していきました。この時に、農耕生活から羊や馬などとともに草原を移動するようになった人々が「遊牧民」のはじまりと考えられています。

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●騎馬技術に優れた遊牧民「遊牧騎馬民族」

遊牧民にとって馬は最も重要な移動用手段です。それだけでなく、農耕民(定住型の民族)との戦闘になった時にも、騎馬技術が重要な戦力となりました。特にユーラシア大陸内陸部で重要な活動しました。

「人が馬に乗る」というのはアタリマエと考えてしまいますが、初めのころは乗馬の技術は未発達で、二輪戦車のようなものが主流でした。

チャリオット

よく考えてみれば、人が動物に乗って操縦するってスゴイことだと思いませんか?牛の背中に乗ったり、くまの背中に乗ったりすることってイメージできませんよね?さらに馬の上で武器を持ち、戦闘するようになれば、それは最強です。

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●世界史で最初に出てくる遊牧騎馬民「キンメリア人」

キンメリア人という名は耳慣れませんが、映画やゲームにもなっています。「スキタイ民族」を「世界史に初めて登場する遊牧民」とする説もありますが、参考書などでは「キンメリア人」とするものが多いです。

キンメリア人は、紀元前1000年頃、黒海北岸の草原地帯にいたと言われています。東方から移動してきたスキタイ人に押し出されるように、紀元前8世紀にカフカース山脈を越えて、小アジア(アナトリア半島)に入ります。
(関連:「小アジア」はなぜ「小」なのか)

キンメリア

(出典:https://japaneseclass.jp/)

実は、スキタイ人にはスキタイ人の事情がありました。

スキタイ人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方に移ったという。今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。
— ヘロドトス 第4巻11

キンメリア人はスキタイ襲来に先立ち、王族側の徹底抗戦派と民衆側の逃走派に分かれました。(原始的な遊牧民のイメージですが、意外にも、「王族」と「民衆」という階級社会がすでに存在していたのです。)

そして、王族側が国土をすてて逃走するより祖国で死んだ方がいいということで、全員殺し合って死亡した。残った民衆側は王族たちの遺骸を埋葬すると、海岸沿いに逃げてアジアに入り、スィノプのある半島に落ち着いた。スキタイはキンメリア人を追ってカフカス山脈を右手にしつつ南下したが、道を誤ってメディアの地に侵入した。(出典:Wikipedia)

今のワタシたちには、理解が難しい行動もありますが、「道を間違えて」というのは分かりますね。地図もなければ、GPSもなく、天文学の知識もありません。むしろ、目的地に正確に移動することの方がすごいですね。

さて、キンメリア人ですが、小アジアに侵入したアッシリア帝国を脅かすものの、消滅するにいたります。

●スキタイ人

紀元前6世紀から黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系騎馬民族。キンメリ人を征服して,南ロシアの草原に強力な支配体制を築き上げる。

前 513年にはアケメネス朝ペルシア(遊牧国家)のダレイオス1世の遠征軍を撃退。前4世紀には統一的な大王国(スキタイ王国)を形成。

スキタイ王で最も著名なアテアス王は、前 339年マケドニアのフィリッポス2世と戦った。前300年以降はケルト人に圧迫されはじめ,前260年頃からは東のサルマート人の侵入があり,一部がクリミア半島など避難した後、東ゴート人によりスキタイ王国は滅ぼされたと言われています。

「スキタイ文化」の3要素として馬具,武器,動物意匠 (美術) において独特の発達をとげる。

●スキタイの記録と匈奴との交流

”歴史の父”と言われるヘロドトスはペルシア戦争をテーマに『歴史』を著しました。その中にスキタイ人に関する記述もあります。350年後に「史記」を著した司馬遷(ヘロドトスに比肩する歴史家)の中にも出てきます。

スキタイ人は文字を持たなかったため、『歴史』や『史記』の資料と古墳などの考古学的分析により解明が進められています。

スキタイの騎馬の技術は、他の遊牧民族にも伝えられ、その中の1つが匈奴となり中国の強敵となるほどの強大な国家をつくりあげます。

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(出典:https://sekainorekisi.com/world_history/スキタイと匈奴)

東方の草原地域における遊牧民の軍事化・組織化は西方と比べ大きく遅れていました。ようやく4世紀になって、スキタイの影響を受けて騎馬遊牧民と変化していきました。とくに匈奴は強大な遊牧国家を建設し、中国の強敵にいなるほど発展しました。

匈奴に圧迫を受け移動したタリム盆地東部にの月氏(げっし)、天山山脈方面にいた烏孫(うそん)も有力な騎馬遊牧民でした。彼らは部族的統一を進め強大化した、農耕民にとって極めて大きな脅威となりました。

●匈奴の発展

目覚ましく台頭したのは匈奴の王冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう)でした。

匈奴「中華」を統一した前漢の劉邦を白頭山で破り、一時期は前漢を完全に圧倒。「10進法による軍事・政治・社会組織」「君主を中心とした左右両翼体制」など「遊牧帝国」の原型をつくりあげました。

●匈奴に関連するエピソード

皇帝劉邦は、楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たし、匈奴へ備えるために韓王信を馬邑に派遣します。匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を進言します。しかし、裏切りと見なされてしまった韓王信は、自分の軍達とともに匈奴に投降します。そして、匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んでいきました。

劉邦は平城で匈奴を迎え討ちましたが、匈奴軍の偽装退却にだまされて白登山で包囲されます。7日間包囲された劉邦は陳平の献策に従い、贈り物をすることで、包囲の一角を開けさせ、命からがら長安に逃げ帰ることが出来ました。

その後、匈奴に敗れた劉邦は、匈奴へ貢納物を献上するという屈辱的な和平を結びます。その後、武帝の即位まで漢は匈奴に属国扱いされることになります。

その匈奴はやがて東西に分裂した後に南北に分裂。北は西進して「フン族」になったという説があります(未だに決着はついてません)。

●フン族のインパクト

フン族は、4世紀から6世紀にかけて中央アジア ・ コーカサス・ 東ヨーロッパに住んでいた遊牧民。370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立。

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フン帝国は中央アジアのステップから黒海からバルト海まで拡がる

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フン族を描いた19世紀の歴史画

フン族は多くのゲルマン民族を征服し、その他の民族をローマ領土への逃亡に追い込みました。特にアッティラ王の下で、 東ローマ帝国に破壊的な襲撃を頻繁に行いました。 
 ○ 451年:フン族は西ローマ帝国のガリア州に侵攻、カタルーニャ原野の戦いローマ人とゴート族の連合軍と戦い
 ○ 452年:イタリアに侵攻
 ○ 453年:アッティラの死後、フン族はローマにとって大きな脅威となることをやめ、ネダオの戦いで帝国の領土の大部分を失う

●一方、南匈奴は、長城の内に領土を広げる

南匈奴(みなみきょうど)は、南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許されました。後漢とともに北匈奴鮮卑と戦いました。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えます。304年に劉淵(りゅう えん;五胡十六国時代の漢(後の前趙(ぜんちょう))の創建者)が漢王を称して西晋(せいしん)から独立し、五胡十六国時代が始まります。

※前漢が匈奴に皇女を嫁がせていた関係から、南匈奴出身の劉淵は、匈奴でありながら、漢王家の血を受け継いでいました。

~304年鮮卑帝国
304年~329年
画像8(トムル - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=21354550による)

東胡(とうこ)は中国,春秋時代頃からモンゴル高原東部にいた狩猟・遊牧民族。秦代にはモンゴルの西方の大月氏 と並ぶ強力な勢力を持ち,匈奴を圧迫する。しかし、秦朝(しんちょう)(紀元前221年から206年)の末期、冒頓単于に打破され服属することになる。後漢に現れる烏丸(うがん),そして鮮卑(せんぴ)は東胡の後裔と言われています。

●五胡十六国時代

匈奴・鮮卑・羯・氐・羌は当時の代表的な遊牧系民族(非漢民族)のこと

 ●匈奴は前趙・夏・北涼

○前趙(ぜんちょう;304年 - 329年)ー 建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している
(か、407年 - 431年)ー匈奴鉄弗部(てつふつぶ)の赫連勃勃(かくれん ぼつぼつ)よって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。
北涼(ほくりょう、397年5月 - 439年9月)ー国号は涼(りょう)。

 ●鮮卑は前燕・後燕・南燕・南涼・西秦

前燕(ぜんえん、337年 - 370年)ー正式な国号は大燕だが、同時代に燕を国号とする国が複数存在するため、最初期に建てられたこの国を前燕と呼称して区別している。
後燕(こうえん、384年 - 407年)ー華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。
南燕(なんえん、398年 - 410年)ー国号は燕。
南涼(なんりょう、397年 - 414年)
西秦(せいしん、385年 - 431年)

 ●羯は後趙

後趙(こうちょう、319年 - 351年)ー中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単にだが、同時代に劉曜が同じく国号を趙とする国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。また、石氏の王朝のために石趙とも呼称される。

●氐は成漢・前秦・後涼

成漢(せいかん、304年 - 347年)ー巴氐族(巴賨族、氐族の一種)の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される。
前秦(ぜんしん、351年 - 394年)ー氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。
後涼(こうりょう、384年 - 403年)は、氐族出身の呂光によって建てられた国。

 ●羌は後秦

後秦(こうしん、384年 - 417年)ー羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。

 ●漢族が前涼・冉魏・西涼・北燕

前涼(ぜんりょう、301年 - 376年)ー漢族の張軌によって建てられた国。建国年については諸説ある。同時代に涼を国号とする国が複数あるため、最初期に建てられたこの国を前涼と呼んで区別している




匈奴、突厥、モンゴル

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