12月の聖書タイム「光を求める旅人たち」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれる。ひとりの男の子が、わたしたちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」ーーーイザヤ書9:2、6-7

上記の聖句はキリスト誕生から約700~600年前に預言者イザヤによって記されたイザヤ書からの引用です。今年もクリスマスが巡って来ました。と同時に2023年は終わりを告げようとしています。一年はあっという間に過ぎ去り、時間は蒸発してしまったかのよう。それなのに、やることだけが山積みというのが年の瀬です。これは何回繰り返しても学ばない人間の性(さが)を物語るようなものでしょうか。そんな時、忘れてはならない大切なことがあります。なんでしょう?

いろいろとあったこの一年、その「いろいろ」はまだ続き、来年に持ち越しになるかもしれません。それでも、どうにかこうにか、1年を過ごしてこられたのは、自分が偉かったからでしょうか?いえいえ、友人や隣人や家族や見知らぬ人たちの見えない善意に支えられました。その一人一人の助っ人はまた、主が、あなただけに特別に送ってくださった「エンジェル」たちです。また聖書の言葉によって励まされ、救われたこともあったはずです。そう、主は「こんな自分」を今年も見捨てずに深く愛してくださり、助け育てようとなさってくださいました。手品のように試練を取り去るのではなく、その只中で私の右腕を握り、共に歩いてくださり、私たちがどんな時も希望を失わず、渦中を雄々しく喜んで歩いていけるよう訓練してくださいました。私たちが暗闇の中にいても、光に焦点をあてて生きていけるように、何度も何度も光を指し示してくださいました。

人は光を求めています。黄昏の道では街灯の光が心にしみます。淋しい山里に人家の光を見たら、ほっとした気分になるでしょう。「愛する人」に出会った時は光を見たと思ったり等々、光は人に生きる希望を与えます。イザヤ書には次のような下りもあります。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」ーーーイザヤ書60:1-2

今から2000余年前、あかりと言えば焚き火しかなかった暗黒の中で野宿をしながら寝ずの番をしていた羊飼いの男たちがいました。と、そこへ突然、割り込むように大きな光が天に忽然と現れました。そんな光に、羊飼いたちは「ほっと」するどころか驚愕しました。今まで見たこともない特別な光だったからです。キリストの誕生を知らせる光を見た彼らは「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」ーールカによる福音書2:16と言い合い、羊の群れを伴いすぐ旅立ちました。

一方、東の国、今のイラク周辺に住んでいた3人の男達も、大変に不思議な光を空に見ました。彼らは当時の天文学者で、いわゆる占星術、星を見て未来の兆候を予測するという学者たちだったようです。彼らも、ラクダの背にまたがり、迷わずに星を追って旅立ちました。彼らは言いました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」マタイ:2-2


羊飼いも学者たちも、光に焦点をあて、光に従ったのでベツレヘムの馬小屋の中、母マリアとヨセフに見守られ飼い葉桶の中でスヤスヤと眠る小さな赤ちゃん、救い主イエス・キリストを見つけることができました。このキリスト誕生に招かれたのは、羊を守るためにお宮参りもできず「汚れている」と律法学者たちから蔑まれていたユダヤの羊飼いたち、汚れたものを口にすると毛嫌いされていた異邦人の3人の博士たちでした。


羊飼いたちは蔑まれている者、貧しい者(心も含む)、いわゆる、この世の尺度から見れば弱者だったでしょう。天文学者たちはどうでしょうか?赤ちゃんキリストに高価なプレゼントを持参し、ヘロデ王に表敬訪問するなど権力の前に堂々とした態度が取れる、プロトコールを知っていた人々と思われます。

 羊飼いと天文学者ーーーイエス様の誕生には、貧しい人達も豊かな人達も招かれたわけです。ユダヤ人も異邦人も招かれたのです。あなたはどうですか?自分の立場がどうであれ、あるいはどの階層に属そうとも、また国籍がなんであれ、私たちはキリストの御前においては「ただの人」です。この世の価値が剥奪されようとも、どんなに蔑まれようとも、あなたの「人」としての価値は神の目には尊いのです。イザヤ書43:4には次のようにあります。「私の目にあなたは価(あたい)高く、貴い」と。神の子キリストが、わたしたちと同じ人の姿をとり、この世に降りてこられ、あなたの、私の罪の汚れを拭うために十字架にかかってくださったほどに、あなたはプライスレスなのです。


羊飼いと天文学者たちの身分は「この世のヴァリュー」で見ると雲泥の差があったとしても、共通点は「光」に従って、「光」を追って旅をしたことです。「その不思議な光の導く先には何があるのだろうか?」、「救い主を、一眼で良いから、この目で見たい。」神秘に惹かれる好奇心は両者とも同じでした。

羊飼いたちが「羊を連れて行くのは大変だからやめておこう」、天文学者たちが「あまりにも遠すぎるからやめておこう」と言って旅立ちをやめていたらどうでしょう?「大事な会合があるから」、「この日は予定が既にあるから」、「買った新車のデリバリーが来週あるから」等々。私たちが羊飼いだったら、天文学者たちだったら、果たして旅立ったでしょうか?

羊飼いたちも、天文学者たちも、長いこと「光」を待ち侘びていたと思われます。イザヤ書25:9には「見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。」と記されています。彼らは探究心、本物を知りたいと願う気持ち、救い主を一眼みたいという思いに駆られ旅に出たのでしょう。毎日の生活に満ちたりている一方で、大きな不安や不満を抱えている私たちはどうでしょう?まあまあの生活、まあまあの幸せ、まあまあの給料、まあまあの仕事内容。いえいえ、自分の生活を捨てて旅立てというわけではありません。むしろ、キリストが放つ真理の光を果たして心から求めているかどうかが問題でしょう。言い訳、自分なりの妥協案を盾とする保身の私たちは、真理を求めることに実に臆病です。それもそのはず、真理を知るには出血を伴います。痛みを伴います。本物を自分のものにするためには古い自分を捨てなければならなくなるからです。

主は言われます。「私は道であり、真理であり、命である」ーーーヨハネによる福音書14:6。ご一緒に、光を放つ真理を探す旅に出ませんか?

言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」ーーーヨハネによる福音書1:4