リアルから去っていく時に持っていくもの
私たちはこれから、生身の人間ではない人に想いを募らせたり、心血を注ぐようになる。
これまでも、人は必ずしも生身の人間だけに恋していた訳ではないし、動物だって、機械や人間、人間の造ってきたものなんかに求愛したことだってあるんだろう。
深く掘り下げてみれば、どれも純粋な愛情の欠片たちで、それらは光を受けて輝くから、
尊くて、永遠のように感じてしまう。
万事がいつか消えてしまうのだと分かると、まるで光そのものも消えたように思えて、寂しくなる。
それまでの時間も、漠然と忘れていって、時々思い出すかも知れない程度の、思い出に変わっていくことを、なんとなく知っている。
楽しい時間が濃ければ濃いほど、祭りのあとのような虚しさも強くなる。
自分をいくつもクリエイトして、遺伝子に許容された以上の人たちと関わっていく中で、
既にリアルでも感じ始めていた感覚は、これからもより深くなり、強まっていく。
A Iが無限に空間も時間も無視して、私たちを取り巻いていくし、その銀河の渦のような中へ飛び込んで、本来の自分を研ぎ澄ませながらも、どこか境界線を失って、電脳に溶けていくのなら、私たちはいくつもの自分を保つ方法と、他者との心の通わせ方を持ち合わせながら生きていかなくてはならない。
単純な一期一会と、自分という存在意義。
自分と、この世界。
そこには、無限の可能性と、空中に浮かぶモヤを掌に乗せながら、台風の中を進むような不安定さがある。
私は、インセプションの駒のように、自分を確かめたり、誰かに贈ることのできる、残せる何かが必要だと思う。
詞や、歌や、絵や、音、データ化できるものならなんでも。
A Iが織りなすものは、今はまだ未熟だったり、極端に過剰だったりする。
より繊細に、精巧になっていく時、その見分けができるのは、最終的に、私は人間の目や心であると思いたい。
そのために、自分が表現できるものを持っていること、目の前にあるものを見た時に、洗脳やフェイクを超えて、ちゃんと感じることができる自分でいること。
私たちだけが持っている、五感と直感、そして、これまで触れてきたあらゆる経験で。
雪原に投げた小石のように、どこにあるか分からないほど埋もれてしまっても、
それは確かに、どこかにある、そう思えるだけでいい。
私の明日は、フリージアの香りに包まれながら、ニットを編む。
お気に入りのコーヒーを飲んで、例えば、二次元にでも恋しよう。
どれも、私が描いた現実の一部で、カケラに過ぎない。
リアルであることと、そうでないことは、もう何の隔たりも無くなった。
それでも、怯える人、壁に阻まれて見失う人たちの中から、私と同じ目をした人がいたなら、リアルな愛に手を伸ばそう。
なんとか出かけることができた日には、手ぶらで鳥たちのおしゃべりを聞こう。
彼らにしか分からない囀りでも。
欲しかったものや、必要だと思っていたものも、全てなかったことにして、
集めたカケラを音に変えよう。
私にだけあるもの。
私にだけ創れるものに。
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