叔父に送る手紙のフリをした我が半生あるいは遺書

冊子、受け取りました。
お元気でいられるようで幸いです。
まだ、読むに至っていないので感想は憚られるのでそれは後にいたします。

あの、冊子を見て思いました。
私も伝えたい、と。

随分とご無沙汰をしているので、が何をしているかご存知ないかとおもいます。

私はあたらしい名字になり13年が経ちました。
夫は派遣先で出逢ったエンジニアで、13歳年上です。
最初は都内某所に今は別の都内某所に猫一匹(11歳)と暮らしています。
3年前に、正社員になるべく努力して得たのが生命保険営業の仕事でした。
それまでは事務の派遣社員としてIT企業などに勤め、そこで出逢ったのが夫でした。
私の一目惚れです。それは間違っていなかったと本当に思います。
その後、生保営業に見切りをつけ、損害保険の営業になり、一年大手損害保険会社で研修をしたりしましたが、出向元の代理店のトラブルやらにより休職して、そのまま退職、病気療養中の今に至ります。

父がなくなり、もう随分と経ちました。
父の最期は警察署の霊安所でした。
そういうことを言ってはいけないとは思いますが、実は私は安堵しました。
結婚して数年でしたが、夫がその場に立ち会ってくれました。
夫の父もそのようにしていたようでした。

どこから話していいかはとても難しいです。

私は昔、やっぱり安堵した時があります。
13歳でした。
場所はある商業施設のトイレでした。
初潮がきた時でした。
私は体も小さく、それが一般的なのかどうかはわかりません。
でも、あの13歳の抱いた安堵は別格だと今でも思います。
当時、そこに行くことは当時の我が家(父、兄、私)のわりと幸せなお出かけでした。
だから、楽しいお出かけでした。その時、それとは全く関係のない安堵を感じました。
私は、兄に10歳から性交渉を強いられていました。
もちろん未発達な子どもで(でも兄は15歳ですか)最後までは至れていません。
でも、見せてとかそういう行為があったのだと思います。
よく覚えていないのです。
でも、13歳の初潮を迎える頃には行為があって、拒めなくて、内緒と強いられれて週に何回も行為がされました。
兄は怖くて、普段何もない時は、殴ったり、蹴ったりが普通で、もっといくと髪に火をつけようとしたり、包丁を突きつけたりもしていました。
でも、身体をどうにかするときだけは別格に優しくて拒めませんでした。
父は不在で、母は、いじめには若干加担していました。
母がいうには「外でいじめられても耐えられるようにしている」と。
兄の暴力を止めはしませんでした。
でも、兄のその行為は母も父も知らなかったと思います。
週に何度か母がいない間に行われました。
見せて、程度だったものはどんどんエスカレートしていき、挿入が普通になりました。
痛かった。
まだ、本当に未発達で、私のそもそもの身長が中学生の基準外だったらしく、健康診断票?のグラフには自分の身長も体重もないくらい私は未熟でした。
でも、行為は行われていて、私はそれが何かを知っていました。
もし、初潮が来る前に、うっかり妊娠してしまったらもう隠すことができなくて、普通じゃなく生まれた(と、当時は思っていました。多分、母にそう聞かされていたんです)父は発狂して、うちは一家心中しなきゃいけないのじゃないか、と思い悩みました。
願望であったようにも思います。
週何回も求めらる。その恐怖。
そうでなくて兄の機嫌を損ねると殴られたり、蹴られたり、包丁を突きつけられる。髪を燃やされる。
母は止めませんでした。父は不在でした。
やれらていた頃から今に至るまで、ずっとお腹が不調です。
当時は、正露丸やらで誤魔化していましたが、かなり切実でした。
母は医療機関には行かせませんでした。
今思えば、兄のジンマシンのトラウマ(兄は小6くらいの頃の蕁麻疹と診断され、ものすごく食事に制限をされ、それが低身長やらにつながったのでは? 的な)故なのかなと思います。
私にされたのは、ういろう(小田原の漢方)と梅エキスでした。
ただ、思春期の女の子にはトイレ系のトラブルは地獄でした。
でも、私はそれでも学校に行きたかった。学校には安堵があった。友達もいました。

中学の時、進路で、私はピアノの先生に祗園の舞妓になることを真剣に相談しました。
家を出たかった。
あまりうまくいってないような父親の事業のためにお金が欲しかった。
汚れた自分はもう堅気で生きていけないと思った。
祗園の芸妓になれば一生その道で行けるだろうと思った。
自分は、そういう才(性的)なのがあるのではないか、とも思った。
この頃、兄だけではなく、学校の先生にも抱きしめられたりしていたのでした。
さらに自分の外見を鑑みたら、洋ではなく和だろう、と。
ピアノの先生の旦那さんは映画監督で、その親御さんも映画関係者で、本当に祇園の置屋に縁はあった。
でも、だからこそ、と諭された。
実は、自分にあったことを最初に打ち明けたのがその先生でした。
先生は自分もそういう目に遭った、よくあることだから大丈夫。ご両親に言ったら傷つくから絶対に言ったらだめだと。それから、月謝を返してくれました。
母に渡す前に抜きなさい、と。そして何かのためにとって起きなさい、と。
先生に、続いているとは言えませんでした。
でも、17歳まで続いていました。
もちろん、わかっていました。でも、拒めなかった。
試験前に深夜起きていたりすると、求めらる。
怖かった。
私は14歳から17歳くらいの記憶が曖昧でした。というか、夢だったらいいのにな、というくらい現実感がなかった。
でも、ずっと高校にはいっていた。部活もしたし、友達もいた。
でも、毎日朝、電車の中でお腹が痛くなって途中下車してトイレに駆け込んで。
下着を汚すようなこともあって、地獄だった。
電車の中の痴漢も多かったけれど、むしろどうでもよかった。
週何回もされていた。
高校時代、私を好きだという人がいて、付き合ってみたりもしたけど、本当に辛かった。
人を騙しているみたいで。
そして、本当に心の中は荒れ果てていた。
その中で、自分を支えたのは芝居と物語で。
だから、それを目指した。早稲田に。
17歳くらいでやっと終わった。兄が新しい世界に行った。家にいなくなった。
私はだからいっぱい勉強をした。
浪人までして早稲田大学に行った。
本当に今まで悪夢の世界で生きていたのに、何冊も問題集やって、予備校の授業受けて、偏差値も上がっていった。40から70みたいなことを本当にやった。
でも、早稲田は本当にキラキラしていて、汚れた自分にふさわしくないと思えた。
浪人時代、行きたかった早稲田の演劇研究会の公演に行った。
あの、堺雅人さんがいた。
すごかった。キラキラしていた。
そのキラキラがなになのかわからず、ただ己の傷故に思えた。
早稲田に入っても、辛かった。引け目しかなかった。
自分は汚れただめな人間で価値がない、と思った。
予備校で、都内の花柳界を知った。そういうのは京都にしないと思っていたけれど、東京にもあると教えてもらった。
見番(芸妓組合)を習い、浪人時代に行った。
置屋を紹介され、面接もして、あなただったらいつでもいいよ、と言われた。
大学に入った年の10月。そこに行った。
半玉という関東の舞妓になるべく、働いた。
そのころ、父が入院した。糖尿病の指導入院で。
動揺した。
20歳の誕生日はその花柳界の料亭で迎えた。別に祝われた訳でもない。
私を欲しいという人がいた。60歳の院長先生だった。
初めて会った時から、やりたいと思った、と。
半玉になるはずが、一本の芸者になった。パトロンがついたからだ。
でも、うまく行かなかった。
思い出すのは昔の性交渉。
自分が10数歳なったような感覚に囚われた。
笑わなくて気持ち悪いと破断になった。
景気は悪かった。父の会社もうまく行っていなかった。
お前は酒飲んで金もらえていいよな、客とってこいよ、と酒を飲んだ父に言われた。
ちなみに、花柳界で働く時、父と母に兄のことを打ち明けた。
母は泣いた。泣いて、開いていた窓を閉じた。
父はなにも言わなかった。
でも、その後、ずっと書け、と。

私は3年弱でその花柳界を去った。
景気が悪くてお座敷だけでは食べていけなかった。
またパトロン希望者が現れたけれど、どうしても無理だった。

私はその頃ずっと読んだり書いたりしていた。
その時、一番影響を受けたのは、坂口安吾だった。
坂口安吾の「続戦争と一人の女」という小説に出会った。
私は小説を読んで、初めて泣いた。
それまでずっと物語に泣けなかった。
自分の人生の方がハードにしか思えなかった。
戦争中、女衒に売られた女は投げやりになっていた。
戦争の惨禍すら美しいと思うくらいに。
わかった。
ずっと死にたかった。
自分がなぜ生きているのかわからない。
細い塀の上を全力疾走している猫みたいな緊張感と恐怖の中に生きていた。
夜の空襲は美しい、と、女はいう。
そんなことは言ったらダメなのじゃないかとずっと思ってきた。
女は恨んでいる。
自分を売った親を。貧しさを。色々を。
今は忘れて楽しくやろうとしていた。
でも、違う。生きたかった。
惚れた男と、自分の人生を生きたいと思っていた。
空襲で燃える家を前にして、このお家を燃やさないでちょうだいと。
女が初めて生きることに執着を見せた。
でも、女はそれが続かないと思っている。
男は自分のような女を捨てるし、日本は占領されてしまう、と。
でも、自分は強かな体があるから生きていくのだと。
ああ、ああ、と。

私は、突然湧き上がる記憶の恐怖と罪悪感と心苦しさでいっぱいでした。
でも、仕事を辞めたら父の会社は大変で。
お金のことも大変で。
死にたいな、と思いながらバイトを掛け持ちしたり、授業をめいいっぱい受けたりと色々やっていました。
あと、書いていた。
父は、書け、と。
言われなくとも、書いていた。
一日原稿用紙換算20枚くらい。
小説。
あらまほしきを書いていた。
現実はあまりに辛くて。
安吾みたいなああいう女を描いて伝えたいし、その女を幸せにしてやりたかった。
現実には難しいから。

大学5年の夏、初めてうつ病と診断された。
というか、よく生きていたね、と。
自分の中にビュービュー風が吹いていた。
死ぬ気さえなえた。
死に場所を求めて、北海道の島の民宿の住み込みバイトをした。
そうしたら意外と生きていけてしまった。
帰ってきたら、父の会社は大変で、もうどうにも行かなくなっていた。
うつではなかったかもしれないけれど、いつまで家があるかもわからない中で、自己評価が低い自分には就職活動はできなかった。
募集も本当になかった。前年に山一證券が倒産した時代だ。

大学を辛うじて卒業して、小さな広告会社のアルバイトから社員になって、黎明期のIT企業の携帯コンテンツ会社のブラック企業で消耗して、せめて社会保険があると派遣に流れて。
キャリアにもならなくて、ただ、いつか作家に、と。
毎日、原稿用紙換算20枚くらい書いて。一年に何度も文学賞にも応募して。でも、物にはなず。芝居と花柳界の延長で興味を抱いたのは歌舞伎。でも、チケットは取れず、逆に富裕な層を見て、我が身が辛くなり・・・。
島で知り合った縁で初めてタイにいった。
まったくタイにも外国にも興味は抱けず。ただ、タイで行った番号をつけて体を売る女の子には若干のシンパシーがあった。
派遣の仕事から脱してやっと正社員と思ったら、ブラック企業で、労災も降りなかった。
その頃、彼氏ができた。記憶が甦らないというか体が拒否しない、と思ったけれど。
今思えば、ただもう疲れていたのかもしれない。
でも、好きだと誤解した。
眠れず、食べれず、職場で怪我をしても病院にもいけず。
腰の骨にはヒビが入っていた。
好きだという幻想だけに縋って。やっと、体を乗り越えた、と思っていた。
不快と恐怖が無味になった、と。
だからやって行けると。
毎晩、寝かせてくれない程に求められて。
無じゃなくて疲労だったけれど、当時は気づかないふりをしていた。
もう限界だった。
初めて自殺未遂をした。
生理が遅れていたので、そのことをその相手に言った。
俺は知らねえ、俺は関係ない、と。
毎日、何時間も求められた。2人を隔てるのはつけられていなかった。体重はどんどん軽くなっていった。眠れなかったし、食べられなかった。
でも、ただ恐怖を感じないのがよかった。超えられそうな気がした。
でも、だめだった。
ずっと辛かったのに、なんで死ななかったのか。
辛すぎて死ねなかった。悔しくて。あまりに悔しくて。
もしくは生きている心地がしなかった。
もう、いいや、とあの時思った。気がすんだ、と。
手元にあった薬を全部飲んだ。
幸い? 大した薬じゃなかったから大ごとにはならなかった。

仕事を辞めて、入院した。
精神病院に。
任意だったはずだけど、退院には家族の同意がいった。
何かあったら自分は精神病院入院歴のある女なのだな。
つよい薬の副作用で、排尿ができないのに、お医者は診てくれなくて、
強引に退院した。

それから別の病院にかかり、寛解となり、社会復帰した。
IT系の派遣先で今の夫と出逢った。
夫は無理強いしなかった。
プロポーズは私がした。
私たちはいまだに一度しか交わってない。
だから子どもはいない。
夫はいった。
あなたが嫌なことはしなくていいんだよ、と。
うなされると、と起きて手を握ってくれる。
猫が住めるおうちになった時に猫を迎え入れた。

私は夫と暮らして、小説を書かなくなった。
私が欲しかったのはサガンのような庇護と保護。
あらまほしき。
でも、もうあらまほしきじゃなかった。

ずっと欲しかった安堵。
それが手に入った。
もう、怖くない。
自分を脅かす人はいない。

それでも、たまに不調になる。
新たに精神医学系の医師やらに合うたびに言われる。
よく生きていたね、と。

自分でもそう思う。

実にいまでも夢にも見るし、認知が歪みっぱなしだ。
私の中では、あの初潮を迎えて安堵した13歳の私がいる。

希望があるかというと、実はない。

というよりは、もう気が済んだのだ。
頑張って生きてきた。
本当に。
でもね、と思う。

よく生きていたね、ということは死んでいてもおかしくなかったのだな、とも思う。
今はいろいろあって、お医者の勧めで自立支援の援助も受け、傷病手当で暮らしている。
お医者は、いいよ、と。
ゆっくりしなよ、と。

ずっと細い塀の上を走っている猫みたいな気持ちだった。
夫がいなくなったら。
猫がいなくなったら。
でも、本当はその前にその人たちに見守れて逝きたい。

特に最近思うのはそのことばかりなのです。



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