見出し画像

右近さんの鹿の子百合

 ここのところ、誰かに見られている気がする。天井を見上げてみる。確か、江戸川乱歩の小説に知らない誰かが天井の穴から覗く、というお話があった。だけど、くまなく点検してみたけれど、それらしい穴なんてない。
 きっと気のせいよ。この暑さだもの。そう思って、なるべく気にしないようにして二、三日が過ぎた。ところが月曜日。パソコンを開いた私はギョッとした。
 いきなり、私の顔写真、氏名、年齢、現住所がのっていた。そして、日記形式で私の一日の様子が事細やかに書き込まれていた。
 朝、5時15分起床。化粧をすればなんとか見れるがすっぴんはひどい。毛穴全開。肌は歳相応にくすんで艶なし。目は腫れ、髪はあちこち撥ねてまるで山姥のよう。……、とまるで誰かが私の一日に張り付いたかのように書いてある。
 これはもう只事じゃない。
「ねえ、ここのところ、誰かに見られている気がしない?」
「いいや。ここにいる君と僕以外の家族って、まるだけじゃないか」
「うん。そうなんだけど……」私はうつむいたまま答えた。
 夫が仕事に出かけたあと、私はもう一度天井のあちこちに目をやり家中を眺めまわして何も異常がないことを確認し、小さくため息をついた。
 いつから、こうなの? いつから……。
 あっ、私はハッとした。先週の金曜日からだ。その日、いつもと変わったことがあったじゃない。
 12日金曜日の夕方、私はその日外出してたので夕飯の準備に気ぜわしくしていた。ポテトサラダにマヨネーズを混ぜ合わせているとき、玄関のインターホンが鳴った。夫は句会に出かけまだ戻っていなかった。
 訪ねてきたのは見たことのない、ずいぶん年を取った男の人だった。
「私、OO右近といいます。これ、郵便物の誤配でしたのでお持ちしました」
 そう言っておじいさんは家あての封書を手渡した。
右近さんと家とは名字が同じだ。ここに越してきてぶらぶら散歩しているとき、表札を見てそのことに気が付いて、そのうえ、右近という名にひどく興味を持った。だけど会ったことは一度もなかった。律儀でそのまま敬礼でもしそうなほどきりっとしたご老人だった。
 そして帰り際に、「これ、庭に咲いたので、どうぞ」と手渡されたのが、鹿の子百合だった。
「あら、どうも」私は新聞紙にくるまれた鹿の子百合を受けとった。
 門扉の向こうにがっしりした自転車が止まっていた。右近さんは深々と挨拶をして自転車に乗りペダルをこぎ始めた。私の家と右近さんの家とは歩いて5分ほどの距離なのに、わざわざ自転車で来られたのね、と思った。
 私は頂いた鹿の子百合を居間のサイドボードの上の青磁の花瓶に生けた。美しいピンク色に鹿の子模様が青磁の淡い青によく映えた。
 まさか、でも……。
 翌朝、右近さんの家の前まで行ってみた。すると、言いようのない静けさが家を覆っていた。ひな壇の階段の上にある庭に鹿の子百合が咲き乱れていた。花はそこにひっそりと在り静かに私を見下ろして、右近さんの家の中で起きた闇を私に伝えてきた。その闇を伝える言葉には強い思いが込められていた。逃れられないほどの強い力がこもっていた。
 私は確信をもって警察に通報した。90歳をとうに越えていた右近さん夫婦はこの暑さの中、閉めきった居間で折り重なるように倒れて亡くなっていた。死後、一週間らしかった。
 じゃあ、私が会った右近さんはもうこの世の人ではないということになるじゃない。
 取り残され淋しくうつむいている鹿の子百合に触れようとすると、ピンク色の花びらがひらひらと散り暗闇に吸い込まれていった。
「クーラーをつけたままうたた寝すると、風邪ひくよ」
 いつの間にか夫が句会から戻っていた。
「ええ」 私は目をこすりながらサイドボードの上の青磁の花瓶を見た。そこに、鹿の子百合なんてなかった。ただ、何かがそこにあった気配と微かな花の香がした。
 私は何度も瞬きをして花瓶の向こうの闇を見つめていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?