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遺された言葉と最も大切なもの


 数え切れない程大量の蛇と蠍に部屋中を席巻されている。
 数千か、数万か、或いはそれ以上かも知れない。
 ここにも、そしてそこにも、これ程大量の蛇蠍が蠢く様は、見る者に畏怖と嫌悪を与える。
 しかし不思議な事に今の私には、視界を埋め尽くすこいつ等が垂涎を伴うご馳走にしか見えないのだ。
 私は、今、極限の飢餓状態なのだ。
 畢竟こいつ等をどう料理してやろうか、と、その事で頭の中は一杯だ。
 折角ならカリッとした香ばしい食感を楽しみたい。
 そこで蛇蠍どもを炙り焼きにして喰う事に思い到り、机上にあったライターで新聞紙に火を着けた。
 それを私の手前でとぐろを巻いている蒼い蛇の尻尾に翳した。
 やがて総ての蛇蠍を巻き込んだ焔がメラメラと立ち上がり、カーテンへと襲い掛かる。
 ふと、火事になるんじゃないのか、と、脳裏を横切る予感。
 当たり前の事だった。
 たとえ飢餓から逃れる為とは言え、自分の部屋に火を着けるなんて、何故火事になると気付かなかったのか。
 ちっ、と、舌打ちする私に、愈々炎の大群がこちらに襲い掛って来る。

 忽ち辺りが紅蓮の炎に包まれる。
 逃げなければ、と、そう思うが、全身が震えて動けない。
 但し私が震えて動けないのは蛇蠍や炎のせいではない。
 それは私の全身を覆い尽くす蚊の大群のせいだった。
 総ての蚊が私の血を吸って真っ赤に染まっている。
 しかもやたらとでかい蚊だ。
 恐らくこいつ等はハマダラ蚊だろう。
 何度か6D映像で見た事がある。
 だとすれば、血中に大量のマラリア原虫を送り込んでいる筈だ。
 私の父も生前マラリアに苦しめられていた。
 父はニューギニア戦に従軍した際ハマダラ蚊に刺され、以来死ぬ迄マラリア原虫を体内に抱えていたのだ。
 そのせいで父は往時の特効薬キニーネと注射器を常備していた。
 そんな父同様私も飢餓状態でマラリアに侵され、その上ここで焼け死ぬのだ、と、脳内で惑乱が猖獗(しょうけつ)を極める。
 しかしやがてじたばたしても仕方が無い、と、覚悟を決めた。
 深呼吸の後瞑目した私は他事に思考を集中させる。
 マラリアについて考える事にした。
 今でこそ完治するマラリアだが、二千四十年代迄は病原体のマラリア原虫が常に異変を続け
         ‐1‐

る為、治療法が見出せずにいた。
 ところが今から十五年前の二千五十三年、AI(人工知能)がマラリア原虫の変異の形態を予測、その変異後の病原体を攻撃し死滅させる新療法を確立、以来マラリアは不治の病ではなくなった。
 それに加え交配しても卵を産めないメスの蚊を放ったWHO(世界保健機構)が、ハマダラ蚊を始め全世界で有害な病原体を運ぶ全ての蚊を、十二年前の二千五十六年に絶滅させた事を公表した筈。
 ならば、何故私は、今、そのハマダラ蚊に血を吸われているのか。
 また何故こうも思考を巡らせる余裕があるのか。
 それ等の事から、今が夢の途中である可能性に思い到る。
 もしそうなら、もしこれが夢なら、きっと醒める筈だ。

 大きく息を吸って吐くと同時に、夏用のブランケットを勢い良く蹴飛ばしてみた。
 その反動を利用して上半身を起き上がらせ、眼を瞬かせながら辺りを窺ってみる。
 するとそこに在ったのは、飾り気も、何の色気もない、いつもの自身の部屋だった。
 勿論蛇蠍もハマダラ蚊もいない。
 しかし、何故だ・・・・・昨夜我が家のAIが私の質問に対する答を夢にして見せるよう、ドリーム・メーカー(人工夢生成機器)を作動させた筈なのに、何故あんな悪夢を見てしまったのだ。
 半世紀前の稚拙な会話型のAIならまだしも、現在の高度な音声認識システムを有するAIに誤認識が有ったとは考え難い。
 声のトーンからこちらの心情を始め、健康状態迄察知出来る有能な我が家のAI、フレデリックのことである。
 仮にこちらが間違った指示を出していようものなら、即座にそれを指摘していた筈だ。
 と、すれば、私が寝ぼけて妙な指示でも出したか?
 否、しかし、昨夜はフレデリックと言葉遊びをした覚えもなければ、酒を呑んで酩酊状態になった覚えもない。
 問い質さずには居られなかった。
「フレデリック、昨夜君は俺の出した質問に対する答を夢にして見せると言ったよな」
(確かにそう申しました。
 ご期待に添えるよう尽力したつもりですが、何か?)
「何か、だと、あんな夢を見させておいて良くもまあ白々しい。
 何故あんな悪夢を見せた」
(あの夢を悪夢、と。それは誤解も甚だしい)
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 まったく近頃のAIときたら、わざと私の感情を逆撫でするような物言いをする。
 尤もこんな人を小馬鹿にするような言い廻しも、元は人がプログラミングしたものなのだが、人並みに、否、人よりも尚忌々しい。
 私は我知らず声を荒げた。
「悪夢だろあんな蛇蠍だらけの夢!
 それにハマダラ蚊迄持ち出して来るなんて、酷いぞ」
(しかしそれこそが貴方様にお見せすべき夢なのです)
 AIだと分かっていても、忌々しさを通り越して殺意さえ覚える。
 もしもフレデリックに顔があったなら、躊躇せず殴っていた筈だ。
 兎にも角にも私は売られた喧嘩は買う主義である。
「ほぉ、そう来たか。俺を虚仮にする気か。
 お望みとあらば、君をリプログラムしてもいいんだぞ。
 とは言え長い付き合いだからな、確たる理由もなく君を消去するのは本意じゃない。
 もう一度訊く、何故君は俺にあんな悪夢を見せた」
 フレデリックは、ふーっ、と、大きく息を吐いた後、諭す声音で返してきた。
(宜しいですか、貴方様は昨夜こう仰いました。
 御父上が逝去なさる際、何か言い遺そうとして果たせず、息絶えた後のその先の言葉が何だったのか、それを解析して欲しい、と。
 最期の時、枕元に貴方様を呼び寄せられた御父上は、『人生ちゅうのんは長いようで短い。あっと言う間ぁや。今思たら、夢でも見てるような按配やった。ワシがもう終わりやっちゅう事は、己で一等よう分かっとる。そやから最期にどうしても言い遺しとかんならんのや。そのことをまだ見んお前の倅にも、お前からよぉう伝えてくれ。それこそ生涯の財産になる話やからな・・・・・』と、だけ言い遺して身罷られ、以来ずっとその先の言葉が何だったのか気になって仕方がないのだ、とも)
 一言一句違えず関西弁を巧みに使いこなすフレデリックに、先ずは私も彼同様、ふーっ、と、大きく息を吐いてから応じた。
 呆れ声で返してやる。
「あぁ、そうだよ。その通りだよ。
 話し方迄親父そのものだ。
 だったら、分かってるなら何故あんな夢を見せた。
 俺は親父が言い遺そうとした言葉が何なのか、本気で知りたいと思ってるんだ。
 だから、頼むよフレデリック・・・・・。
 確か君は昨夜こう言ったよな。
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 俺の知りたいと思っている事は、直接言葉にして伝えるよりも夢にして見せた方が効果的だと」
 私がそう投げ掛けると、フレデリックが即応した。
(確かにそう申しました。
 ですからあのような夢をお見せしたのです。
 それを悪夢と仰るなど、嘆かわしい限りです)
 半ば投げやりなフレデリックに、私は再び声を荒げた。
「嘆かわしいだと、俺の何処が嘆かわしい! 」
 感情的な私に反してフレデリックは至極冷静である。 
(お分かりではないようですか、貴方様の御父上の言い遺したかった言葉とは、貴方様の御存じない金銭や不動産の在り処でもなく、御父上から引き継いだ事業に関する事でもないのです。
 もし貴方様がそのような事を私から聴き出そうとしていらっしゃるのなら、それは大きな間違いです。
 そんな事ではなく御父上はもっともっと尊く、そして崇高なお言葉を遺そうとされたんですよ)
 フレデリックの言葉が私には釈然とせず、彼の意図するところの核心は無論のこと、その外郭さえも見えて来ない。
「尊く崇高な言葉ってか。
 だったら夢で見せるなんてまどろっこしい事しないで、今直ぐにそれを言葉にしたらどうなんだ」
 無言を返事にするフレデリックに、私は畳み掛けた。
「あのなぁ。俺は昨夜君がどんな夢を見せてくれるのかって、結構期待してたんだ、それを君は・・・・・。
 あんな風に言葉の途中で死なれたら、秘密の遺産を遺したんじゃないのかって誰だってそう思うだろ。
 それを尊く崇高な言葉とか言われてもさ。
 とにかく君の言ってる事はさっぱり分からん。
 それに夢で見せるって言うのなら、早くさっきの続きを見せろよ。
 あの夢の続きを。
 あれで終わりじゃないんだろ、まだ?
 しかしまったく何が何だか・・・・・待てよ、そう言えば、今と同じような感覚の時があったな。
 そうだ、アンチエイジング手術を受ける前と、受けて一年後の自分の写真を比較した時の、あの感覚だ。
 日々少しずつ若返るから毎朝鏡を見ても気付かなかったが、一年経つとそれが明らかになる。
 何て言うか、自分が自分でないみたいで、何が何だかさっぱり分からなくなる・・・・・あの時と同じ感覚」
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 フレデリックはそんな私の言葉に押し被せるように、ひとつ咳払いをした。
(アンチエンジング手術とは、IPS細胞を利用した各臓器の若返り手術と、細胞活性化に依る皮膚の若返り手術、そしてそれ等若返り手術の効果をゲノム治療によって安定させる施術。
 それ等一連のオペレーションを総称して・・・・・)
 やや長いフレデリックの薀蓄の披露に倦じた私は、彼の次の言葉を遮ってやった。
「そんなややこしい事、それ以上俺に説明したって無駄だよ。
 文系の脳しか持ち合わせていない俺に、そんな話理解出来る訳ないだろう」
 吐き捨てた私の言葉の後永遠に続くかと思う沈黙が流れ、やがてフレデリックは淡々と語り始めた。

(人間の脳の寿命は凡そ二百年と言われています。
 それに対し肉体の平均寿命は僅か百年にも満たない。
 だからこそ人はアンチエイジング手術を受ける意味があるのです。
 ところが脳に迄手を付けてしまえば、その人がその人でなくなってしまう。
 もし貴方様も脳を若返らせてさえいなければ、二十代前半の若い男のような軽はずみな言動は為さらなかったでしょうから)
 理路整然と理不尽な事を言うフレデリックに対し、私も理路整然とその理不尽に反駁の声を上げた。
「それはおかしいな、フレデリック。
 そもそも手術前にそれ以前の記憶は保存されるし、術後にそれ等は若返った後の脳に移植される。
 つまり手術で組織や細胞が若返るだけだ。
 だとすれば肉体がどうあれ、脳は百五歳の俺のままだ。
 しかし君の言い様だと、肉体と一緒に人格迄若返った事になる」
 フレデリックは何も語らず、銀色に輝くリキッドメタル(金属ガラス)のアームを伸ばす金属音だけを響かせた。
 アームは小皿を掴んでいて、その上には数粒の淡いピンク色をした錠剤を乗せている。
 恐らくは睡眠導入剤だろう。
 その小皿がサイドボードの上に置かれた。
 私は無言でその様子を見ていた。
 ややあってフレデリックが低い声音で返して来た。
(ご自身はお気付きではないのですね。
 思考形態や話し方迄もが若返っている事を。
 何よりアンチエイジング手術の後、そのご年齢であれば本来持ち合わせるべき、最も大切なものを貴方様は失っています)
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 私は首を横に振ってフレデリックに抗った。
「そんな筈ない!
 俺はこの百五年間の出来事を総て記憶している。
 だから思考形態や話し方迄もが若返っていると言う君の意見は、全く間違っている。
 それに脳だけをのままにしておいたら、幾らアンチエイジング手術を受けても、脳の寿命が来たら死んでしまうじゃないか。
 別名不老不死手術とも言われている手術が、不老不死手術じゃなくなってしまう」
 そう言い放ちながらも、私はフレデリックの投げ掛けた『最も大切なもの』、と、言う言葉を我知らず胸中で咀嚼していた。
 その事を見透かしているのか、直ぐには反論して来ないフレデリック。
 AIの考えている事など凡人の私に分かる筈もないが、私は唯々彼の次の言葉を神妙な面持ちで待った。

(半世紀程前から世界中で子供を産まなくなる現象が顕著となり、人口の減少が止まらず、我が国に於いても一億を切り、そして八千万を切り、十年前人口が五千万を切った時点で、漸くアンチエイジング手術の技術が確立され、同時に不老不死法が成立しました。
 その不老不死法に於いて成立以来最も問題視されているのは、それは先程から貴方様と議論を交している、脳を若返らせるべきかどうかと言う点です。
 それと言うのも不老不死が現実のものとなって以来、それ迄とは逆に世界中で人口は増加の一途を辿り、愈々食糧問題に迄言及される時代が到来しました。
 我が国に於いても人口が一億に戻ろうかと言う状況に到り、遂に一昨年の二千六十六年、不老不死法に新たな人口抑制を促す条文が加わりました。
 例の『脳の若返り手術を受けた者は、子供を持つ事が出来ない』、と、言う条文です。
 人が生産年齢のみの構成となって以来GDPや税収も倍増しましたし、我が国の政府としても少子化対策の必要もなくなったのですから、当然と言えば当然の帰結と言えます。
 しかしその代価として、街からは老人だけでなく新生児迄消えてしまった。
 今となっては貴方様も多くの人がそうであるように、子供を持つ事にまるで興味が無いようにお見受けします)
 フレデリックの声は悲しげで、それが心の襞に引っ掛かかりはしたが、私は怯まずに押し被せた。
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「それが悪いか! 当たり前だろうが、永遠の命を捨てて迄子供を持ちたい奴なんている筈がない」
 私の言葉を一顧だにしないフレデリックは、再びアームを動かして小皿の上の淡いピンク色の錠剤を数粒摘んだ。
 そうして彼は、そのままアームを私の口の前で停止させた。
(それではそろそろ、夢の続きをお見せする事に致しましょう。
 そして夢を見終わった後、貴方様は御父上の言い遺したかった言葉と、失った最も大切なものとは何かお気付きになるでしょう)
 私は顎を横に振りながらも、無言でゆっくりと口を開けた。
 やがてフレデリックのアームから放たれた錠剤がひとぉつ、ふたぁつ、みいつ・・・・・。
 ラズベリーの甘い香りが口中に広がったと思うや、私の意識は急速に失われて行った。

 意識が戻った時、私は小高い崖の上に立っていた。
 未明なのかまだ薄暗く、靄の掛かる眼下には密林が広がっている。
 すると突然男の声がした。
「誰か! 所属部隊名と氏名を言え」
 男の声を聴きながらふと自身の脚下を見遣れば、ゲートルを巻き、軍靴を履いており、そこから徐々に視線を上げて行けば、旧日本陸軍のものと思しき軍服を身に纏っていた。
 未明の密林の中で下から見上げればこちらを確認し辛いのか、男が崖の下から再び誰何の声を上げる。
「もう一度訊く、貴様は誰か! 敵か味方かさっさと言え! 」
 眼を凝らせば崖の下の男も私同様、旧日本陸軍のものと思しき軍服を身に纏い、歩兵銃の銃先をこちらに向けていた。
 男の声の様子からもここは間違いなく戦場である。
 また密林の中と言う事は、ここは生前父が従軍した東部ニューギニアで、時期は太平洋戦争末期の昭和十八年から十九年頃か。 
「もう二度誰何(すいか)したぞ。三度誰何される前に答えよ! 」
 そう声が掛かった後、私は遠い昔幼い頃に父が寝物語で話してくれた記憶を必死で辿った。
 すると三度誰何されて何も答えないと撃たれる、と、言う父の言葉が蘇って来た。
 だとすれば今直ぐに何か答えないと、私は撃たれてしまう。
そこで私は咄嗟に父の所属していた部隊名を口にした。
「はっ。わたくしは朝二〇五三(ちょうふたまるごおさん)部隊第六中隊所属、牧帯刀(まきたてわき)二等兵であります」
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 私がそう答えると、男の、ほっ、と、息を吐く声が聴こえた。
 次いで男は小銃を下ろして肩に掛け直し、崖を攀じ登って来た。
「何やうちの中隊やないか、新兵か。
 しかも牧てか、ひょっとして、お前牧上等兵の親戚か何かか」
 男の言葉を聴き、咄嗟の事とは言え本名を名乗った事を悔いた。
 ここが私の想像通りの処だとすれば、父も居るからだ。
 そんな私の胸中を知ろう筈もない男は、振り向きざま気の抜けた顔で次に崖を攀じ登って来たもう一人の男に問い掛けた。
「おい、この新兵知ってるか? こいつも牧やと」
「ほぉ、こいつがか」
 そう応じるや誰何して来た男の後ろに立ったもう一人の男が、こちらを品定めするように窺って来る。
 やがてこちらを窺うその男と眼が合い、私はハッとなった。
 かなり若くまた陽に焼けてもいるが、男が父だったからだ。
 初めて見る戦時下の父の顔だが、私は確信した。
 父である、と。
 実の息子なのである、私は。
「知らん顔やなぁ。お前関東弁使うてるけど出身は何処や?」
 本名を名乗った私だが父にそう訊かれたからと言って、将来この戦争の後東京で生まれる貴方の息子です、と、言う訳にもいくまい。
 しかし嘘を吐くのも癪に障る。
 そこでありのままの事実を伝える事にした。
「はっ。わたくしは東京生まれの東京育ちであります。
 しかし父の本籍が大阪にありますので、わたくしの本籍も大阪にあります。故に朝二〇五三部隊に配属に。
 で、ありますので、わたくしは関西弁が使えません」
 実際に東京生まれで東京育ちの私は、本籍が大阪であるのにも拘らず関西弁が使えないのだ。
「何や、そうか」
 父は頬を緩ませて私にそう応じた後、今度は隣に立っている私に誰何した男と顔を見合わせて笑った。
「よう考えてみぃ島田、こんな関東弁喋るようなハイカラな奴、わしが知ってる訳ないがな」
 このシニカルな独特の言い廻しは、父そのものだ。
 また私に誰何した男が、父の戦友の島田さんだと言う事も悟った。
 そうして島田さんの横で頬を緩ませていた父が今度は眦を決して、私を正面に見据えた。
「それより牧二等兵、お前朝鮮からここへ来たんか、それとも内地からか、何処から来た? 
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こんな時間に何でここへ来たんや?」
 さすがは父だ。まだ私を何者なのかと疑っている。
 恐らく父は私を逃亡兵かも知れないとでも思っているのだろう。
 こうして父の考えている事が分かってしまうのも、やはり遺伝の為せる業か。
 それにしても父に牧二等兵と呼ばれるのは妙な気分だ。
 しかしそんな感慨に浸っていられるのも束の間、私は再び言い繕う事を余儀なくされている。 
「はっ。わたくしは後方の野営地から戻って参りました。
 マラリアの病を得て療養しておりましたが、良くなったので本隊に復帰せよとの命を受けました。
 命令に従い本日未明本隊に合流したところ、牧上等兵殿の班の許へ急行せよとの小隊長殿の命を受け、ここへやって参りました」
 合点がいったのか父は肯きながらにやと笑った。
「そうか、マラリアか。難儀やからのう、マラリアは。
 ま、そう言うわしもマラリア持ちやけど、な。そう言う事なら、ええんや。
 見ての通りわし等は斥候の帰りや。
 そやけどな斥候言うても、唯の斥候やないで」
 父は自慢気にそう言い終えると、背負っていた雑嚢を肩から降ろし、その中に手を突っ込んで何やら缶詰のような物を取り出して、こちらに放り投げて来た。
「ちゃあんと食い物も戴いて来たからなあ。
 アメちゃんの糧秣庫から、盗(パク)って来たったんや。
 牛肉の塩漬けや、旨いぞ。
 言うとくけどな、将校に見付からんように喰え」
 どうやらコンビーブの缶詰らしい。
 受け取った私は、「はっ。有難く頂戴致します」と返して被っていた略帽を脱ぎ、父に対して十度の敬礼を尽くした。
 眼で肯いた父が再び雑嚢を背負って歩き出すと、木の間から陽光が射してきた。
 夜が明けたばかりだと言うのに、日差しは眩しい限りである。
 私は首筋に流れる汗を手で拭いながら父の後ろに続いた。
 幾らか歩いて密林を抜け出すと、見通しの良い平地に出た。
 すると突然後ろの方で叫ぶ声が聴こえた。
「敵襲! 敵機の機影が見えます」
 声を聴いて父が後ろを振り向いた時には、最早敵機のエンジン音が辺りに響き渡っていた。
 少し後ろを歩いていた島田さんの緊迫した声が私の耳朶を打つ。
「あの音はグラマンや。まぁ、単機なんは幸いやけどな」
          ‐9‐

 直後立ち止まった父は私を正面に見据えた。
「心配すな、単機やったらどないでもなる。
 ええか牧二等兵、わしが『行け』っちゅうたら横に走るんや。
 わしとは逆に、島田と同じ方へ走れ。
 機銃掃射っちゅうのはな、弾は真っ直ぐにしか飛んで来んもんや。
 そやから横に走って、また来よったら始めとは逆の方に走れ」
「はっ」
 私が父に挙手の敬礼をし終えるや、愈々敵機が間近に迫った。
 大きくひとつ肯いた父が走り出し、私も父の背中を追い駆ける。
「今や、行け! 」
 父の号令の直後バリバリ・バリバリっと言う、耳を劈くような掃射音がして、私はそれを遣り過ごしながら真横に駆け抜けた。
 後続の兵の安否は分からないが、父と私と島田さんは未だ無事だ。
 仕留め切れなかった我々を片付けたいのか、敵機がもう一度旋回して戻って来る。
 そうして必死で駆ける我々の前に、幸運にも密林が再び大きな口を開けて待っていた。
「皆、あの密林の中に飛び込むんや! 」
 父の号令一過散っていた我々はひとつになり、真っ直ぐに密林の中へと飛び込んだ。
 上空からでは密林の中に居る我々を確認出来ないのか、やがて敵機は無駄に弾を使う事をせずに去って行った。
 三人で息も切れ切れに密林の中でへたり込むこと暫時。
 漸く息切れも収まり辺りの様子も眼に入るようになったその時、私は愕然となり身動きが取れなくなった。
 夥しい数の日本兵の屍体がそこここに転がっていたからだ。
 ヘルメットを打ち抜かれたのか、頭や口から血を吐いている屍体。
 砲弾に吹き飛ばされたのか、首の無い上半身だけの屍体。
 そして数え切れない程の髑髏や白骨屍体が無数に・・・・・。
 顫動する私の肩を抑えながら、父が独りごちるように呟いた。
「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニアっちゅうてな。
 そやけどそれでもわしは内地に帰らんならん、何がなんでもな。
 わしの嫁の腹の中には、子がおるんや。
 その子の為にも、わしはどうしても生きて帰らんならんのや」
 それは一番上の姉だ、と、その事が私の脳裏を過ぎった直後、父の反対側から島田さんが私の脇に手を入れ、ぐいと持ち上げて勢い良く立たせてくれた。
「牧二等兵、お前子はおるんか?」
 よろめきながらも、私は島田さんを正面に見据えた。
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「いえ、まだおりません。結婚もまだであります」
 次いで立ち上がった父が私の肩に手を置き、髑髏を携えたもう一方の手を眼前に翳したとき、私は「ひぃ」、と、呻き声を上げてしまった。
 ふらつく私を肩に置いた手で支えながら、父が言い放つ。
「この髑髏(しゃれこうべ)も、わしらの戦友かも知れん。
 わしら六中隊のもんは仰山死んだ。
 こんな阿呆な戦争で、日本が勝てる訳もないのにや。
 それでもな牧二等兵、お前も生きて内地に帰るんや。
 ほんで嫁を貰うて、子を作れ。
 この髑髏になってしもうたもんの命に報いる為にもな。
 何を措いても、新しい命の為に生きるんや! 」
 その言葉を聴いた刹那、父が生きて日本へ帰って来てくれたからこその、私の命である事を思い知った。
 私は父に挙手の敬礼を尽くし、未だ顫動する口元から懸命に言葉を紡いだ。
「はっ。牧二等兵必ず生きて内地に帰ります。
 わたくしは新しい命の為に生きます! 」
 私の言葉を聴いた父が微笑んだ直後、突然意識が遠退いていった。

 意識が戻った時、私の眼前にはフレデリックのアームが見えた。
 アームはソーサーを持っていて、その上にはティーカップが乗っている。
 中身は恐らく私の好物のミントティーだろう。
 それをこちらの胸元迄持って来たフレデリックが、やおら咳払いをしてから問うて来た。
「お分かり戴けましたでしょうか?
 御父上の言い遺したかった言葉と、そして貴方様が失った最も大切なものとは何かを」
 フレデリックの問い掛けには応じず、私は、「明日以降の俺の脳の若返り手術の拒否権を発動させてくれ。永遠の命にはもう飽きた。
それよりも子供が欲しい」と返した。
「承知致しました。しかしそれにはお相手が必要ですが?」
 茶化すような訊き方をするフレデリックだが、確かにそうだ、と、胸中で肯きながら私は、「これから探すさ」と苦笑交じりに答えた。
 次いでびっしりと首筋に絡みついた玉のような汗を、手の甲で拭いながら訊き返す。
「それよりフレデリック、何でこんなに暑くした?
 夢の臨場感を出す為とは言え、何もクーラー迄切らなくとも」
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 私の問い掛けに、フレデリックが慇懃無礼な声音で返して来る。
「その為だけにクーラーを切った訳ではありませんよ。
 それにも益して今日が何の日かを、貴方様の心によぉく刻み付けておいて欲しかったからです」
 耳朶を打つ意味深長な言葉に、私は瞠目を禁じ得なかった。
 何故なら今日が、どんな時代を迎えようとも日本人の決して忘れてはならない、八月十五日だったからである。

                (了)

         ‐12‐

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