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小説書きたい

小説書きたいけど書く方法がわからない。
(以下長文注意)
(多少支離滅裂な部分があるかもしれない)
(その他性について軽々しく幻想な表現をしようとしているかもしれないので注意)
(科学的な調査と言う目的で全て通ると言う考えに傾きつつも完全には同意していない)

以前小説らしき物を書こうとして、何だか気持ち悪くなって辞めてしまった。

書きたいものが嫌いな世界だと、どこかでわかっていた。

大体主人公が酷い目にあう話、とも限らない。ただ、出てくる人物と事象が書いてる本人すらなんか気持ち悪いと思ってしまうものばかり。

読んでるものがひどいせいだと、責任転嫁するが、それを選んで読んで評価してるのも自分だ。

文章で表現されたものをあまり読まなくなってしまった。

リハビリがてら、簡単な読み物を探しつつ、あまり心の琴線に触れないな、と絶望感を噛み締めている。

そもそも人生経験に欠損の大きな自分に人間の生活が描けるのか?対象の理想化されたモデルを構築して美化する能力はその中にどっぷり浸かっている人では無く、その外で物欲しそうに眺めてる人に宿るものだとも思う。だから、まともな生き方をしてる人はまともな生活の素晴らしさに目をつぶりがちで、まともな生活してない人の方が過剰に美化したりする。

と、理論武装の様なことして見ても、やはり中にいる人の方が良きも悪しきも知り尽くして、過不足なく評価できるのもまた真実だろう。外から見てるだけでは歪みが生じる。その歪みを個性とか作風と呼んでもてはやすこともあるかもしれない。

ただそんな理屈をこねているだけでは、小説を書くことには繋がらない。自分の歪みを武器にする覚悟があれば、小説も、書けるかも知れない。美化と醜化でデフォルメされた事象をありのまま記録していけば、小説になるかもしれない。デフォルメをありのままとか語義矛盾な気もする。自然の定義が難しいのと同じかも知れない。物理的な自然は単純で系の外から介入されないのが定義だとして、生物的な自然はあらゆる面で介入し合うことが含まれうる。人間的な自然も存在するだろう。そしてそれらの定義は同じ自然を表しているかというとそうでもない。ありのままもどのレベルでありのままかによって定義が違うのだろう。うまく言語化できないのがもどかしい。

歪みもまた価値を生み出す、と受け入れることで正確に物を書けないことを正当化できるだろうか?いやきっと正確に物をかけないことで言葉は延びていくのだ。デッサンの線が増える様に、油絵の絵の具が層を成して重なっていく様に。そうしてその集合体がちゃんと絵になる様に誘導するのが歴戦の画家の仕事なのだろう。一本の線で世界を切り取れるならそれはアジア的な線画の世界だ。そんな器用なことは自分にはできない。漫画も線を重ねる書き方になってるらしいがそれでも単一の線の緊張感は恐ろしい。知らないくせに語るとズレるし失礼な領域にも踏み込む。恐らく僕は毎回人の逆鱗に触れる様な発言を含む表現を繰り返している。それを毎回カットしたら何もかも消して外には出せなくなる。

いやほぼ話の流れからズレてしまっているので、カットしても問題はなさそうである。ただ気分的に切り取ると全体に失望してしまい捨てたくなるからしないだけだ。

小説らしき物を書くためにプロットとかいうものが必要らしい。詳しい定義は知らないが、小説書くためのシナリオの様なものか?それを膨らませる事で、しっかりとしたストーリーや設定を保てるそうだが、知ったものを微調整する退屈さは我慢できない。美しさとは加えてできたものではなく、削って残るものだと、誰かの本に書いてあったっけ。ここで正しく引用する作法を知らない事に苦しむ。

まあ良いか。問題があれば誰か指摘してくれるだろう。

僕に向いてる書き方があるとすれば、無駄な文章を最後まで書いてから削る事だ。少し多めに書いて置かないと、削りすぎて何も残らない。

かなり多めにというべきだろう。

主人公も脇役も作り込めない。本当に自分には小説的なセンスがかけらもない。人形遊びに似ている感じか。昔子供の頃はは龍の玉を彷彿とさせるバトルを、適当なオブジェクトに仮託して人形遊びしていたが、今もそれを続けていたらもう少しセンスが壊れずに済んでそれなりに物語を作れていただろうか?

ともかく、最初からセンスが無いのがわかっていながら書こうと足掻くのは、円積問題が解けないとわかった後に頑張る様なものなのだろうか?五次方程式の解に係数の四則演算と根号で公式表現を与えようと試みる様なものか?いや非ユークリッド幾何学の様な別の道がある、というたとえの方がしっくりくる。まだ諦めるのは早いのだ。

せっかくなのでアイデアだけ書いてみようか。

主人公は銀河皇帝の行脚に付き従う学者組織の一員で、この機会に連邦構成国の性生活を記録する使命を帯びている。

この時点で既にちゃんと言葉の意味を分かってるのか自信がなくなる。多分他に正しい言葉遣いもあろう。そんなことより、設定から危険である。当然、この後の旅で、TSとか、精神変化含めてとか、男、正確には、多くの面で女性的な存在ではあるが、配偶子の形成が雄性な存在が孕む役割逆転世界とか、女王蜂のいる世界とか両性とか、その手の話が出てくるが、自分が誘惑に負けて、非常に不躾で汚い表現に堕すことなく丁寧に記述できるか自信がない。きのこの星の類では、30種の性がある性概念とかどうか?みたいな設定をやたら組み立ててしまう。

設定から入っても書けるものではない。人類から生まれた種も何万年と分岐するうちに立派な宇宙人になって、分かり合えなくなっていたりする。そんな世界だけ先に作っても人の心や行動、社会の各面がすぐ書ける様にはならない。

でもそのうち書けると思って続けよう。

この様なSFを書くとして、自分ではオリジナルな雰囲気と思っても、案外要素に分割してみれば、どこかで聞いた様なものだったりする。

しかしそんな事を気にしても仕方ないのだ。

主人公の目的が淡々と達成されるだけでは話としては単純に過ぎる。脇役も作り込んで、目的を設定することも必要だろう。脇役の目的が主人公の目的と相互作用して、時に妨害し合い、時に助け合う様な流れをつくる。では、その目的はどう設定すれば良いか?

例えば、人間には知られたくないことがある、という思想を持っていて、秘密は秘密のままにしておくべきだ、という考えを行動にまで移してくる団体とか?あるいは銀河帝国の属国になっても、独立の火種が燻りつづけている、とか?

一般に宗教団体には性的な側面の科学的な調査に反対する団体を想定しやすい気がする。偏見ではあるけれど。

対立から先に作る方がストーリーの展開は想像し易そうだ。

人間が物語に求めるものって何なのだろうか?
昔の本のタイトルでもないが、戦と愛の二つが絡むことは必須の様である。日常の描写が挟まれて戦や愛憎が劇的になる、という技法もある様だが、やはり何かが起こらないと話としては成り立たない。無事昰貴人では小説としてはまずい。

好奇心に基づく調査、探究、冒険も広い意味での愛とも言える。冒険には戦の要素もある。それは、今の時代的に書くとまずいとしても、異文化の相互作用の面白さは格別なものがある。人が世界を拡大するのは単に領土的野心に基づくものではなく、純粋に未知なる物を知って、美しいものを知りたい。あるいはそれと自分の文化の化学反応を愛でたいから。

人を動かして成長させ、人と結びつけ、その結び付きを解体し、罪も徳も深めるものは何らかの愛を含んでる。それは人間に対するものに限らない。学問への情熱や、創作の喜びもある種の愛だ。街にも大地や海にも、愛を持てば書けないなんてことはないはずなのだ。と言うことは自分は世の中の素晴らしさをわかっていないと言うことなのだろう。

博愛を抱けるほど人間は心が広くないのだろうか?もしそうなら偏愛でも良いので、目の前の何かを大事にする事で、先に進めるかもしれない。

(最初の没作とアイデアは別の物ですが、どちらも未完成なのであまり大差ないかもしれない)

(気が向いたら稿を改めて続きを書くかもしれない)


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