裏方という仕事

 子ども食堂もやっているNPO法人の場所をお借りして、主催イベントをやってきた。イベント中も子どもたちが出入りしていたのだが、見知らぬ大人たちが集まっているこの状況は、子どもたちから見たらいったいどう見えるのだろう。と思った。

 ランドセルを担いでいないところを見ると、いったん家に帰ってから来たのかもしれない。外には自転車が置いてあった。それは人数より少ないから歩いて来た子もいる。任天堂switchを持っている子もいれば、いない子もいるようだ。集まってゲームをしにきたんだろうか。どんな家庭環境か分からないけれど、買ってもらえた子もいれば、いない子もいるのかもしれない。この子は欲しがったのかな、あの子は我慢したのかな、もしかしたら、そっちの子はswitchに全然興味がないけれど、みんなに合わせているだけなのかも。でも、楽しいだろうな。これからみんなで一緒に遊ぶんだ。ここには駄菓子コーナーがある。好きな物をそれぞれ買って食べたりするのかもしれない。いつものように。

 なんだか、ひとりできた女の子もいるみたいだ。どうしたんだろう。細い身体をしている。体質かな、あんまり食べない子なのかな。親御さんが共働きで、仕事帰りに迎えにくるんだろうか。もしかしたら一人親なのかもしれない。可能性だけでいったら、祖父母や親戚に預けられた子どもだったり。家庭環境は色々だ。だから、そうだ、下手な詮索をするのはよくない。「わからない」は大事だ。見えるものしか見えない。変な話、見えたものが本当かどうかだって「わからない」。あっ、この女の子、おとなしくて人見知りするように見えたけど、ちゃんと挨拶を返してくれるんだ。そういうことだ。

 「こわく」はないだろうか。ぼくらは、誰かの居場所に集まった他人である。知らぬ間に誰かの「毎日」へ入り込んだ「侵入者」と思われたっておかしくはない。さっき、挨拶できてすごいとか思ったけど、それはちょっと、ぼくの思い上がりかもしれない。この場に居ることを認めてくれた彼女が、ただ、すごいのだ。

「すみません。子どもたち、びっくりしますよね」
ぼくが台所にいるAさんに声をかけると、Aさんは手を止めることなく、にこやかに言った。
「いいんです、大人たちもこうして勉強するんだなあって、子どもたちが思うから」

心打たれた。伝わるだろうか。Aさんはイベントに登壇するパネリストではなく、ここの活動が始まった頃から関わっているスタッフのひとりである。外からは新しくやってくる子どもたちの声が聞こえ始めた。
「ああ、ワルガキたちがきたな」
Aさんは変わらず手をせわしなく動かしながら言った。その日、ぼくは裏方として、もっと大人たちのために頭と手を動かすのが仕事だったが、なんとも恥ずかしいことである。

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