”検査結果”

 ごろごろと雷が鳴って、今にも大雨が降り出しそうな夜のことだった。
「おまえ、“検査結果”が飛び抜けてるんだって。どうりでだな」
 小学校の担任に呼び出された母が帰ってきて、彼に言った。
「おれ、どうしたの」
「ほかの学校がいいか」
「わからない」
「だよな」
「なにがどうりでなの」
「気にすんな」
 母は彼を抱きしめた。
「なにも変わらないよ」

 地元の中学校へ行った。彼は思わぬかたちで、人が残酷になれることを知った。どうしてそんなに残酷になれるのだろう。不思議だった。たぶん、物語だと思うと人はいくらでも残酷になれるのだ。それも、すごく簡単に。醒めながらにして人は夢を見ることができるという発見は彼を驚かせた。物語が与えてくる苦痛はたしかに身に染みたが、現実の孤独に比べれば、耐えられないほどのものではない。彼は思った。こわいなら演じればいい。無理なら外へ行けばいい。それにしても、外ってなんだろう。わからなかった。

 からだじゅうの水分をしぼり取っていくような夏がみっつ過ぎた。高校受験の時期にさしかかり、女性の友人ができた。推薦で行こうとした学校に落ち、放課後にひとり教室で落ち込んでいる彼女に彼が声をかけたのだった。筆記で合格する。きっと大丈夫。彼女はよくそういった。強い言葉ばかりを選んで語る奥には不安がある。彼は感じたけれども、言葉にすることを彼女は許さないだろうと思って、口にしなかった。

 心を通わせよるようになってしばらく経ったある日、「一緒に行きたいところがある」と誘われた。ついていくとそこは宗教施設だった。数々の真実を大人たちから教えられ、彼は困ってしまったが、正直に「ぼくが信じたいのはたぶん別なものです」と告げた。申し訳なさがただ募った。大人たちは真実の理由をまして語ってきたが、その場に居た彼女だけは彼を守った。こちらの真実を押しつけたくない。そういう理由からだった。

「ごめんね。わかってくれると思ったの」
「わからないわけじゃない。ただ、ちがうんだ」
「嫌いになった?」
「ううん」
「じゃあ。好き?」
「なにを」
「わからない? 押しつけたくは、ないんだけど」
「わからないわけじゃない」
 ただ、ちがうんだ。
「わからないフリをするの、良くないクセだよ。顔見ればわかるんだから。きっと、ただ、ちがうんでしょ」
 彼は本当になにもいえなくなった。感情は時に別な真実を凌駕する。むずかしいと思った。

 卒業の季節がやってきた。彼女は無事に志望校に合格し、彼は落ちた。紙とインクに向き合ってきた時間を振り返り、厳しい平等についてふたりで語り合った。結果ひとつで身を置く環境が左右されることに多少の不満はある。しかし、それが自分たちを結び付けるのに一役買っていたのは事実だった。
「ギフテッドって、知ってる?」
「なんだろう」
「もしかしたら、わたしたち、それなのかもしれない」
「それは、なにか特別な意味があるの?」
「わかるでしょう?」
「わからないよ」
 彼女は彼を見つめた。
「みんな才能が好きなのよ。愛するあまり憎むほどに」
「きみは、努力していた」
「努力なんて誰も見ないわ。才能へ全部落とし込まれていく。なぜかって、簡単に納得できるから」
「それは、悲しいね」
「悲しいわ。でももう負けてなんかいられない。ねえ、いつまでも子どもみたいな目でものを見ちゃだめ。傷付くのは自分だわ」
「そうかな」
「人は物語の中でしか残酷になれないだなんて、今も思っているの?」
「そうだよ」
「それが真実?」
「そうだよ」
「もったいないわ」
「もったいない?」
 愛するあまり憎むほどに。彼は頭の中でフレーズを繰り返した。暗い感情が全身に広がり、抑えられなくなっていくのをもう一人の自分が眺めた。
「おれはなにも変わらないよ。“検査結果”の話をしたから? それはそれだ。良いとか悪いとか、楽とか苦しいとか、関係ない。きみはなにか勘違いしているよ」
「レッテルも受け入れて進む。それも生き方じゃないかしら」
「わからない。きみは、選んだんじゃないのか?」
「選んだよ」
「それならどうして」
 ワケのわからない理由をもってきて変わることを押しつけるんだ。
「物語の外って、あると思う?」
 彼は答えられなかった。

 最後の日、彼女から手紙をもらった。家に帰ってから読んで欲しいという言葉通り、彼は帰宅してから手紙を開いた。そこには、あの日声をかけてくれたから仲良くなれたことへの感謝が書かれていて、無駄なことはひとつもないという言葉がやけに浮き上がって見えた。強いセリフを並べるのは彼女の変わらないところで、好きになれてよかった、あなたに出会えてよかったと続き、最後は「ありがとう」と締めくくられた。

 別れは彼を新しくひとりぼっちの気分にさせた。それは初めての経験で、泣きだしたい気持ちの行き場を探したが見つけることはできず、どうしようもなく積み上がった。なにがちがってなにが同じなんだろう。答えはない。答えがあって欲しいと彼は思った。けれども、先へ進むにはまだ幼く、立ち止まって泣くよりほかに手立てはなかった。

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