辺境の社会人
いい歳になってこんなことをいうのは情けないのだろうが、「社会人」という言葉を聞くたび、わたしはきまって遠回りしたい気分になる。
幸運にも大学を卒業し(高校は出れなかった)、偶然にも就職し、しがなくも人並みには本当の意味で仕事ができるようになりたいと努めて六年が経つ。結果はどうあれ、人によっては自分の幸運と偶然あとは多少の努力とを、「そろそろ誇ってみても良いのではないか」と思い始めてもおかしくはない、そんな時期だろうと思う。
けれど今もってこのありさま、それがわたしである。
求めようと思えば生来の性質、生い立ちにも原因はある。もとより順当に進むのは遠い夢、高速道路のようにまっすぐ生きたいと思うこと自体、わたしには叶わぬ願いである。たとえどれだけ成長しようとも、つまらない問題を避けて通ることはできず、良いイメージをもつ前には必ず暗い沼のような場所をひとりぼっちでずぶずぶと進み、そしてギリギリのところを薄目で横滑りしていく。そんな時間はどうしても必要だ。
と、理解したのは十代で、順当、その二文字を痛惜しながら放棄した。不快も重要であると気付くまでに軽く二十年はかかっただろう。他人になにかを伝えることができるようになるには、それこそ順当にいって、また二十年はかかるにちがいない。
そしてこの予想もきっと外れる。
大学四年生になった時、周囲が就活を本格化させるのに合わせて、いくらか未来を想像してみたことがある。しかし明るい景色を内側に立ち上げることはできなかった。
メディアは、劣悪な労働環境や醜悪な人間関係を正しさの顔で(それは優しく見えてどれもカチコチにこわばっていた)発信し、ぼくらは情報を得ることにまったく苦労しなかった。選択的になること、認知をゆがませること、しまいに偏って理性などが暴走すること、どれもたやすい。当然ブラックを合言葉にぼくらはイメージを強くした。想像のたしからしさは、一足先に就職した先輩から簡単に手に入れることができた。全身で疲れを表現する姿はひとつの立派な記号であるし、ありふれながら一種の芸術であるようにも、今も思える。
そうやって未来を考えているうちに、地理的にはアジアの極東にある島国の、それも蔑視を含みさえする裏日本という名をあてがわれたこの土地、この辺境を思い、「社会人」は一般的というより、むしろ特殊的なものとしてわたしの中で像を結んだ。それは一方的に生存の必要性とひとつの理想を説いた。社会に出たくない。仲間たちは正直にいった。けれど。受け入れて大人へと向かった。わたしは子どものまま、辺境のそのまた辺境に生まれ落ちた自分のことを思っていた。家父長制を体現しきれぬ父と、嫁の役割を果たすべく使役され続ける母。それぞれが違った奴隷のような形のさなかにあって、金で金を増やす時代に、米を育てては父母は老いる。
子とともに田畑を耕し、作物を収穫することを願わない親がどこにいるだろう?
十代最後のことである。
「ほんとうにぼくを大学へ行かせたいの?」
「わたしたちはいうほど教育をうけていない」
あまり話題にするべきことでもないが、たぶん学びとは、快楽と激痛である。わたしは学びが遠くのほうで本当に音を発するのだと知っていた。それはみしみしと、なにかを知らず、善悪や理非もなく、ただ引き裂くのである。
父母のいう教育は、わたしの知っている学びとはかけ離れていた。透けて後ろに得体のしれない黒い影のようなものがあり、それが父母に、教育を、と言わしめている。わたしは思った。
否定されたくて問うた言葉はちがった仕方で、つまり黒い影などないという仕方で、わたしの期待を裏切った。
快楽のない激痛ばかりの学びに、なにひとつ価値はない。
ないはずなのだ。
……今やわたしの社会人の居場所はこの内なる辺境である。わたしの偏狭の社会人は、特殊な規範を一方的に共有してくる辺境の「社会人」に対立しながら、ともに生存と理想とを訴えてはくる。少なからず共通点を見るようになりつつも、方法なのか哲学なのか、それともまた別のなにかなのか、理解しがたいものは、やはり多く両方に残っている。
わたしには、狭量な視野と狭量な視野のどちらかしかない。わたしはわたしのことをそう思う。
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