就活はなぜ気持ち悪いのか?


就活中の大学生がこんなことを言っていた。

「なぜか焦っているんです。でも何に焦っているのか自分でもわからない。無理に周りに合わせる必要もないって、頭ではわかっているんですけど」

思えば、言わないだけでそんな人は意外と多かった気がする。振り返ってみたい。

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 大学3年生の夏くらいになると、“それ”はいつの間にか近くにきていた。別な言い方もできる。私たちは、突然“それ”に気付いたフリをしていた。暗黙のルールがあったのかもしれない。口にしてはいけないことのような、そんな感じがあった。気にしたくないという人も多かったし、私もそうした。

 けれど、“それ”にさらされる未来がくることを、私たちはずっと前から知っていたように思う。次第に沈黙は破られ、誰からともなく口を開くようになった。

 そして大学4年生になった今、“それ”は日常の話題になった。気にしたくない様子の人もいるけれど、結局のところ、逃れることはできていないように見える。しかたのないことかもしれない。予感だった”それ”は今や私たちの中で確信に変わってしまった。

 まるで、避けることのできない運命みたいだ。あちらこちらで、個人的な不安をまとまらない心情とともに告白する人が増えている。一種の助け合いの形が作られ始めるようにもなった。

 ”新卒一括採用”

 おそるおそる気持ちを差し出す人がいた。

 いつのまに傷付いていたのだろう?
 どうして傷付いてしまったのだろう?
 そう思うと、私の心はいつも痛んだ。 

 それにしても、なぜこちらにまで、おそるおそるなんだろう?

 あらがう人たちも少なくない。かれらは不安や焦燥感を抱えながらシステムを嫌悪した。無個性や同調圧力といった言葉を使い、いちいち言いはしないけれど、それぞれがそれぞれの孤独な場所から、何か大切なものを発見しようと日々頑張っている。そんなふうに見える。

 その中には、気持ち悪さの正体を暴いたような気になって、けれども逃げ出し方が分からず、ただ吸い込まれていくだけの自分を嘆く人もいた。私たちに降りかかってきた“それ”は、暴こうとすればするほど、変なまぼろしを見せてくるのかもしれない。同じ力を返されて、嘆く人はいつしか、個人的な心情をまとまらないまま告白しあう側へと加わっていった。

 こんな言葉が印象に残っている。
 「輝かしいDNAだけが大事なんだよきっと。そんなの誰も知らないのに」

 たぶん私たちは、予感だった“それ”をどこかで確信に変えたのだと思う。ずいぶん自然な流れだった。そして避けられない運命であるかのように、みずからの手で、みずからの現実に“それ”を登録していった。生まれ育った場所のルール、大人になるための通過儀礼は受けるべきものだからと、自分に言い聞かせるみたいに。

 そうして出来上がった私たちのあたらしい現実は、ひとりの力じゃ到底実現できないほどの強さをもっているように見える。外から見れば、大学という限られた世界のそのまた内側で起きている、些細な出来事なのかもしれない。けれど巨大だ。

 ︎︎心情を告白せざるを得なくなった人や、あらがって無力を嘆く人たちがいる。私たちはまさに私たち自身が作り上げた現実、つまり、小さくて大きくもある強い現実の中で、傷付いてもいるのだろう。かといって、望み望まれるようなイノセントな形でいることもできない。もとからそういう姿をしてはいないのだと思う。たぶん。

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 私も就活はイヤだった。でもどちらかといえば、みずからの強い現実に吞み込まれていく私と私たちのほうが、イヤだったのかもしれない。

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