情けない話

 時々、「社会に出たくない」と相談を受けることがある。最近もあった。相談というより「そういう気持ちを誰かと共有したくって……」といった感じかもしれない。なにかしらの不満や不安みたいなものがその人の中にあるけれど、うまく人と共有できなかったり、共有させてもらえなかったりといった環境にいるのかもしれない。なんにせよ、すごく正直な人だな、と思う。正直ならそれでいいんじゃないかな、きっと大丈夫だよ、とも思う。

 本当のことを打ち明ければ、私は社会性が無い。それで困ることといったら、数えきれないほどで、もし数え出したりなんかしたら、夜道をふらふら歩いて海や川にでも行き、コンクリートの切り立った部分に立ちながら、ああもういっそ、と考え始めるかもしれない。そして決断する直前になり、ふと見上げてみたらなぜか月が綺麗で、わけもなく、もう少しだけ生きてみたくなるとか、そんな感じである。なもんだから、正直なことを言うのは気が引けるけれど、社会や社会性のことを聞かれても私はよくわからない。

 とはいえ、そんな私に向かって話をひらく人はたしかに目の前にいたのだった。頼んだ紅茶に少しも口をつけず、ひととおり話した後はただ黙しているから、思わず「あの、冷めますけど…」と言ってしまったくらいだった。なにか力になれたらと思っていたのに、ようやく出た台詞がそれである。けっこう情けない。慌てて経験をたどり、「悩むのはエネルギーがいるし、泣くのは水分がいる。できればご飯を食べて。無理なら水分だけでも。水分だけでもね、人間、数日は生き延びることができるんだって。ほんとだよ。なんならそれがあったかいと最高だよね」と言った。もっとマシな言葉がほかにあったはずである。

 今しかないというほどに打ちのめされ、悩み苦しむ人を前にした時、未来の話が残酷すぎてできなくなってしまう経験はこれまでも何度かあったし、ああわかるよ、あるよねそういうこと、と思ってくれる人も何年も生きていればさすがにいるだろう。いて欲しいと思う。悲しみや苦しみ、孤独に親しむためのレッスンは、たぶん平等に、なにかしらのタイミングで全員に訪れる。そういうものなのだと、繰り返し、繰り返し、本人にはまだ言えないけれど、これでも優しくなったと思いたいと思いながら、思っています。

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