「自己肯定感」の末路

『自己肯定感なんて言葉が無かったら、こんなに悩まなくていいのに』

以前、知人がこぼした台詞です。それが今も心に残っているのです。

深い苦しみがにじんでいました。私は軽々しく「わかるよ」と口にできません。「気のせいだ」とも言えません。苦しみは深ければ深いほど、あいだに沈黙を生みます。どうしてと言われても、それはそういうものだから、としか今は説明のしようがありません。
近くて遠い場所があります。そこでひとり長い時間を過ごすこともあるでしょう。何処へも行けず、脱落することも許されない。そんなふうに感じることもあるでしょう。生きることのうちにはそうしたものも含まれていて、経験したという方も少なくないと思います。苦しみのひとつひとつは、ひとつひとつが、それぞれ「そういうもの」だったりします。

長くふわっとした書き出しになりました。
その時、私は立ち尽くしていたのです。昔どこかで聞いた「遠く離れてそばにいて」という言葉を蘇らせるばかりでした。

自己肯定感は、なかなかややこしい言葉だなと思います。ここまで人間を苦しめるようになったか、と考え込んでもいます。作り出された言葉のほうが人を支配する。それ自体は別に珍しいことではありません。よくある言葉の末路です。そしていつかケリがつきます。中身は変わらないまま呼び方だけ何度か新しくなったりもしますが、最後はケリがつきます。ただ、言葉の末路は非常に長い。人が生きるより長い。私はそう思っています。
ところで自己肯定感についてそういう見方をする人は実際にどれくらいいるのでしょうか?わかりませんが、まあ、見方くらいはあったっていいんじゃないかなと思います。

私が初めて自己肯定感を聞いたのは10年前くらいで、大学生の時でした。友人から教えてもらったのかもしれません。今は主要なメディアがSNSになっているから、聞くこと自体はもっと早くなっていそうです。もしかしたら中学生くらいには知るんじゃないでしょうか。

自己肯定感に対する最初の印象は、興味がわかない話題の連載漫画、でした。たとえば、幸せな人は幸せが何かとかたぶん問わないし、お金持ちはお金を気にしない。そんなふうに、自己肯定感が高い人は自己肯定感について悩まない。気になる人が気にしているだけのかなり主観的な言葉だと思いました。

それからちょっと落ち込んだり自信を失くしたりするようなことがあった時、これが自己肯定感が低いってやつか?とか考えてみたりしました。でも人に言わせると、いや高いよとか、今は低いよねとか、色々言われるのです。言われるとそんな気になってきたりもするのです。結局、誰が高いとか低いとか決めるんだろう。よくわからなくなりました。専門家が決めたら決まるんでしょうか。どうなんだろう。わかりません。今でも私の中では曖昧になったままです。ひょっとすると、自分も含め誰にも決められないんじゃないかと思います。

それで生まれた疑問を、なるべくきっちり書いたのが次です。飛ばしていいです。

  1.  心理学の領域あたりで「自己肯定感」が生まれたのではないか?

  2. 社会学の領域からも「自己肯定感」が聞こえてくる。心理学からの影響があったのではないか?ならばどのように影響したのか?

  3.  ちょっと前までは、論文やビジネスの世界で使用される用語だったのではないか?

  4. それは日常会話にもものすごいスピード感で浸透している。一般化したのはなぜか?

  5. ものすごいスピード感で浸透するのは、主要なメディアがSNSになっていることと関係しているのではないか?

  6. 日常会話の「自己肯定感」と、用語としての「自己肯定感」はなにかちがう気がする。なにがちがうのか?

つまり、「自己肯定感」がなぜ生まれ、広がったのか。それが疑問なのです。私なりの予想を会話に仕立てると次になります。

なんかえらい人A「幸せで充実した日々を送る人って、自己肯定感っていうの?そういうの高い感じするよね。逆に低いと無気力・無感動・無意志な、自分が無い毎日を送っちゃうって感じだよね」

なんかえらい人B「それな。自己肯定感ってたぶんあるわ。それで色々わかりそうじゃね?うまくやったら、色々良くなるんじゃね?」

聞いた人「それや!おいみんな!これだ!これが原因で、秘訣だ!」

聞いた人から聞いた人「おおー!」(ざわざわ)

まるで現在進行形の歴史物語です。今、自己肯定感は存在するという前提の上に立っていて、高いとはどういうことか、低いとはどういうことか、高い人の特徴は何か、低い人の特徴は何かなどと語られるくらいには絶対化されています。それは多くに受け入れられていて、勝勢で、そのため正義を得ているような気もしますが、これからどうなっていくのか。

『自己肯定感なんて言葉が無かったら、こんなに悩まなくていいのに』
知人からこぼれた言葉は、本人にとっても世の中にとっても、自己肯定感が起承転結の”転”にさしかかっていることを知らせていると、そう思えてなりません。実際、「自己肯定感?美味しいのそれ?」というくらい無視したがっているのが知人なのです。そして、そんな人は増えているんじゃないのかなと思います。

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