同じ抱負

 心を配るということについて、たしかなことが言える人はどれほどいるでしょうか。

 新年の抱負を聞かれると、わたしは毎年のように「失礼なことを言わない」と答えています。いや、正直に言って、毎年同じことを口にしています。それだから、無理だとか、あきらめろとか、ウソは良くないとか、散々に言われて笑われます。とはいえ、長らく心にかけているけれど、なかなか身に付いてはくれないことのひとつやふたつ、誰でもおありになるのではないでしょうか。そのうち無い自信をさらに失くし、もしかすると自分は何か欠落して生まれついているのではと思う始末です。

 十二月のはじめ、ある本屋に行ってきました。初雪のあとのことです。ラインナップや本の並びはもちろん、わけかたも素晴らしく、初めての体験でした。しんしんとした感動があり、書きとめておきたい思いに強く駆られました。もって一年の締めくくりにすると決め、しばらく言葉を探し、確かめ、文を連ねながら過ごしました。
 大雪が降り積もる頃、「本の差し出し方が丁寧な本屋」というカタマリができました。しかし同時に、それ以上書くのは難しいと苦い理解をしました。なにしろ、差し出すということも、丁寧さのことも実はよくわかっていないのです。ぐしゃぐしゃに散らばった言葉があちこちに残りました。わたしの寒々とした部分にある言葉はいつかあたたかくなるまでしばらく残っていきそうですし、そうでないものは形を変えてまたどこかへ流れていくのだろうと思いました。
 幸田文という人の文章にこんな一節があります。「かげは品格を深くする」。そうだったらいいなという気持ちです。文章にできなかった事実は、ついに抱負を実現できないまま一年が終わるとわたしに告げ、明らめていました。けれども、欠落とは何かがすっぽり抜け落ちて"無"であるということではなく、そういう名の寒々とした「かげ」があるということです。しばらく生きてわたしはそういうことを学びました。「かげ」の部分には、その人を深くしながら、あたたかくなるまで残り続ける何かがあるはずなのだと。
 
 それでまた今年も同じ抱負を言うことにしました。そろそろ、実現しても誰にも信じてもらえないかもしれません。狼少年の物語。あれはほんとうなのだと思います。

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