資本主義の中で表現すること

最近、製品開発がクリエイティブかクリエイティブでないかということを考える。
自分のアイデアがあったとしても、ニーズがなければなかったことになる、その中で自分と社会と折り合いをつけて表に出して、お金にする。
この工程は、果たして表現なのか?

でも、そこら辺にいる路上ミュージシャンを、まじまじと聴く時、無料であっても、音程の悪さや、表現の幅の狭さ、自由のなさ、単純な技術力の無さ、自分に酔ってるだけのパフォーマンス意識の無さを、冷静に判断してこれは表現ではないと感じる自分もいる。
お金を求めない自分の思考のアウトプット全てを表現だとも私は言い切れない。

結局自分の思考に対して相手の受け止められ方がどれだけ一致してるかが、私の現状の表現と言えるアウトプットな気がしている。

やりたいこと、やってみたいこと、伝えたいことが沢山あるけど、考えが曖昧で、言葉足らずで、思いが伝わらなくて、全く届かない
周りを見れば自分と違う言葉で自分よりも適切なアウトプットをしている人がいる。

これが資本主義の中では、その伝わってるか否かが、お金に置き換えられてしまうからまた厄介。
このベースがある時点で、それは表現でなくなり、顧客思想の自分から出てくる表現ではなくなる?
でもその思考プロセスから、アウトプットは表現となる。

ここら辺がまだ言葉になってなくて、心をすり減らしそうになる。
もうすこし考えまそ

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