Love myselfとは


今日は自愛ということについて書こうと思う。

自分のことが好きだというそのこと自体、私はかなり敏感に反応してしまう。


自分のことが好きとは一体。考えてみる。

自分に自信を持っていていること。
(その根底には多分愛されていること。)
他は他と割り切れていること。
忖度なしに欠点も含め自己評価できること。
褒められた時に素直に喜べること。
言い換えれば、愛されるということを素直に受け入れられること。
同じ原理で、他の人の成功も喜べること。
即ち素直に愛せること。
空想的範囲にまで高望みをしたり貪欲になったりしないこと。


多分キーになるのは自信、だろう。

自分に自信があるとは。
たぶん、自分の長所が分かっていて、それを(いわゆる)大事な時に発揮して、割と上手くいく、という成功体験が積み重ねられて、得られるマインドのこと。
もしくは失敗をして修正というトライアンドエラーの上に成立する経験的な聡明さ。


さて、なんでそんなに自分に自信が無いの?とよく私は言われる。


理由を考えてみる。主にふたつ。

1つめは思うに多分、多少ハングリーすぎるところ。
よくできたね、と言われたら、いやもう少しできたんだけどな…と思う。
そうなんですよ、ありがとうございますとなってしまうと、自分の成長が止まってしまうのでは等思う節がある。

別に自分のことが嫌いな訳では無い。
でも、調子には乗りたくないし、それで他の人から疎まれるのも嫌だ。
まあつまり、臆病ではあるとはいえるだろう。
人の目は過剰に気になっている。

出る釘は打たれる。
ただの経験則を超えた呪縛のようなものとして私を拘束している。
(実際、出過ぎた釘になったことも、こてんぱんに打たれたこともない。)

謙虚で控えめな方がよい、というかなり時代錯誤的な自分の美徳も手伝っている。
そういう人には自然と庇護欲が湧いてしまう自分がいるということを考えると、私も守られたいのかもしれない。ある意味。

路線が少しズレつつあるので修正する。


2つ目は、この十字架が本当に効力を発揮し、自己表現を恐れるようになってしまっていること。

逆説的に自信が無い(というかそう自分に強いている・推奨している)という先述の前提をふまえ、それが具現化されてしまうこと。

思っているだけでは自信は喪失しない。
絵に描いた餅はないように、別に想像しているだけではその通りになることはないのだが、その暗示をあまりにも継続的に自分の中で反復させていると、そうともいかなくなる。

なりたいと思い描く人物像を意識し続けて、努力するとそこに近づいていくのと同じ原理だ。
達成したいゴールがある場合、何かしらのロールモデルを自身の中に設定してその言動なり表現なりを心がけることは大事である。

そういったプロセスが、私の場合マイナス的に働いているということだ。
謙虚に生きたい、という願望が行き過ぎて自信の喪失、自己表現への恐怖への作用として働いてしまっている。

これが二つ目の原因、というか、派生的要因である。


以上、自分に自信がないことの分析をしてみた。

ここから以下の解決策を導こう。
言えるのは、もう少し、自分に対して、多少は過剰な自己評価をすること、虚勢を張るということの、積極的受容を許すことも、ある程度は必要なのかもしれないということである。

こうしたことがある程度できるようになったとする。
そのような人物を(願望も込めて)自分‘と名付けよう。

自分’は、ライブやビジュアルに対し、完璧には納得していないにしろ、現時点での成果であるとして、いったん妥協をする。
そして、そのことに対し、過剰に悲観的にならないかつ、他者からの評価を素直な心で受け入れる。(もちろん批判も)

そして、次はこうしようと改善策を考える。
それを行動に移す。
そうして、次の機会では自身の成長を微細であるが感じ取れるようになる。

自分’はここで自分に対する自信を獲得する。
大切なのは、これが自分の中で根拠づけられた自信であるということだ。

そして自分’は、自分のことが好きかもしれない、と思うようになる。

これが、未来の自分のロールモデルである。

頑張りたい。以上。


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