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ジョジョランズの今後の展開を予想する

 ジョジョの奇妙な冒険・第九部『ジョジョランズ』の第一巻が発売された。
 巷では最終章との噂もある第九部。そしてその根拠の一つが主人公が「ジョディオ・ジョースター」という名を与えられている事にある。

「ジョジョ」のニックネームで呼ばれる主人公たちと、吸血鬼「ディオ」との長きに渡る因縁の物語を描いてきた本作において、最後の主役を務めるにこれ以上に相応しい名前は言われてみればもう無いという気もするのだが、では肝心のジョディオのキャラクター造形についてはどうだろう? 第一話の時点で自動車盗を行い、麻薬の密売に加担し、現在ウルトラジャンプ本誌においても集団で計画的な強盗を行っている、この様な男がジョジョという長きに渡る血統の物語のトリを飾る事に、違和感を覚える読者も多いのではないだろうか。

 そしてこれは個人的な話ではあるが、私は先日『ジョジョランズ』の前作にあたる第八部『ジョジョリオン』を初めて読み通し、いくつか思う所があった。そしてその一つが、ラスボス「透龍」の存在である。

 ジョジョリオンについて、ネットで感想を見ると、悪評が結構目に付く。そしてその理由の一つが「ラスボスがショボい」というものである。事実、透龍の行なっていた行為を端的に説明するなら「最先端医療を駆使した金儲け」であり、世界征服や人類の救済を目論んできた歴代のラスボス達と比較すると、妙に俗っぽい感じがするし、パーソナリティに関しても一見描かれていない部分が多いように見える。実際魅力的な悪役だったかと問われると素直に首を縦に振れない読者が多いのも理解は出来る。

 しかしながら、何故この様な人物がラスボスだったのか、作者のその意図する所は何なのかを考えた時に、あくまで私なりの解釈ではあるが、ジョディオというキャラクターを主人公に据えた荒木氏の目的もまた見えてきた気がするのである。

 何故よりによってこの様な男が最後の主人公なのか? そして、今後の物語にディオの存在は関与してくるのか? そして、何故最後の舞台がハワイなのか? この記事ではジョジョという作品が取り扱ってきたテーマの変遷を追いながら、恐らく最終章となるであろうジョジョランズという作品を通して、荒木氏は一体何を描こうとしているのか、個人的な今後の展開の予想を行って行こうと思う。



 ジョジョの奇妙な冒険を語る上で欠かせないのがキリスト教的価値観に基づくストーリーである。それが表立って強調されるようになったのは、第五部『黄金の風』以降だと思うのだが、第一部『ファントムブラッド』の頃から作品の根底に流れていたのが「善悪二元論」的な価値観に基づく作劇である。

 少年漫画は数あれど、ジョジョ程「正義と悪」、「敵と味方」が徹底的に対比して描かれていた作品は少ないのではないだろうか。物語の導入部における、ジョナサンとディオの描かれ方からしてそれは顕著である。ジョジョの物語において、善人と悪人の間には絶対的な境界線が存在し、悪(サタン)は必ず裁きを受ける運命にあるように描かれていたと思う。

 その上でジョジョの舞台となる世界は、カルヴァンの予定説を採用していたように読める。簡単に説明すると、現世で善行を積めばどのような人間でも天国へ行く事が出来る、という従来のキリスト教の教えに対して、天国へ行く事の出来る人間は、予め神の意思により決定されており、その運命は決して覆る事は無い。という考えがカルヴァンの予定説、及び二重予定説である。この思想の影響下にある一部のプロテスタントの一派は各地でユグノーやピューリタンと呼ばれた。彼らは救済を得る為に善行を働くのではない。自らが救済される運命にあるという確信を得る為、善行を働くのである。

 ジョジョの作品内におけるピューリタン的人物としては、第六部『ストーンオーシャン』のラスボス、エンリコ・プッチ神父が該当すると私は思う。ディオの野望を継ぐ存在である彼には常に確信があった。自らが正義であるという確信と、それ故に自身の目的は必ず達成されるという確信である。何故なら予定説では、文字通り「正義は勝つ」運命にあるからである。戦いの最中に生じる偶然の数々を神父は「神の加護」と解釈し、力に変えて行く。自らが「勝利する運命にある」という確信が何より強固な彼の支えとなり、事実、神父は歴代のラスボスの中において、最も主人公たちを追い詰める事に成功する。しかしながら、ジョジョの世界の定義において、彼は紛れもなく悪であった。その為、結局勝利を目前にして彼は敗北する。それが悪(サタン)である彼の運命だったのである。こうして第一部から続いたジョースター家とディオの因縁の物語は一度終幕する。

 その後、物語の舞台は新世界に移行し、世界観が一新された訳だが、私は変わったのは舞台となる世界だけではないと考えている。



 第七部『スティールボールラン』は、19世紀のアメリカ合衆国を舞台に、莫大な優勝賞金を賭けて大陸横断レースを行うというストーリーである。舞台がアメリカである事、そしてレースという題材を取り扱っている事、この二つにこの作品のテーマが集約されていると私は思う。

 まず、レースという題材に着目したい。というのもこれまでのジョジョにおける正義とは、悪の存在と戦う事だった。ジョジョの世界における悪の定義として、作中では度々「自分の利益の為に罪なき弱き者を利用する者」と説明がされており、前述したプッチ神父も含め、作中でこの定義に当てはまった人間は例外なく裁きを受けている。これが第一部から第六部にかけてのジョジョの世界観である。

 では、レースという「競争」における正義とは何か。それは、勝利する為に最善を尽くす事ではないだろうか。事実、この勝利に対する渇望は「漆黒の意思」という言葉で作中で説明されている。第七部では、この勝利への意志が弱い人間から物語から脱落していく。第七部『スティールボールラン』における悪とは「勝利への意思が薄弱な者」である。この時点で、この作品がこれまでのジョジョとは全く異なる価値観で描かれた作品である事が理解出来ると思う。主人公のジョニィは下半身付随を治す為、前作では悪役だったディオは下層階級から成り上がる為、レースの参加者は皆それぞれが己の野望を成し遂げる為に死力を尽くして戦う。そして、このレースの裏の開催者であり、ラスボス的存在であったアメリカ合衆国大統領ファニー・ヴァレンタイン。国益の為に戦う彼もまた、このレースの一参加者として描かれていたように私は思う。

 土地を追われたインディアンの青年・サンドマンがレースへの参加を決意する所から第七部の物語は始まる。彼の視点からこの物語が始まった事には大きな意味があると私は考えている。

 言わずと知れた「正義の超大国」アメリカは、侵略者たちの国である。コロンブスの上陸を発端に勃発したインディアン戦争におけるインディアンの死者は数百万人にも及ぶとされ、現在アメリカ国内におけるネイティブアメリカン(インディアン)の人口は、アメリカ全土の約1%にも満たないとされている。物語の舞台がアメリカである以上、彼の存在は世界観の説明として必要不可欠だったように私は思う。

 彼は物語中盤で唐突に脱落してしまう。良くも悪くも彼は「人が良すぎた=勝利への意志が薄弱だった」のである。レースの途中で、彼は礼儀として大嵐が接近している事を敵であるジョニィたちに教える。そうして生かしたジョニィに討たれてしまうのだから何とも皮肉な結末である。そしてその背後には、自らの勝利の為には手段を選ばない大統領ファニー・ヴァレンタインの存在があった。

 物語終盤、ジョニィは葛藤する。自身の下半身付随を治す為だけに、アメリカの国益を守る為に戦う大統領を倒そうとしている自分こそが悪なのではないか? と。確かに、アメリカという国からすればジョニィは紛れもなく国の平穏を脅かす「侵略者」だ。しかしながら前述したように、アメリカという国自体がその侵略者たちによって築かれた国である事もまた事実である。正に構造主義からポストモダンへ。20世紀中頃から後半にかけて現実世界で行われた思想的潮流が、宇宙の一巡を得てジョジョの世界でも行われ、今までのような善と悪の戦いではなく、レースの参加者として、互いの存在を賭けた『対等』な戦いが、この第七部で始めてジョジョという作品で描かれたと私は思っている。

 ただ、対等とは言ったものの、やはり米国大統領と一個人、体制と反体制という大きな壁が両者の間にはあった。そしてこの壁を越えて、真の意味での『互いの存在を賭けた対等な戦い』が描かれたのがジョジョリオンだと私は解釈している。



 壁の目という、あらゆる物を融合させてしまう土地の力で、突如としてこの世に出現してしまった異形の存在・仮称『定助』が、元となった人物の吉良吉影でも空条仗世文でもなく、東方家の一員『東方定助』としてのアイデンティティを獲得するまでの物語が、このジョジョリオンである。

 本格ミステリ好きの私としては、色々文句を言いたくなってしまう出来の作品ではあったが、ラストシーンに関しては、ジョジョ全作品を通しても一、二を争うくらいに好きかもしれない。この結末の為にジョジョリオンという長い物語はあった。ただ、この感動のラストの影に、バッドエンドを迎えた人物を忘れてはならない。それが本作のラスボス「透龍」である。

 前述した様に、このジョジョリオンという作品は本格ミステリの体を取りながらも、非常に矛盾点や未回収の伏線が多く、よく出来たストーリーだったか? と問われると、個人的な答えはNOだ。しかしながら、キャラクターの作り込みや、それに付随する作品のテーマの一貫性に於いては、私は荒木氏に絶対の信頼を置いている。このジョジョリオンに関してもそれは顕著で、主人公である定助と、ラスボスである透龍は徹底して同質の存在として鏡合わせに描かれている。

 一つは、共に「社会に居場所のない存在」である事だ。定助には過去がない。戸籍も無ければ記憶もない。仲間もおらず、親の愛情も知らない。定助はその事に葛藤を覚え、一時期は元となった人物の片割れである空条仗世文に自らのアイデンティティを求め、彼の目的であった吉良ホリーを救う事に生きる意味を見出す。しかし彼の下した最終的な結論は、自分は空条仗世文でもなければ吉良吉影でもない。この前、壁の目から生まれたばかりの定助だ。というものだった。

 対する透龍はどうだろう。作中で、岩人間は同族に対しても特に仲間意識のようなものはなく、また親子の間にも愛情のようなものが存在しない生物として説明されている。また彼らは社会的に認知されていない生き物であり、それぞれ表向きの人間としての姿で社会に擬態している。透龍に限っては明負悟という姿形もまるで違う他人の姿を使っていた。ジョジョリオンに対する批判として、透龍のキャラが立っていない、というものがあるが、それはある意味当然の事なのだ。彼もまた定助同様、アイデンティティの欠落にずっと苦しみ続けてきた人物であり、この前生まれたばかりの定助と同じくらいに、過去の存在しない人間だったのである。

 その上で、彼らの二つ目の共通項は、唯一自分の存在を認めてくれた康穂の存在だ。冒頭で、康穂に土から掘り起こされた定助はこう言う。
「僕を知っているのは君だけだ。この世界で他には誰も知らない」
 全く同じ感情を、透龍もまた康穂に抱いている筈だ。康穂自身、生まれつきスタンド能力を持ち、家庭にも問題を抱えて育ったある種の特殊な存在だったので、唯一透龍の存在に気付く事が出来た。作中で、定助が二人が交際していた頃の写真を見て激しい嫉妬を覚えるシーンがあるが、内心は透龍も同じ筈だ。共にアイデンティティの欠落に苦しみ続けた人間同士、そんな二人にとって世界で唯一自分を認めてくれた存在が康穂だったのだ。

 社会に居場所の無い者同士が、自分の居場所を獲得する為の戦いが、このジョジョリオンだったのだと私は解釈している。定助はこの戦いに勝利し、東方家の一員『東方定助』としての居場所を得る事に成功する。一方敗者である透龍は、誰にも知られる事無くこの世から消滅する。この「誰かが幸福になる為には、誰かが不幸にならなければならない」という世界の仕組みは、スティールボールランでも語られていたし、新世界に突入して以降のジョジョシリーズに通底している大きなテーマ、並びに世界観だと思う。



 ここで第九部『ジョジョランズ』の主人公、ジョディオ・ジョースターなのである。彼は第一話の時点で、この世界のシステムを理解した上でシステムの支配者になる事を決意している。こうして整理すると、スティールボールランやジョジョリオンは、ジョジョランズのスタートラインへの前振りとして非常に良く機能している事が分かると思う。では本題に入ろうと思う。おそらく最終章であるこのジョジョランズでは、どういったストーリーが展開されるのだろうか。

 私がジョジョシリーズに惹かれる理由の一つに、部を更新する度に何らかの新しい試みが見られる事がある。それは波紋能力からスタンド能力への移行に始まり、ロードムービーの第三部に続いて、箱庭ものの第四部、第五部ではそれまでとは一風変わった中性的な美青年たちの戦いが描かれた。第六部では初めて女性が主人公に据えられた。ここで世界が一旦リセットされると同時に、正義と悪の戦いの物語も終わりを告げる。

 第七部では反体制と体制の戦いが描かれた。第八部では遂に、対等な人間同士の互いの存在を掛けた戦いが描かれた。では、最終章と予想される第九部で行われる最後の新しい試みとは一体何か?

 私の予想は、第九部『ジョジョランズ』は主人公ジョディオ・ジョースターが、ラスボスになるまでの物語になる。というものである。



 ここで今一度ジョジョとキリスト教の関係に話を戻したい。宗教の歴史に明るくない方でも、キリスト教には旧約聖書と新約聖書の二種類の正典が存在する事はご存知だと思う。この二つの大きな差異はイエス・キリストの存在の有無なのであるが、この事は一旦保留して欲しい。ここで重要なのは、旧約聖書の続編とも言える形で新約聖書が書かれたという歴史的事実である。これら二つの関係は、ジョジョシリーズにおける第一部から第六部にかけての旧世界の物語と、新世界以降の物語の関係に当てはめられないだろうか。イエスの弟子たちからの伝承を基に書かれた新約聖書は、旧約聖書の教義を踏襲した上で様々な価値観の更新が行われている。同様にこのジョジョシリーズにおいても、旧世界の物語を踏まえた上で新世界の物語では様々な価値観の更新が行われていると私は考えている。

 例えば、新世界に突入して以降のジョジョシリーズでは度々、量子力学的なモチーフが用いられるようになったと思う。量子力学における有名な定理に不確定性原理というものがあり、この不確定性原理は近代の物理学におけるラプラスの悪魔という概念を否定したとされている。ラプラスの悪魔について端的に説明するなら、全ての事象は因果律によって結ばれており、現時点の出来事に基づいて未来も全て決定される、という正に物理学の世界における「予定説」そのものの様な概念であり、その上で不確定性原理はラプラスの悪魔の存在=予定説を否定する。極め付けに第7部『スティールボールラン』のラスボス、ファニー・ヴァレンタインの能力は、パラレルワールド(別の可能性の世界)への移動である。明らかに意図的に、旧世界の物語へのある種の「挑戦」として、荒木氏はこの新世界の物語を描き始めたと私は思う。

 その最たるものがやはり善悪二元論な価値観に基づく「勧善懲悪」的な作劇からの脱却だろう。ここで記事の導入部で触れた、今後の物語にディオの存在が関与してくるのか、という話に戻るのだが、私の予想は、今後の物語に一切ディオは関わってこない、というよりそもそもこの新世界の物語にディオは初めから存在していない。というものである。第七部にディオはしっかり登場していたじゃないか、という声も聞こえてきそうだが、彼はディオを騙るディエゴ・ブランドーであってディオではない。というのが私の考えだ。彼のディエゴという名前にはモチーフとなった人物が存在する。とも私は推測しているのだが、この事については後ほど説明する。



 ここで改めて旧世界におけるディオの存在について振り返りたい。まずディオという名前について。荒木氏が大の洋楽好きで、キャラクターやスタンド能力の名前を洋楽のアーティストや楽曲から拝借している、というのはジョジョ好きの中では有名な話であり、ディオもまたその一人なのだが、同時にディオという言葉はイタリア語で神を意味する。同じくイタリア語で悪魔を意味するディアボロというキャラクターが登場している以上、荒木氏がこの事を知らないとは考え難い。

 ここで再びキリスト教の話に戻るのだが、キリスト教について多くの日本人によく理解されていないのが、キリストは本来あくまで神の子であって、神そのものではない。という事である。三位一体の解釈ではキリスト自身も神格化される事になり、この事についても後に触れようと思うのだが、ここは一旦保留して欲しい。とにかくモーセもムハンマドもキリストも、神の意思を人々に告げる預言者であって、神そのものではない。そして、ディオという言葉は彼らの上位に立つ神そのものを指すのである。

 キリスト教の原型になったユダヤ教においても、また同時代に存在した様々な宗教においても、神は人々にとって愛すべき存在というより、むしろ恐るべき厄災であった。戦争や飢饉が絶える事の無かった時代において、人々はそれを神の怒りと解釈し、それ故に神の声を受け取り、言いようによっては神と対峙する事の出来る存在である預言者に縋った。そんな多数存在する預言者たちの中で、飛び抜けて歴史に名を残したのがイエス・キリストだったのである。彼は人々を救う為、洗礼を受け宣教師として世界を救う旅に出る。

 この神とキリストの関係は、作中におけるディオとジョースター家の関係にも当てはめられないだろうか。吸血鬼として、永遠の命を手に入れ、圧倒的な力で人々の命を奪い苦しめ続けるディオは正に生きる厄災そのものだ。その上でキリスト教には原罪という概念がある。創世記において人類の祖であるアダムとイブは罪を犯し、その事により人々は皆、生まれながらにして罰を受けている。そして、その罰をイエス・キリストは一身に引き受ける事を決意する。第三部『スターダスト・クルセイダーズ』の主人公、空条承太郎は数世代前の先祖からの因縁を知り、世界を救う旅に出る。旅の途中で様々な味方を増やしながら彼はディオを倒す事に成功し、その後もディオの残した遺物の調査を続け、最終的には命を落とす。彼こそがジョジョの物語におけるキリストだったのではないか。しかし、彼以上にキリスト的な人物がこのジョジョシリーズには登場する。それが何を隠そう、ディオ・ブランドーその人なのである。

 まずはその出自について。イエスの幼少期から青年期にかけてを記述した書物は非常に少なく、四つの福音書の中で、彼の生い立ちに触れているマタイ福音書とルカ副音書の二つの間でも、その解釈は別れている。一方で、様々な聖典を通して共通しているのが彼の誕生のエピソードである。ある解釈では彼は薄暗い洞窟の中で、またある解釈では家畜小屋の中で、救世主は決して祝福されているとは程遠い場所で産声をあげた。その後、ルカ副音書によればナザレという街で、マタイ副音書によればベツレヘムという街で彼は育ったとされている。どちらも決して豊かとか言い難い街であり、イエスの少年時代はどうも恵まれたものではなかった様である。彼の少年時代を描いた絵画はいくつか存在するが、薄汚い裏町の階段を、大きな木片を担いで歩く彼の姿は少年時代のディオを彷彿とさせる。ジョナサンとディオ、どちらがイエスに近い少年時代を送ったかと言われれば、間違いなくディオだろう。その上でイエスがメシアとして生まれた様に、ディオの耳には、強運の星の元に生まれた者の証である三つのホクロがあった。そして、まるで運命に導かれるかの様に、数多の偶然を得て、貧民街の一青年から彼の成り上がりは始まる。イエスもディオも、後に世界を揺るがす存在となる二人の生涯は、世界の中心地からは程遠い辺境の地から始まったのである。

 キリストがヨハネの洗礼を受けた後、宣教の旅に出て弟子たちを集めたように、ディオもまた人との出会いを求めて世界を旅していた事が第六部『ストーンオーシャン』で明らかになる。初めからディオをキリストに準える構想があったかは定かではないが、少なくとも第六部の段階では、明らかに意図的に荒木氏はディオをイエス・キリストに見立てて描いている。プッチ神父などは正にディオに見初められた使徒の筆頭であり、死後に魂として復活し三位一体の解釈で神格化されたイエスの様に、彼もまた死後にスタンド『メイド・イン・ヘブン』として復活し、世界を神の国=天国へと誘う役目を果たす。宇宙全体の時を加速させ、まったく新しい世界を一から作り出してしまうという、その途方もない能力は、正に神の御業としか言いようがない。第一部から第六部にかけてのジョジョの奇妙な冒険という物語は、貧民街の一青年が、神の次元へ到達するまでの物語だったとも言えるだろう。

 しかしながら、よりによって何故このような悪辣極まりない人物を荒木氏はイエスに準えて描いたのか? ここに私は、この第六部を描き上げた時点で荒木氏の中で新世界の物語の大まかな構想が出来上がっていたのでないか? と想像してしまうのだ。


 ここで前述したポストモダンについて、知らない人の為に簡易な説明をしたいと思う。20世紀中頃から後半にかけて哲学の世界に革新を起こしたこの思想運動を語る上で欠かせないのが、〝脱構築〟という概念の台頭である。脱構築を端的に説明するなら、それは「二項対立」の破壊であり、前提となる価値観からの脱却である。美と醜、秩序と無秩序、そして善と悪、それまでは相反すると考えられていたこれらの概念の境界線を壊そうとする試みを人々は脱構築、並びにポストモダンと呼んだ。ここで改めて旧世界の物語をポストモダン的解釈で振り返ってみようと思う。

 旧世界におけるジョジョの奇妙な冒険のストーリーを一言で表すなら、「ディオという巨悪が過去に行った様々な悪事の清算を、ジョースターの血を継ぐ子供たちが数世紀に渡って正義の為に行う物語」と言えるだろう。彼ら彼女らは、生前に出会った事もない人物との因縁に立ち向かわなければならない己の宿命を時には呪いながらも、そうした運命を覆す為に戦う事を決意する。こうして説明すると、これ以上にないくらいの「勧善懲悪」的なストーリーになっているのだが、ここで敢えてポストモダン的な解釈を加えてみよう。旧世界において、ジョースター家が数世紀に渡りディオに苦しめられたのは紛れもない事実である。しかし彼らを苦しめ続けたディオの出自についても今一度振り返ってみて欲しい。彼には貧民街で、どうしようもない父親に育てられた過去がある。子は親を選ぶ事は出来ない。そういった意味で彼もまた呪われた宿命を背負って生まれた子供とも捉える事が出来ないだろうか? そしてその運命を覆すべく彼は悪の道を進む事を決意する。

 第三部『スターダスト・クルセイダーズ』にて、ジャン・ピエール・ポルナレフは言った。
「俺は今、白の中にいる。ジョースターさんは白、ディオは黒。正しい事の白の中に俺はいる」
 善悪二元論的な価値観に基づく旧世界の世界観を如実に表す一言だ。だが、モノクロの世界において人が白を白と判断できるのは、際立った黒が存在するからだ。旧世界において、ジョースター家は紛れもなく正義であった。しかしながらそれは、ディオという絶対的な悪が存在したからこそ成り立っていたとも捉えられないだろうか。人類の原罪を背負ってその罰を一身に受けたキリストの様に、ディオもまた悪という役割を一身に担い、倒された。そうした側面を見ても、やはり旧世界においてはディオこそがイエス・キリストだったのだと私は思う。

 では、新世界におけるディエゴ・ブランドーの存在はどうだろうか。個人的にディエゴという名前は旧約聖書におけるユダヤ人の祖ヤコブのスペイン語表記から取られていると私は考えている。聖書に於いてイエス・キリストの使徒にもヤコブの名を持つ人物は存在するが、私は前者の人物の方が、ディエゴ・ブランドーという人物の名前の由来に相応しいと思う。ユダヤ教の神ヤハウェが、ユダヤの民にとっての神から、唯一神にまで格上げされた経緯については、とても面白いので興味のある方は調べてみて欲しいのだが、「限界まで追い詰められた弱小民俗が、己の信仰を信じ続ける為にヤハウェを全能の神に仕立て上げた」というのが、後に世界中の様々な宗教に取り入れられる一神教の原型となったユダヤ教の成り立ちであり、下層階級からの成り上がりを目指し、自分の価値を信じてなりふり構わず戦う彼にはやはり前者の人物の方がモチーフとしては相応しいと私は思う。こうして世界初の一神教となったユダヤ教は後にキリスト教に吸収される訳だが、当のヤコブはその事を知る由もない。第七部のラストにおいて倒されたディエゴもまた同じ筈だ。ヤコブがただの人であった様に、彼もまたただの人だったのだと思う。だから第九部で彼が復活するという展開はおそらくないだろう。この新世界において、ディオ=イエス・キリストの存在は長らく不在であった。そして最終章『ジョジョランズ』にて、遂にディオの名を持つ男が現れる。
 それが他でもない、ジョディオ・ジョースターなのである。


 私は、第六部で旧世界を終わらせた段階で、荒木氏は最終章の主人公の名をジョディオ・ジョースターにする事を決めていたのではないかと推測している。ジョジョの名を持ちながらディオでもある。彼にその名を付ける事を決めた意図はすなわち、旧世界にてディオという絶対的な悪でありキリストであり神でもあった人物が存在しない世界で、ジョースター家が善悪両方の役割を担いながら、最終的に神の次元へ到達するまでの物語をこれから描くという決意だったのではないだろうか。

 またこの記事では、度々キリスト教を「善悪二元論」に基づく宗教として取り上げているが、これに関しては正しくもあり、また正しくもない。そもそもキリスト教がここまで大きな宗教になった理由の一つに、原典に曖昧な部分が多く、そうした余白を後世の人々が様々な解釈で補っていったという背景がある。キリスト教が同じ宗教にも関わらず多数の宗派を抱えている要因には、そうした歴史的背景の存在があり、その辺りの歴史の流れも大変面白いので興味のある方は調べてみて欲しいのだが、そうして枝分れした様々な解釈には当然人々の様々な願望や思惑が込められており、サタン(悪)の存在は、後から付け足されたモノであるというのが近年の歴史学者の見解である。現代において広まっている聖書の多くは、言いようによれば〝改竄〟された偽物であり、そして旧世界におけるジョジョの奇妙な冒険という物語は、この改竄された内容を下敷きにして描かれた物語だったとも解釈出来る。新世界における「勧善懲悪」の物語からの脱却はそういった意味で、聖書の解釈における「原点回帰」とも言えるだろう。

 そして原典である聖書を語る上で欠かせないのが上記した原罪の概念である。人は誰しも生まれながらにして罪を背負って生きている、という価値観である。新世界に突入して以降の主人公、ジョニィや定助が、決して悪人とまでは言えないまでも、旧世界のジョジョたちのようなヒーローでは無かったのは、こうしたテーマが背景にあるからだろう。二人はただ己の幸福を願っただけだ。だがこの世界において幸福には限りがあり、己の幸福の為に戦うという事は、誰かの幸福を奪うという事でもある、というのは新世界に入って以降のジョジョシリーズにおける大きなテーマになっているし、その上で彼らは戦う道を選び、勝利と引き換えに罪を背負う。

 そして、そうして人々が積み重ねてきた罪穢れをイエス・キリストが一身に背負い磔刑になった様に、ジョディオもまた磔刑に処される=ラスボスとして倒されるのだと思う。そしてジョジョの名を持つ彼がディオ(神=キリスト)になったその瞬間、本当の意味でジョースター家とディオは同一の存在となり、世界を超えてジョナサンとディオの和解が描かれるのではないだろうか?


 最後に何故ハワイが物語の舞台なのか? という疑問に触れようと思う。章の移りに合わせて、広大なアメリカ大陸から日本の地方都市に至るまで、世界各地を股にかけてきたジョジョという壮大な大河物語の最後の舞台に、荒木氏がこの小さな火山列島を選んだ理由は一体何なのだろうか。

 それを予想するに当たって私が着目したのが、スティールボールランには『ザ・ワールド』、ジョジョリオンには『キラー・クイーン』と、新世界に突入して以降のジョジョシリーズには必ず旧世界におけるラスボスが使用したスタンド能力が登場している点である。この事から、ジョジョランズにも旧世界のラスボス達が使用したスタンド能力が登場すると私は予想する。

 ここで今一度、記事の見出し画像に画面をスクロールして頂きたい。これはオーストラリア・カーティン大学の研究チームが、スーパーコンピューターを使用して導き出した地球の未来予想図である。現在地球に存在する六大陸が、かつてはパンゲア大陸なる一つの超大陸だったという話は有名だが、同チームによると、2億年から3億年の時を得て、太平洋を中心に再びアメイジア大陸なる超大陸がこの地球上に形成されるというのである。ここまで話すともう察しは付かれていると思う。このジョジョシリーズには、数億年後の世界を実現させる能力が存在する。他でもない第六部『ストーンオーシャン』のラスボス、エンリコ・プッチ神父の使用した『メイド・イン・ヘブン』である。そして、この記事で私が語ってきた解釈は、ディオはイエス・キリストであり、メイド・イン・ヘブンは彼が魂として復活した姿である。だとすれば物語終盤、ジョディオがラスボスとして倒された後、彼もまたスタンド『メイド・イン・ヘブン』として復活し、世界を神の国へと誘う役割を果たすのではないだろうか。イエス・キリストは、神の国は『あなたがたの間にある』と語った。それと、超大陸アメイジアの実現がどう結びつくのかは私には想像も出来ないが、新世界の物語が明らかに旧世界の物語への挑戦として描かれている以上、荒木氏が過去作と同じ展開を繰り返すとは思えないし、それを語る上で欠かせないのがドラゴナ・ジョースターの存在だと私は思う。

 新世界に突入して以降のジョジョシリーズには、度々旧世界の登場人物のリボーン(生まれ変わり)の様なキャラクターが登場する。ジョディオは間違いなくディオのリボーンであると私は予想しているが、ではドラゴナはどうだろうか。私は彼(彼女)はプッチ神父のリボーンであると予想している。二人の共通項として、褐色の肌、クィア的な要素、そして何よりディオ(ジョディオ)と親密な関係にある。という点が挙げられるだろう。そしてプッチがスタンドとして復活したディオの力を使用し、世界を天国に作り替えようとしたように、ドラゴナもまたスタンドとして復活したジョディオの力を借りて、彼(彼女)なりの天国を目指すのではないだろうか。アメイジア大陸は、太平洋を中心に世界中の大陸が閉じていき形成されていくと予想されている。太平洋のど真ん中に位置するハワイ諸島は、正に世界の中心となるだろうし、それが荒木氏が物語の最後の舞台にハワイ諸島を選んだ理由だというのが私の予想である。

 そして再度申し訳ないが、超大陸を作り上げる事と、天国がどう関係してくるのか私の中ではまだ結びつかない。しかし荒木氏なら、納得のいく形で答えを出してくれるという信頼が私にはある。そして長々と予想を綴ってきたが、こうした平凡な予想を軽々しく超えていくのが荒木氏である。とにかくこの長期に渡る大河物語がどういう形で帰結するのか、一読者としてとても楽しみにしています。随分長い記事になりましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。


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