傍観者

私はSNSが好きです。
というより、ネットを使うことや、今まで繋がることができると思わなかった方々と繋がることのできるシステムが好きです。

しかし、それも今となっては、今までの「好き」とは異なる形になりました。

今までは、こんなシステムが!と思えば手を出してきました。そしてネットで繋がった方々との楽しさを満喫していました。
些細なキッカケでした。
「となりがまたネガティブ発言してるぞ」と陰口した、という話を人伝に聞きました。
自分のフォローしている方がアカウントを作り直し、さらに「面倒だと思ったから」という言葉を聞いて、確信に変わったと思いました。

今思えば、それは私がSNSからある程度の距離を保った方がよいと思っていても、なかなかやめられずにいた時に、偶然そういった話があったために、「その一件を理由に」距離を置けるようになったのだと思います。
もっと正確に言えば、「一件のせいにして」です。

元々人伝で聞いてからは、怖くて発信することを控えていました。
アカウントを増やして、自分の信じている人だけ招いたものにしたりして。

最近どのアカウントでもそうですが、「喧嘩」では済まずに「炎上」のような形のものを見かけます。
誰かを突いて、またその突いた誰かを突いて。
そういった連鎖をよくよく見かけるようになって、改めて考えるようになった事が「傍観者」です。

私は発言してる誰かに突かれるのが怖いです。きっとそういう方は少なくないと思います。
けれど、「本当にこれは〇〇なのだろうか?」などと発すれば、たちまちに突かれてしまう、そう思って発言できない事も多々あります。
この「発言できない」が、傍観者となる時、傍観者でいたくないと思うのに、なってしまったと思う時、どのようにすればよいのだろう。

岸見先生の著作によくお見受けしている「顔の見えない誰か」ではない。
私にできることは一体、どんなことだろう。
傍観者ではなく、隣人である誰かと見えない繋がりを大事にするためには。

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下書きにしていたまま日が経ったものです。
私は何かを見落としている気がします。
もっと考えようと思います。
思考の元として、投稿しておこうと思います。

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