面白いも、おもしろいも。

やぁ、久しぶり。
なんか気がついたら某ラジオの方にもバレてるこの日記。何でバレたのかわからないが、気が向いたので書いてゆく。

前回のぬか漬けの記事から2ヶ月が経った。その間、富山に行ったり、家の壁についうっかり大穴を開けたり、大学を卒業したり、社会人になったりの激動の2ヶ月だった。

さて、前回までを振り返ったが記事が長いな。読む気がしなかなってくるので、これからは簡潔に行こうと思う。

さぁ、前回は”面白い”と”おもしろい”がぬか漬けの中では違うって話だった。あれから色々考えたが、まず結論を言うと私は対して違わないと思う。笑

話を根底からぶっ壊しにいくあたり、本当に酷いやつだと思うが、適当に相槌されるよりは良かろう。(中々に酷いことくらいわかっている)

私にとって面白いと言えば、大学生の間に一人旅に出たり、誰かと旅に出たり、誰かの楽しさに首を突っ込んだり、頭ごなしに否定したり色々してきた。いろんな人に迷惑かけてきた。一方でこんなやつでも塾のチューターとか、時には幼稚園の先生までやって考えた。そして見えたものがある。

誰かの楽しいって結局誰かの楽しいなのだ。頭で理解して取り入れることはできるが、自分の感情に端を持つような内発的なものとは少し違う。頭で理解するタイプの楽しさ。その対極にあるのが己が夢中になって、特に誰に急かされるでもなく走り続けてしまうようなものだろう。

もう少しいうと、私は富山にハマった。不思議と富山について調べると体に染み込むような情報が入ってくる。摩擦がなくなったかの如き感覚だ。多分君にとっての相撲はこれに近いんじゃないだろうか。この点、なぜ摩擦が少なくすんでいるのかは考えればもしかしたら楽しいを伝える役に立つかも知れない。

しかし、楽しいだけでは限界が来る。そこが突き抜けられるかどうかの”鍵”であろう。楽しいは人にとっての豊かな土壌のようなものだと思う。それを活かすもそのままで終わらせるのも人次第。

どうすれば活かせるか。それは謙虚になることだ。好きなことについては大抵もっと好きな人がいる。そこで意固地にならず、その人の声に耳を傾け、受け止める。

次はその周りにある光るものに目を向ける。元々興味があるものとの距離は気にしない方が良い。何が意味あるかわからない。だから気になったものはとりあえず取り入れる。

こうしたことを進めるには読書と芸術鑑賞と何かの展示を見にいくことが当てはまる。そんなことを繰り返し、時には現場にもいきながらをさらに繰り返せば自然と世界への根は深まる。その人らしい形に。とりあえずは地下に深く根を張る。そしてその分だけの幹を作り、枝葉を伸ばし、実をつける。きっとそれの繰り返しなのだ。

言いたかったのは、私にとっておもしろいはその人にとっての土壌であると言うこと。その背景には親の影響や友達、周りのメディア環境などがある。そこを起点にして自分で耕しては根張り、枝振りをする。すると多分そのうちその人らしい樹が出来上がる。繰り返すがどんだけの樹になれるかはその人の根張り、枝振り次第だということ。

時には周りの木々や生き物と共同することももちろん欠かせないけどね。

結局、長いね。
社会人になっても、自分の根をもっと深めていきたいなって思っておりまする。



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