今もずっと食べることはわたしのさみしさを少しだけうめてくれている。

数ヶ月前に書いた記事です。今は過食はちょっと落ち着いてる。


過食がとまらない。
この2ヶ月ほどずっと過食がとまらない。今までもストレスや抱えた問題から目をそらすように、過食することはあったけど、最近は明らかに異常だ。
今もちいさなおにぎりセット(おかかツナ明太子)と唐揚げ四個をこの時間(深夜12時)に食べてしまった。ちゃんと夕飯は夕飯でそぼろご飯とチキン南蛮を食べたのに、である。つい数ヶ月前までならそんなに食べたら自ら吐こうとするまでもなく吐き気がしたしくるしくなったのに、この2ヶ月で大きくなった胃はその量をしっかり受け止めている。
吐こうと思えば吐ける。自分の口に指を突っ込んで、いくらでも吐き出すことはできる。太ることは怖い。なんとなく、年齢もあってか代謝が落ち、前みたいになにもしなくても太らない、みたいな状態ではないから、はきたくなる。食べては後悔する。
でも、また食べてしまう。
なんでこんなに食べてしまうのか、といえば、考えたくないからだ。抱えている問題を先伸ばしにしたいから。これを食べてからやろう、考えよう、そうやって少しでもストレスから目を反らす。
弱い人間だな、と思われるかもしれない。でも、人間ってそんなもんでしょ。
後悔するってわかってて、やっちゃうくらいが人間らしい。
私はずっとそんなことの繰り返しで生きてきた。後悔するってわかってて身体が動かなくなって受験ができなくなったし、後悔するってわかってて友達の連絡先を消してしまったこともある。なんでそんなことしたの、って笑えるくらいまっとうな問いには、そうしてしか生きられなかった、と答える。生きられなかったんだよ、本当に。馬鹿みたいな話だけど、ただただ生きることにずっとわたしは必死なんだよ。


そうやって肯定してやる。じゃなきゃ辛いから。
たとえば、毎日過食しちゃうわたしが、最後の晩餐を食べるなら、なにを食べるだろう。
FensterMagazine
https://www.instagram.com/fenstermag/ さんの写真と文章を最近よく見ている。
そのなかで、最後の晩餐というテーマに惹かれたので、考えてみた。


最後の晩餐は、わたしにとっての最後だろうか。みんなも一緒の最後だろうか。それによっても変わりそう。わたしにとってだけなら、わたしは朝からいろんな人と食事を取る。朝から番までスケジュールを組んで、好きな人たちに会って、好きな人たちの食べるものを一緒に食べたい。
すごい綺麗事ぽいかもしれない。でも浮かんだのがそれだった。わたしは結局人を信じることでしか生きてられないから、人への感情で生きてるから、たぶんわたしは最後にだれかの声を表情を空気を共有することで満たされる。だからたぶんメニューはなんでもいい。誰かのすきなものがわたしの食べたいものになる。我ながらちょっと自他境界が甘すぎるね、と危うくも感じるけど、結局は寂しいのかもしれない。さみしいからたべる。ひとりだけ最後に取り残されてしまうなら、だれかとご飯を食べて、だれかの笑顔を最後に見たい。


15歳のころ、ずっと引きこもっている時期があって、毎日毎日これが最後の日だったらいいと願った。薄い布団に寝転んで、うすっぺらなからだをもて余して、ほとんど1日1食食べるか否か。母親か父親のつくったタッパーに入った弁当ともいえない肉や野菜を夕方頃に起き出して、片付いてない部屋の床に散らばる段ボールを踏み潰しながら、一人で食べた。
食べても食べても食べちゃう今と違い、あの頃は食べることでもなにも満たされなかった。
だから、わたしだけが最後なら、だれかと食べたい。


みんな一緒に最後なら、梅干しおにぎりがいい。小さい頃から梅干しが好きだった。母親曰く、ちょっと食べさせてみたらすごく酸っぱい顔をするくせに「もういっちょ」と手を伸ばしたらしい。その頃から欲ばりは変わらなかった。
梅干しおにぎりをお腹いっぱい食べて終わりにできたらたぶんいいかも。みんな一緒に最後なら。わたしだけが最後でないなら。あの頃みたいに取り残されてしまわないなら、一人でおにぎりをつくって、ひとりで静かに食べたい。

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