「何か善いこと」

この世の中には、無数の「何か善いこと」がある。

たとえば、「マジメに頑張る」というのはおそらく「何か善いこと」の典型例として挙げられるだろう。ところが、「何か善いこと」というのは、文字通り、どこかぼんやりとした曖昧模糊なものであって、その中身を具体的に指摘できる人はいないであろう。我々はこれを、(俗語的な意味で)「道徳」と呼ぶことがある。

そもそも、(「何か」という留保のつかない、普遍的な)善いことというのはなんだろうか。そんなものは、存在するのだろうか。これまで、幾人もの哲学者や倫理学者が挑んできた難問と言えるだろう。ごくごく最近では公共哲学のM.Sandelが記憶に新しいところである。日本固有の文脈では西田幾多郎もあげられるだろう。法哲学の立場から言うならば、I.Kantをあげないわけにもいかない。もっとも、彼らのそれぞれの立場について、本稿では詳述は避けようと思う。これについてもまた、本稿では詳述を避けるが、私見では、そのようなものは存在しえないのではないか、と考える。この立場はおそらく、価値多元主義と相当程度共通する部分があるであろう。

しかし、幸いなことに、我々は社会を構成することによって、比較的大勢の人々の間に共通した「善いこと」や「道徳」の概念を持つことができている。そう言った意味で、時代や場所、状況を区切った中での「客観的な道徳」はあり得るだろう。それ自体は諸手をあげて喜ぶべきことであり、また、逆説的ではあるがそれによって社会を構成し、人と人との関係性を維持することができる、とも言える。もしも、世の中に「嘘をついてはいけない」という道徳観念が浸透しておらず、あらゆる人々が自らの利益のためにためらわず嘘をつくとすれば、そのような社会は真っ当に成立しえないだろう。

ところが、この「共通的な道徳」というものは、大変曲者である。裁判においてもよく、「社会通念上」という言葉が出てくるのだが(論証は省くが、社会一般に共通的な道徳と読み替えることは十分に可能であろう)、最初に指摘した通りこれの中身を厳密に言い当てることは不可能と言ってもよい(もちろん、「嘘をついてはいけない」などのレベルでの核心的な部分については容易ではあるのだが)。つまり、反論することが大変困難なのである。ゆえに、ある程度確かな核心部分の道徳と、相対的に過ぎない道徳にあたる周辺部分が混在することがままあるのだ。

さらにこの「共通的な道徳」の恐ろしい部分として、それがしばしば同調圧力をもたらすことがあるというのがあげられる。文字通り、「社会の大部分」に「共通した」道徳である以上、それを共有できないものは、「社会のはみ出し者」であり、「絶対的少数者」なのである。そして、その道徳が「善いこと」という錦の美旗を掲げているがために、反論するものは「悪いもの」とみなされうるのである。

ここでようやくタイトルに帰ってくるのだが、「何か善いこと」というのは、この「共通的な道徳」の、周辺部分にあたるのではないだろうか。これはほとんど言い換えであるが、「皆が善いと思っている」から「善いこと」なのであり、「何か善いこと」はその根拠を「共通的な道徳」に求めるものであるといえるだろう。一方で、総体としての「共通的な道徳」それ自体の論理的、客観的な根拠を求めることは難しい。「皆が善いと思っている」というのは、つまりどういうことなのだろうか。

神ならざる我々には、人が何を考えているかを知ることは根源的に不可能である。身振り手振り、他の言動との整合性などから、他人が何を考えているかを推測することは出来る。この推測の精度は経験的にはかなり高いものと思われ、この推測能力があまりに低い人はいわゆる「空気が読めない」人と呼ばれるのである。では、人の考えていることを知ることができない我々が、どうして「皆が善いと思っている」ことを知ることができるのだろうか。もちろんそれは不可能である。我々が知ることができるのは、「皆が『善いと思っている』と表明している」ことだけである。では、どうやってその表明されたものを我々は知ることができるのだろうか。これはさほど難しいことではない。第一人者は教育である。

小学校のころ、「道徳の時間」というものがあったように、我々は日々道徳を教え込まれてきている。だが、それは根拠を持った論理的なものではなく、感情に訴えるものであったし、論理があるとすればそれは「善いものは善いものだ」である(この論理自体はトートロジーであり間違ってはいないのだが、一方で根拠を求めていることにはならないだろう)。多くの場合、それ自体が有効であるという事実は認めざるを得ないだろう。だが、我々はもう小学校の教室で心のノートを書かされる小学生ではない。そろそろ、「何か善いこと」が、少なくとも同時代的に「根拠のある善いこと」であるかを考えなくてはならないのではないだろうか。

最初に挙げた「マジメに頑張る」こと、これを「何か善いこと」と言ったのには当然、理由がある。基本的にこれが「善いこと」であるのは正しいといえるだろう。誰も頑張らない社会はおのずから破滅するだろうからだ。しかし、これ自体が絶対視されると、当然に弊害も生まれる。「ブラック企業」という言葉を連想すれば問題の所在は容易に明るみに出るだろう。ここでは、もう一つの「善いこと」である、「身体を大切にする」こととの衝突が発生しているのだ。ここでは、「マジメに頑張る」ことが絶対的な善いことではなく、他の善いことと衝突する、相対化された善いことだと知ることができる。また、今衝突する善いこととして挙げた「身体を大切にする」であっても、時代や場所によっては必ずしも絶対視されない。日本の戦中の特攻隊のことを考えれば容易である。当時は「身体を大切にする」ことよりも「御国の為に死ぬこと」が優先される「善いこと」であったのだ。後世から、当時のそうした道徳概念(これは「修身の時間」に教え込まれたものであろう)は「間違っていた」と断罪することは容易である。一方で、その断罪が「正当なものである」かは甚だ判断が難しい。我々が言うことができるのは、「現代に当てはめると」あるいは「そこから生まれた凄惨な結果と照らし合わせると」間違っていた、ということのみであろう。根源的に見える「善いこと」すら、時代や場所によって大きく変わるものであって、それを絶対視することは(特攻の例からも明るみに出るように)大変危険なのである。このことは、現代に生きる我々も強く意識しなくてはならないことである。つまり、現代における「当然に善いこと」と思われているものでさえ、視野を広げると実は相対的な「何か善いこと」にすぎないかもしれないのだ。

少しだけ卑近な問題に触れようと思う。安保法案、もとい集団的自衛権の行使についてである。

安保法案について、私は「賛成」とも「反対」とも表明できない。理由は単純で、それにまつわる背景知識を体系的に習得していないからである。もっとも、身近に幾人もの憲法学の知識をふんだんに蓄えた人々がいる環境で法学を学び、また、権威ある学者の意見に対して相当程度の敬意を払うべきであるという姿勢を習得している身からすれば、当該法案について、「違憲の疑いが強い」と表明するのが、誠実な態度であろうと考える。もちろん、法学的には合憲的に解釈することは十分可能であるとも思っているが、素朴には困難であろう。これについての詳細な見解は、希望があればまた別途書こうかと思う。

ただ、これに対する反対論の中には目を覆いたくなるほどずさんなものが多いように思われ(もちろん賛成派にも多いのだが)、それがこの記事を書こうと思った理由である。

彼らは現状を「善いもの」としてとらえ、集団的自衛権の行使を可能にする法案を「道徳的に間違った」、つまり「悪いもの」として非難する傾向が強いように思われる。それは、「強行採決」などといった評価にも表れているし、もっと言えば「I'm not ABE」や「戦争法案」、「立憲主義の崩壊」、「民主主義の否定」などといった中身のないレッテルに強くみられるものである。これらには、「何か善いこと」、また「共通的な道徳」における同調圧力が強くみられる。誰だって「私は『戦争法案』に賛成します」「立憲主義は崩壊するべきです」「民主主義に反対」などと表だって言うことは困難であろう。こうしたレッテルを先んじて貼られ、次第にそれが所与のものになると、実体的な部分、すなわち集団的自衛権行使のコスト、メリット、デメリット、それらの総合的勘案と言った本来必要な部分の検討に至ることができないのである。これは「何か善いこと」の反証不可能性の悪用であり、イデオロギーに基づく扇動であると言え、それは私の目には「卑怯なこと」に映る。「卑怯なこと」をするべきでないというのは、少なくとも社会を構成する以上は共通的な「善いこと」であると思うのだが。

この記事において、反対論を取り下げろ、などと主張しているように映ったとすればそれは大変心外なことである。この記事は、ただ無根拠な道徳を掲げるのではなく、実質を議論する、そういった冷静な対応が我々政治的市民には求められているのではないか、という一つの意見の表明である。

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