茶道について

もうすぐ茶道の稽古が再開するので急に緊張感が生じてきている。わくわくというより武者震いに近い。
8月は例年稽古は夏休みとなる。茶道からは離れて、いろんな方が淹れたお茶や美味しい液体を頂く体験をした。お茶は生活の一部でもある。

最初に茶道の稽古を始めたのは8年前。20代の頃から着物など和の文化にはずっと興味があったけどなかなか入り込めなかった。いざ始めてみたものの、最初は何を何のためにしているか全く分からず、手取り足取り先生に言われるままにロボットのように動いていた。
今は無知であるという事は自覚している。すればするほどわからなくなり、わからないことが何かもよくわからない。知らないことばかりで知的好奇心が刺激される。
緊張で手が震えるのはそれだけ真剣であるということでもう慣れた。人前で失敗することも笑われることにも慣れた。というか自分で自分を笑ってしまう。
日常生活では、慌てて周りがよく見えないようなときもあり、まだ茶道で重んじられる精神性は備わっていないけど、随分とましになったのだ。
大人になって、できなくてあたりまえのせかいがあるというのは、救いでもある。

いつから至らないとか不束とか未熟だと自分を卑下することが美徳のようになったのだろうか。茶道界はちょっとそういう香りが下地に残っていて、花嫁修業になった頃からかもしれないが、正式になるほどわりと男尊女卑で、謙遜してへりくだる傾向がある。
本音をオブラートに包むからよくわからないときもある。(腹を割って話すにはやはりお酒が必要かもしれない。茶事ではお茶の前にたらふくお酒を飲ませて酔わせてご馳走を出す。薄茶や濃茶は茶事全体をフルコースとしたらその一部だ。)
結局は人間関係だったりする。笑。
現代でいう処世術の一種かもしれないが、逆に慇懃無礼じゃないかと抵抗を感じるときもあった。しかしこれは「淡交」とも解釈できた。うまくいけばとてもさっぱりとしたお付き合いができる。
堅(型)苦しいとも思った。しかし型という枠組みがあってこそ自由さが際立つと何となく体感してきている。あらゆる所作に意味があり、無駄はなく、理にかなっているからだ。自分次第でどのような環境でも、すれすれまで自由に愉しむことができる。そのラインを面白がっている節もある。
何かに飼いならされているのだろうか。
茶人の半沢鶴子さんは「花一輪に飼いならされる」という言葉を大切にされている。
私も素敵な言葉だと思う。飼いならされるなら草花がいい。猫もいい。(脱線)
茶道の真髄とは何なのか深く潜ろうとしつつ、軽やかに浮いて簡素な茶の湯を愉しみたいと思っている。

悲喜こもごもあって、引っ越しも何度かして、その度に教室も先生も変わり、休みも多かったから、正味4、5年くらい習っていることになるのかな。初心者だ。何度か燃え尽きて辞めたくなったり「お茶なんて〜結局生活に余裕のある人がするもんだ」と自分は場違いだと思ったりもした。
今も場違いかもしれないが、庶民には庶民なりの、私なりのお茶との関わり方がある。自分がまず愉しいと思えるかどうかだ。ここ数年で、茶道というよりも茶の湯を愉しみたいと思うようになった。
時期によって興味関心の優先順位も変化するし、すべて自分の問題なのだが、いろいろと理由をつけては遠ざかったりもした。数年前は畑仕事を始めて自らを野に放ったため野生児と化し、土にまみれて野良着を着て、手にはいつも鎌を持っていた。お茶は野草を摘んで煮出して飲んでいて、それがとても美味しくて好きになって「お茶はもっと自由なんだー。これからは野草茶だー。」と裸足で野山を駆け回っていた。
畑でやってみた野点は乙だった。
いろんな人のいろんなお茶のせかいを体験し、再びおしゃれをして街に出るということを始めてから、白い靴下もはけるようになりまた茶室に戻るようになった。

「人生のなかで中断する時期があってもいくつになってもまた始めればいい」「いつでも戻ってきたらいい。気分転換にお茶飲みにおいで。」「自分のためにお茶を愉しみましょう。」と長い目で見守ってもらったおかげで、自分の居場所の一つとして、細々と続けることができている。
茶道はお金がかかりそうと思っていたが、最初に初心者向けの基本的な道具を揃えたら、高価な茶碗など道具に走らないかぎり、そんなに出費はかからない。着物も譲ってもらえたりする。月謝は1回1000円のときもあり今は2500円。他の習い事のスクールやレッスンに通うより安いかもしれない。

プライベートでしんどい時期には、知人に着物を着せてもらって稽古をしていたが、自己を癒やし整える効用があった。その後着付けを練習した。ここ数年着物を着ていない。10月からは自らハードルを上げて、着物で稽古すると言っていたなぁ。
私にはお茶が向いているのか好きなのだと思う。そうでなければ、こんなに長文になるわけがない。
茶室に静かに座り、お点前に集中し無心になり、季節を感じながら一服のお茶とお菓子を味わう。
サウナで整った経験はまだないが、整いたい人はぜひ茶道の稽古もするといいと思った。稽古の後の清々しさと脳からスッキリとする開放感はなんともくせになる。
帰り道の歩き方や身のこなしまで一変するからおもしろい。

稽古中の私は何かが乗り移ったかのように真剣であり別人のようになる。メタ認知が発動し、点前をする自分の姿を後方から自分で見ているような感覚にもたまになる。わりと鋭く神経は張り巡らせながらも、穏やかに包み込むようなあたたかい気持ちで、ただただ美味しい一服になりますようにと、手元に集中して点前をしているようだ。お客さんに緊張感は与えたくないので、自分自身がなるべく緊張しないようにしている。が、茶杓を置く手は勝手に震えたりもする。
まだまだよく見られようと見栄を張っているからだ。このへんの見栄や執着を捨て去りたい。これも修行だ。

灰や炭の手入れ、釜や水屋の準備、季節の室礼、道具の取り合わせ、抹茶や菓子、茶花の準備。例えば茶室で一服のお茶を戴くまでには、見えないところで細やかな準備の時間や手間がかかっている。一服点てるまでには30分くらいかかる。お点前を客前で見せることももてなしの一環なのである。
その大変さを微塵も感じさせず、さらっと茶を点てられる人がおそらく茶人なんだと思う。いかに一人のお客を喜ばせたり驚かせたりするかに命をかけているのも茶人である。

私は炭点前もお濃茶も取り組めていなくて、ずっと初心者のまま運び点前という基本を繰り返している。濃茶点前は、以前体験させてもらった事はあり指導者の方針によるが、基本的には経験者がするものだと思う。
何となく指導者から「そろそろ次にいってみますか」とお声がかかるようだ。
秀吉の時代に、茶道の点前に権威がつけられていたようだが、免状制度もある近現代の茶道界ではその名残りもあるのかもしれない。口伝であるし。

基本ばかりして、覚えては忘れてを繰り返している。基本が身につけば、今後のどんな展開にも対応できるそうだ。基本が一番大事で、反復して身体や手に覚えてもらっている最中だ。スラムダンクでいうドリブルの練習だ。
型がなっていないと、型破りにもなれない。型がないのに自己流で崩したらそれは型無しだというような話を聞いたことがある。上辺でなく軸がある点前ができているかどうかは見る人が見ればすぐわかると言われたこともあった。
やめるまで続けるとは決めているが、やはり一体どこを目指しているのだろうか。(通常の目的は茶事、茶会らしい)

お抹茶が世界中で人気があることはとても喜ばしいことであり、誰もが気軽にいろんな方法でお茶を愉しめればいいと思う。それが茶の湯である。
道となると、精神修養や禅の要素も多くなり、日本文化の総合芸術といわれるように、おそらく一生かけても終わりはないだろう。
点と点がつながり、腑に落ちるのに長い時間がかかるので、いつも心のなかで諦観の微笑をうかべている。
稽古というものは自己を律する修練の場でもあるので、楽しんどい。
久しぶりに前世修行僧か武士の精神に戻ろうと思う。
好きな茶人は利休よりも丿貫や古田織部。『へうげもの』おすすめ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?