見出し画像

大乗仏教の龍樹

龍樹の中論の縁起ですね。

大乗仏教は、龍樹の空や縁起が元になってます。

仏教では出てきませんが

インドでは、龍樹は、呪術士や医者としてのが有名です。

学者として、教鞭もしました。


👳


大谷大学ホーム


「火は薪ではない。火は薪とは異なる別のところに有るのでもない。」

龍樹『中論』(『中論』(中)第三文明社 329頁)


 標題のことばは、大乗仏教の教理の基礎を確立したインド人の僧、龍樹(150-250年頃)によるものです。この一見奇妙なことばを読んで、なかには首を傾(かし)げた人もいるのではないでしょうか。


 私たちは、薪(たきぎ)が燃えている様子を見れば、当たり前のように「薪が燃えている」と思い、それは誰かが火を付けたからだと考えることでしょう。ですが「薪に火を付ける」という言語表現は、日本語としては何ら問題ないにしても、それは現実世界のことをその通り言い表していると言えるのでしょうか?


 私たち人間は常に言語を用いて外界を捉え判断しますが、「薪に火を付ける」と言うからには、薪と火は同じものであるはずはありません。もし同じであるならば、そもそも「薪」と「火」という別の単語で区別する必要はありませんし、「付ける」という動作も意味をもたないことになります。しかし、薪と火が別物であるとするならば、火は薪に依存することなく、単独で存在するものでなくてはなりません。しかし実際には、薪に依存しない火というものを考えることはできません。このように考えると、薪と火は同じとも別とも言えない不思議な関係にあることが分かります。


 龍樹がこのように人間のもつ言語の働きを批判的に問い直したのは、「空(くう)」の思想を示すためでした。空とは、あらゆるものには固有の実体などないという意味です。しかし人間の操る言語は、様々なものにあたかも実体があるかのような錯覚を私たちに抱かせます。そうやって私たちは言語を用いて思慮分別(ふんべつ)し、様々なものに執着し、一喜一憂しながら生きているのです。それゆえ龍樹は、空ということを正しく理解して、我執による囚(とら)われを離れた無分別の境地に至るべきと説きました。


 こうした現実理解は、世俗社会を生きる私たちには無用なものと思われるかもしれません。しかしどうでしょう? 例えば私たちが「苦手なこと」とか「嫌いなもの」と思っているような事柄でも、それ自体に「苦手」とか「嫌い」といった固有の性質が宿っているわけではないというのは、その通りなのではないでしょうか。一つの固定的な見方に囚われてしまっている自分の心の有り様を反省的に見なおすことで、自分の周囲の世界がそれまでとは異なる仕方で広がってくる可能性は十分にあり得ることのように思えます。そのように考えると、「空」の教えは現代を生きる私たちにも意義深いものとして響いてくるのではないでしょうか。

👳

龍樹の空理論


この「空」の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち、『中論(頌)』以外に近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。

龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している。)

さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「」であると論証している。このことから、龍樹の「空」は「無自性空」とも呼ばれる。

この空の思想は、真理を

  1. 概念を離れた真実の世界(第一義諦、paramārtha satya)と、

  2. 言語や概念によって認識された仮定の世界(世俗諦 、saṃvṛti-satya)

という二つの真理に分ける。言葉では表現できないこの世のありのままの姿は、第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは、世俗諦であるとするため、この説は二諦説と呼ばれる。

Wikipedia参照


いいなと思ったら応援しよう!