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「次元上昇」に乗れない理由 なぜ他人を救うという思想にならないのか?

 パンデミック以降昨年まで、延々とスピリチュアル界隈をさまよっていた。
 それ以前の10代、20代の頃にも、日本仏教から始まって、インド・チベット・欧州などの宗教文化や原始宗教の変遷、聖人の言葉、死と生への態度、人間以上の存在に対する理解と崇敬、そういったものを、専門家から見れば浅いだろうが、自分なりに学んできたつもりだ。
 宗教家にならなかったのは、それらを文化として見ていた側面が強かったためだが、それ以上に、自分の精神のベースが神道にあったからだと考えている。
 神道は宗教としてしっかりした形はないが、それだけに融通無碍といえる。何より、土着の信仰は風土に合う。山や水辺を歩いていると、自分を生んだ民族の発生当初から育まれ続けてきた土と水、そこから生まれる風、気配、命へ感じるものと、社に臨む際のこころもちが同じことに何度も気付く。その時々に感じ方は違っても、全て同じだと理解でき、「土着」ということの有難さをしみじみと味わうことができ、同時に底知れない巨大さへの畏しさも感じる。

 こんな不安定な世界になって再度感じるのは、自分はそうしたものの中で育ったということ。
 親からもらったものの中で良いものは残念ながら少なかった。しかし、古くからの土着の風習を幼児期の私に伝えてくれたことには感謝している。
 そのせいか、私には自然への純日本的な信仰がある。もしかしたらそれが邪魔をして、スピリチュアルなものへの理解が及ばないのかもしれない。

 シヴァ神よりも不動明王。ヤハウェよりも造化三神。アフラ・マズダよりも天照大御神。
 これが私の根幹にある。

 「一切衆生を救う」という阿弥陀如来の請願を親鸞聖人が教えひろめたのは何故だったか。
 その教えが日本津々浦々にまで浸透したのは何故だったか。
 それが今、なぜ、忘れ去られているように見えるのか。

 青き肌の神は。その土地に生まれ育った者には合うだろう。
 しかし、湿潤で水量が豊富なためすぐに緑が土を多い隠す日本に生まれた者には、いささか合わない。
 世界はそれほど画一的ではない。
 画一的だと考えるなら、それはある意味で、闇の勢力に似た思考とはならないだろうか?
 神や仏の像が青く塗り変わったことは、吉祥ばかりではないように感じる。

 近づけば近づくほど、違和感がある。
 アセンションと同時に、リセンションがあるという。
 不浄を清める女神の一人が、こちらも女神であったはずの天照大御神の「正妻」になったという。
 日本人の始祖であったはずの神々が、12人もの妻を持ち、各妻にそれぞれ階位を授けているという。
 命を産む女性を敬っていた原始信仰の根幹は一体どこへ消えたのだろう。
 神代の神々は確かに複数の妻を持ったが、自分の妻に序列を作ったという話はない。少なくとも、私の知る歴史にはなかった。
 神の「性別が変わった」という話も、これまで聞いたことがない。

 次元上昇についてこれない者は「そうした役割」だという。
 過去に滅亡した民族は次元上昇したのだという。
 では、日本人も滅亡すべきだろうか?
 そんな次元もあるのさとシニカルに語るのだろうか?
 彼らにとって、命と魂は別物のようだ。
 本当に別物だろうか?
 身体は器だろうか? 魂を形作ってはいないだろうか?
 「ついてこれない者」は「それを選択した」のだという。
 矛盾はないか?

 なぜ、衆生を救おうと考えないのか。
 衆生とは、今、周りに生きている人々のことだ。
 あなたと、今このとき、心と命の交換を行っているすべての存在のことだ。
 命が常に循環していることは、既に現代科学ですら証明している。
 心は触れ合ったものとの交流で互いに豊かさを手に入れ、育まれていく。
 あなた自身の一部であるものを、なぜ切り捨てられるのか?
 なぜか質問には答えない人々ばかりに思える。
 誰かの疑問に答えることが「波動が低くなる」ことなのだろうか?


 CERNがウラン中に金を作り出したという。
 衆生を救うはずの観音が千の手に武器を持ったという。
 それが次元上昇なのか? それとも下降したのか?
 禍々しいものが混在してはいないか?

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今のスピリチュアル的言説に対して感じたこと。マンデラに襲われて以降、考えが変わるような気が自分ではしていますが、変わらないかもしれません。

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