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金沢21世紀美術館と、室生犀星

盂蘭盆、生駒の親戚宅に行った。日帰りで仏壇に挨拶して帰るつもりだったのだけど、そこで従姉にいきなり「そうだ、金沢行こう」と短絡的な誘いを受け、そのまま何故か新大阪からサンダーバードへ飛び乗った。いつものように巻き込まれたカタチで、それでも楽しめたのも、いつもの通りという気がする。旅費もぜんぶ従姉が出してくれた。持つべきものは社会人の従姉だ。とはいえ、夜7時に到着した途端の大雨、翌日は警報まで出た。

金沢の21世紀美術館には前々から行きたいと漠然と思っていた。美術館の凝り固まった静謐さとは離れたイメージをなんとなくは持っていたけれど、思っていた以上によかった。ただの美術館でない、オープンなコンセプト。専門的な知見を持たない人でも「これなんだろう?」からある種の気づきを得られるようなものが多かったように思う。一般的なイメージとしての美術作品≒「美そのもの」というよりも、作品を見る我々の認識≒「美という概念」を、作家のアイデアによる方法・文明の産物たる種々の技術・そして個人には用意不可能な大量の資本等々を合わせることによって、人々に示そうとしている印象があった。

常設の『タレルの部屋』には一時間くらい居たかな。いちばんの目的の場所だったけれど、何時間居ても飽きなかっただろうな。本来は青空を見る作品なんだろうけれど、雨がひたすら四角い孔から降りてくるのはむしろ珍しくてラッキーだと思った。僕以上に長居する丸刈りの若い男性が哲学を醸し出していて印象的だった。

タレルの部屋

コレクション展『透過と反射』もよかった。自分たちが所与と考えている視覚、それを通じて認識や実在を、更には自分はいったい何処にいるのかを問い直すよう要求されているように感じた。確かに、視覚は伴う実感が薄い。それは日頃からの透過や反射、さらには映像に慣れ親しんでいる影響でもあるのかもしれない。


そしてその後は、室生犀星記念館と、彼の筆名の由来でもある犀川の河川敷にある彼の文学碑へ。

文士の記念館は実は初めて訪れたけれど、生原稿の情報量たるや凄まじいものがあった。犀星の字はかわいらしい丁寧な丸文字で、それは14歳のころから変わらないのだが、晩年の病床で書かれた未完の遺稿は、筆圧は薄れ線も震えていた。壮絶な意思が目の前の原稿一文字ひともじから伝わってきて、あやうくガラスケースに落涙するかと思った。

記念館そのものはさいきんリニューアルしたらしく、綺麗な建物で展示もわかりやすく工夫されていてよかった。文士相関図に描かれた犀星に親しい、芥川や堀辰雄らのイラストもかわいらしかった。僕がお土産に悩んでいたら学芸員さんが親切に相談に乗ってくれて、勧めていただいた詩『抒情小曲集』の原稿複製を頂いてきた。学期明けにゼミの皆にあげようかと思う。ちょうど犀星で卒論を書く子がいるのだ。

金沢はとても好いところだった。やはり、風土がすこし京都に似ている。

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