ケルン・コンサート

久しぶりに何かを書きたくなって、ただ書くのにちょうどいいものが見あらない。だから、ちょうどいまウォークマンで聴いているキース・ジャレットのケルン・コンサートについて書いてみることにする。

キース・ジャレットというのは、即興演奏に定評のあるジャズのピアニストだ。そしてケルン・コンサートというのはその即興演奏を収録したアルバムということになる。
キースの名前を初めて聞いた(読んだ)のは、大崎善生の小説の中からで、この人の小説から僕はポリスも聴くことになった。思い起こせば中学時代に橋本紡のリバーズ・エンドを読んでビートルズのブラックバードを聴いたのだから、僕の音楽との出会いはおおよそ文学から始まる。ウィキペディアで青くなった言葉をクリックするみたいに趣味の世界が広がっていったのだと思う。

ケルン・コンサートを聴き始めてだいたい二ヶ月ほど経つと思う。気まぐれでハイレゾなるものを試したくなって(せっかく対応のウォークマンを持っているのだから)ダウンロードしたのだ。落とすのにやけに時間がかかるなと思ったら2.8GBもあってびっくらこいたし、そのためにウォークマンから数枚アルバムを削除して貴重な空き容量を確保せねばならなかった。

とはいえ、二ヶ月ほどの間にたぶん2〜30回は通しで聴いても、その水晶のような音の輝きはいっこうに鈍るということがない。特にインストゥルメンタルの音楽には色がそなわって聴こえるものだと僕は思うのだけれど(例えば坂本龍一はグレイ、フジ子・ヘミングは古びた街灯のような白色)、キースのピアノはほのかな燐光を帯びた青白さを常にたたえている。ことにこのケルン・コンサートにおいては、ピアノの鍵盤を一打鍵するごと、大粒の水晶が砕けて散るような透徹とした青さが発されるさまが脳裏に浮かぶ。それだけこの音楽は透き通っていると僕は感じるのである。

銘打たれた通り、このアルバムはケルンで行われたコンサートの収録である(のだろう。まさか違いはしないだろうし、さもなければ詐欺だ)。具体的にいつ、どこで行われた演奏の収録かまでは知らない。拍手が入るので聴衆がいるのはわかるが、その規模もわからない。だが、なぜかこのコンサートの様子は僕にはたった一つの光景として想像される。それは小さな聖堂のイメージだ。爆撃されたドレスデンのあれをサイズダウンしたみたいな、ケルンにある青い塔の伸びた小さな聖堂。そこの中心の、普段は演台がある場所に今日はグランド・ピアノが運び込まれ、ピアノの黒光りする身体に聖堂の高いところにあるガラスを通った青っぽい光が反射している。聴衆は定員が30人に満たないが、既に結婚式みたいにきちんと座って、開演を待っている。

やがてそこにキースその人がすっと現れ、ピアノの前に座る。しんとした静寂がしばらくあたりを覆う。キースはコンサートのわりには、まるで寝惚けたような格好をしていて、シャツの襟はだらしなく開いていたりする。しかしふと彼がだらんと首を後ろに倒して天を見上げたかと思うと、静寂の上にわずかに緊張が重なる。長い数秒の後、キースは鍵盤に向かい合い、氷を落とすように最初のフレーズを弾く。探るような間を時々空けながら、そのままいくつかの氷を落としていく。彼は落とした氷のそのまた落とした音を、さらにその反響を拾い集め、また新たな音を落としていく。その繰り返しの中で反響音は教会の中で幾重にも重なりながら、徐々にキースの中でぼんやりとした行き先を見つけていく。彼はその間も天を仰ぎ、「それ」がはっきり降りてくるのを待つ……。一音一音がなにかしらの問いかけであり、その正否を確かめながら、文字通り手探りで鍵盤上のフレーズを探し続ける。この辺りで聴衆のイメージに、あるいは僕のイメージに、これが演奏という形をとった一種の儀式であることがはっきりしてくる。キースはその身に何か超自然的なものを降ろそうとしているのだと直感する。そしてその瞬間が少しずつ、しかし確実に近づいてきていることも。

やがて、その時が訪れる。何かの拍子に彼の指先をそれが掠める。彼は一瞬のそれを見逃すことなく追いかけ、素早く今度は指先に引っ掛けようとする。すぐには捕まらないが、彼はそれも予期して幾重にも網を張り巡らしてゆく。テンポを激変させ焦るようなことはしない。ゆっくりと囲い込むように音を広げ、周してゆく。あとはもうこっちのものだとでも言うように、取り囲んだそれをゆっくりと時間をかけて指先から全身へと吸収する。そうすると、彼は吸収したものにその中心を明け渡し、やがて一体化してゆく。それはキースにとって危険なことでもなんでもなく、ただ恍惚だけを呼ぶ。自分の意思は誰かの意思であり、それはまた自分の真の意思でもある。ピアノはもはや探るものではなくなっているが、自動化されているわけでもない。指が先に動き、その同時より少しだけ後に意味を得る。音が耳に入る頃にはきちんと自分の音になっている。

やがて一体化した音は新たな形態を得て、その場に高くゆっくりと立ち昇ってゆく。見る見るうちに音の領域が広がって辺りを包んでいき、聴衆の目線も立ち昇る音を上へ上へと追って昇っていく。あとは音が聖堂全体を巻き込み、気球のように宙へと浮かびあがっていくばかりだ。最初、キースが降ろそうとしたその高みへと、気づけばその場にいる全員が上がっているのである。地上を離れた人々は、わずかな時間で様々な土地へ旅をする。見たこともない平野の美しい夜明けを見ることになる。そして、気がつけば教会の中の青が濃さを増してピアノと同じ深い黒色になり、夜の帳が訪れる。いつの間にか自分は再び教会できちんと座っている。高い音が高いところで反響し、星々の光となって砕けて塵になってゆく。夜はどんどん深みを増してゆく。少し遅れて、皆もとの場所へもどってきていることを理解する。はっきりとした旅の記憶を持ちながら、その余韻をお互いに説明しあうことはできず、特別そうする必要性もその時はまだ感じない。最後にキースがその旅の喜びをリズムとして表明し、一人一人に手渡して回る。身振りのないまま抱き合い、手振りのないままに握手を交わす。今度は精神的な高揚感で全員がまた一瞬宙へ昇り、そして同時に着地する。わずかな沈黙を置いてから、聖堂は心のこもった拍手で包まれる。何よりも、コンサートはまだ始まったばかりなのである……。

時に音楽することは、はっきりとした異界との交感である。そんなことをはっきりと示してくれる貴重な即興演奏だと、僕はこのように感じるわけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?