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2014年。

年越しまで、あとわずか。

今年はこういう振り返りの文章は書かないつもりだった。というのは、2014年は僕にとって素晴らしい年だとはあまり言えなかったから。

夏が終わる頃までに僕の身に起こったことといえば、ゼミの解体、失恋、後輩からのいわれなき反抗、就活の挫折etc……。それらの体験はどれもそれなり以上の威力を持って、僕から何かを削り去っていった。そしてその僕を損なったダメージは、ごく最近まで残存していたように思う。一時はちょっとだけ自棄になっていたし、あるいはそれが人当たりや行動にもいくらか影響していた気がする。もしかしたらそこにちゃんと気付いてくれてた人もいるかもしれない(そういう人をこそ大切にしたいと思う)。

ただ、夏休み終わり、教育実習は素敵な転換点になった。大変だったはずなのに大変だった印象はちっともなくて、楽しかった。生徒も指導いただいた先生も魅力的で、前々から悩んでいたことが嘘みたいに、教員になる決意をした。全てを覆してくれたわけじゃないけれど、有り難かった。
有難さは、劇団コロケロの映画製作もそうだったな。ロケ中の鴨川の風は気持ちがよかったし、カメラ越しに見る団員の笑顔は眩しかった。EVEでの上映期間中はみんなよく笑ってた。
変則的な形で四年からお世話になった西川先生のもと書いた卒論も、それなりに満足いく出来にはなった。ただ、『国境の南、太陽の西』という作品に関しては、これからも考えていかなければならないのだと思う。プロセスなんだ、きっと。

プロセスというならば、きっと今年は人生の何らかのプロセスなんだろうと思えたのは、本当に大晦日の今日の、夕方だった。

今日は、幼馴染みのミオウと話した。同じ大学に通って、今はお互い京都なので、地元で話したのはちょっと久しぶりだった。ミオウとは腐れ縁というか付かず離れずで幼稚園のころからずっと続いていて、妙に面白いところが一致したりするので、落ち着く。地元はちょっとお茶する場所も選択肢のないファスト風土だと文句を言ったりした。ただ、お互い故郷はそこまで嫌いではないと思う。犀星の詩がいちばんちょうどいいよね、と言うと同意してくれた。

実は、今これを書いているのも、ミオウの入れ知恵みたいなものだ。今年の憂鬱の余波か、小説が書けなくなりつつなっていることを話すと、じゃあエッセイだ、と。ミオウはブログをやっているからね。

ミオウとの話の中で、読書の楽しみの質、みたいな話題が出た。サブカルクソ野郎は『ドグラ・マグラ』を五頁で投げて本棚に飾るというところから出発して、所謂大衆文学は読んでいて抵抗がない。純文学は、読んでいるとまるで泥の河を泳いでいるようだ、と。清流を泳ぐより疲れるし、途中で投げ出したくなる。ただ、何故か清流にはない楽しみや美しさがそこにはある。

あるいは、僕の今年はそんな泥を泳ぐものだったのかもしれない。今はまだそういう予感じみたものでしかないけれど、渡り終えてから、あるいはもっと時が経ってから、泥の底から何かを掴んでいたことに気がつくのかもしれない。

帰り道は強く冷たい雨風に打たれ、吹き飛んで壊れそうな折り畳み傘をしっかり握って帰った。
濡れながら、今年はこんな一年だったんだなと直感で納得した。

今、美輪明宏さんが紅白で「愛の讃歌」を歌っている。有名な方でなく、彼自身の訳詞の方だ。こっちのほうが好きだと思った。

好いお年を。

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