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宮島水族館のラッコたち
宮島水族館にいたラッコたちもネット上に上がっている情報が少ない割にはSNSで当時の来館者の人達からそこそこの頻度でツイートされていましたので、気になりまして宮島水族館に行った上で広島の図書館で宮島水族館のラッコたちについて調べてきました。
3月12日、宮島へ行き今はラッコがおらず2011年に建て替えられた宮島水族館を少しの間見て回りました。
広島の地方新聞は、中国新聞。
昔の記事をデータベースから見出し検索はできませんでしたが、索引用に作られた冊子があったのでその中のラッコ関連の記事をリストにして次の日の図書館で新聞記事が入ったCDから日付検索で探しました。
ラッコの誕生やエピソードの記事などたくさんありました。記事に書いてある個体数や誕生日、ネット上で拾った記事から時系列や家系図を推測して作ってみました。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の地方版からも情報を補完しています。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48026047/picture_pc_a8e0128d64854ddc4e47674f95094305.jpg?width=800)
1985年10月12日、宮島水族館でラッコが一般公開
最初にやってきた4匹の名前は「アラスカ」から取られています。このうち「カッキー」はまだ一歳に満たず、ラッキーかスッキーのどちらかが母親だったようです。10月3日の夜に到着、10月12日の正午公開。
当時、宮島の観光と宮島水族館の売り上げは落ち込んでおり、鳥羽水族館のラッコフィーバーを見て「苦しい台所事情の中でねん出した設備投資」二億円でラッコ館を建てたのだそうです。
そのはね返りで入館料も値上げ
大人千円(七百円)、中高生五百円(三百円)、小学生・幼稚園児三百円(二百円)
土産物店も多くのオリジナルのラッコグッズを作ったそうです。最初こそ雨などで客の入りは悪かったようですが、一年が終わってみると、オープン以来入館者数七十万五千人と最高を記録したそうです。
1986年11月18日、ラッキーがミッキーを出産
翌年1月にもスッキーが「ヤッキー」を出産していて、2匹の名前をつけるときに「ミヤジマ」にちなんで名前をつけられたそうです。この2匹を産んだラッキーとスッキーは1989年7月の記事が出る頃までには亡くなったようです。
1994年2月、長崎バイオパークのラッコと交換
1992年にアッキーが死亡し、唯一残された雄がカッキーの子供の「ケンタ(4歳)」のみに。血統更新のため、他の園館の雄とケンタを交換をすることに。そして長崎バイオパークの「リョウ」との交換が決まりました。
ただ、ケンタが移送するために捕まえた際に体調を崩してしまったため、長崎水族館と長崎バイオパークとの三角交換で、宮島水族館はリョウを貰い受け長崎バイオパークは長崎水族館からラッコの「平太」※(先に移動した成太の方かもしれません)を貰い受けたようです。
他にこの時点でラッコの交換が成立したのは、松島水族館とサンシャイン水族館の1例だけだそうです。それまではスペース上の問題で生まれた子を他の園館に里子に出すのが中心だったんですね。
1996年6月25日、タマ誕生
ここまでにミッキーは3匹のラッコを出産していますが、2匹は生後間もなく死亡、1匹は10か月後に肺炎で死亡しているそうです。
由来は公募の名前の中から「ふわふわのぬいぐるみのような姿に合う、呼びやすく可愛らしい名前」を選んだとのこと。
1999年2月15日、タマとミッキー鳥羽水族館へ移動
1997年12月に最後の雄である「リョウ」が亡くなったため、繁殖のためにイロワケイルカと引き換えに鳥羽水族館へ移動。2月14日にお別れ会が開かれ、地元の幼稚園児などファン約100人が詰めかけたとのこと。
宮島水族館で生まれたラッコ10匹のうち、8匹がここで生涯を終えました。
これにて中国地方でラッコは見られなくなりました。
中国新聞の宮島水族館のラッコに関する記事は豊富な方で、長崎や大分ではあまりわからなかったラッコのエピソードがあってありがたかったです。
ラッコの赤ちゃん誕生と、命名、イタズラの天才と呼ばれていたカッキーの「カッキー物語」四編です。本文をそのままご紹介したいところですが、著作権のこともありますので次回の記事で簡単にまとめたいと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1682268405884-m2NM9Zobkh.jpg?width=800)
参考記事
![](https://assets.st-note.com/img/1682176324879-8plfORjSkr.png?width=800)
朝日新聞 1995年5月20日 ラッコの赤ちゃん 宮島水族館で誕生
5月17日午前11時過ぎ誕生
母親は八歳ミッキー、父親は八歳のリョウ
今回産まれた赤ちゃんを含めて、5頭のラッコがいる
出産は四年ぶり九回目
毎日新聞 1996年9月26日 宮島水族館で誕生したコツメカワウソ、ラッコ、トドの愛称が決まる/広島
愛称が「タマ」に決まった過程が書いてありました
「広報みやじま」で掲載されたラッコ関連記事
2005年に宮島町と廿日市町が合併して、廿日市市になるまで宮島町で発行されていた「広報みやじま」。
町営の宮島水族館の出来事なら、町の広報誌に載っているかもしれないと思い広島県立図書館で「広報みやじま」を調べました。
広島県立図書館の所蔵が数年分欠けていてラッコ導入からは1986年からしかありませんでしたのでそれ以前が調べられませんでしたが、宮島に再び訪れた際に宮島歴史民俗資料館に行ったところすべて揃っていました。
載っていた記事を簡単にメモをしてきたものを記載します。
昭和60年5月号 No.317
p10 ラッコがやってくるよ No.1
「ラッコは国際保護動物」
ラッコをアメリカから輸入する際、保護団体の承認が必要
”アメリカは動物を絶滅させてしまった過去があるためか、国民性なのか野生動物保護の意識が高い”
ラッコの輸入は研究を目的としてのみ認められる
昭和60年6月号 No.318
p10 ラッコがやってくるよ No.2
「ラッコのからだとつくり」
鳥羽水族館でラッコを導入した初期に使われていた
線の太い劇画タッチの迫力のあるラッコのイラストが載っていました。
![](https://assets.st-note.com/img/1682686276196-4Fqd1koIUE.jpg?width=800)
昭和60年7月号 No.319
p10 ラッコがやってくるよ No.3
「ラッコの食べ物」
昭和60年8月号 No.320
p10 ラッコがやってくるよ No.4
「ラッコの飼育」
ラッコ4頭分 一日の量
エサの予定
イカ3ケース(8.5㎏入)
ウチムラサキ2ケース(15㎏入)
合計55㎏
可食部分
イカ80% 貝40%
32㎏
昭和60年9月号 No.321
p10 ラッコがやってくるよ No.5
「ラッコ館のあらまし」
水銀灯による人工照明、天窓があり冬季は自然採光もする
ラッコ館予想完成図あり
昭和60年10月号 No.322
p10 ラッコがやってくるよ No.6(最終回)
「もうすぐ一般公開」
今回のアメリカからのラッコの輸入で、捕獲する段取りなどを米国民に8月5日~9月4日の一カ月間公示
昭和60年11月号 No.323
表紙 こんにちはラッコです
10月12日ラッコ館オープン
昭和61年4月号 No.328
p6 Sun Sun ひろしま ’86
ラッコを描こう
8月10日(日)までに、宮島水族館へ提出
ラッコネーミング募集
ラッコの名前を書いた官製ハガキを、5月31日(土)までに宮島水族館へ
p8 ラッコの体重測定
3月4日にラッコの体重測定。測定はオリに入れた状態で行われた
プールの大掃除も同時に実施
来館時より4.8~8.4㎏増えた
一番大きな雄のラッコは20.2㎏
ラッコの食べる量は体重の25%が目安
昭和61年5月号 No.329
p10 水族館だより
ラッコ人気を反映入館者数は倍増
![](https://assets.st-note.com/img/1682181134543-YYU5ASUV0q.png?width=800)
昭和61年8月号 No.332
表紙 ラッコに名前がついた
命名式の様子のハイライト
収支報告でラッコの導入により宮島の売店の収益が前年比+77.2%
昭和60年10月に宮島水族館にやってきたアラスカラッコ4頭の愛称が6月22日に発表。由来はそれぞれ「アラスカ」の頭文字から取られた名前である他にもうひとつありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1658369636610-Ta4PudRDPU.png)
昭和62年1月号 No.337
昭和61年11月に生まれた赤ちゃんラッコ(ミッキー)をラッキーがお腹に乗せている写真が表紙を飾る
昭和62年6月号 No.342
赤ちゃんラッコ命名式の様子が表紙を飾る(以下抜粋)
4月28日にラッコの命名式が行われ、ラッキーの子供(メス)に「ミッキー」、スッキーの子供(オス)に「ヤッキー」という名前が付けられました。
名付け親には、応募総数約1,400通で同一名称約80通の中から、(住所、個人名、年齢)が選ばれ、賞品としてラッコのぬいぐるみと沖縄旅行がプレゼントされました。
平成11年3月号 No.483
平成11年2月6日、繁殖のため鳥羽水族館に移動するラッコの「ミッキー」と「タマ」のお別れセレモニーが水族館で行われる。
町の広報誌で、宮島水族館にやってくるラッコについて詳しく書かれてたことから宮島水族館と町の行政と町民の距離の近さのようなものを感じられました。地域によっては動物園水族館など動物飼育施設が広報誌にコーナーを持っていることがあり、その地域性は興味深いです。(広報あさひやまで旭山動物園、広報ひろおでひろお水族館がコーナーを持っていたのを確認しています)
宮島水族館とおたる水族館は、鳥羽水族館からのラッコブーム初期の1985年の導入のため集客効果も相当高かったと考えられます。その後日本各地で順次ラッコが輸入されていきます。アメリカの動物愛護団体のチェックは85年の段階では厳しかったと思われますが、89年の石油流失事故による捕獲規制強化を挟み95年にラッコの輸入を巡るストレス性の連続死で国内の動物愛護団体から呼びかけがあるまではある程度緩くなっていたと考えられます。98年の輸入時には国内外の反対の声が強かったようです。
宮島でラッコが導入されたとき、土産物屋が立ち並ぶ商店街ではラッコグッズをこぞって作ったとありフェリー乗り場でも看板をラッコが大きく飾っていたそうなので当時はラッコ一色の町になっていたのでしょうね。
![](https://assets.st-note.com/img/1682268267420-8N6Yn4ZpUX.jpg?width=800)
※3月23日、宮島水族館にラッコの到着した日を4日から3日に訂正
※令和4年1月11日、文章の一部を校正
※令和4年1月11日、参考記事の記事索引目録分を掲載
※令和4年7月21日、「広報みやじま」の情報を追加
※令和5年4月23日、広島県立図書館に所蔵されていなかった分の宮島歴史民俗資料館所蔵「広報みやじま」の情報と朝日新聞、毎日新聞、中国新聞で掲載された宮島水族館のラッコ関連の記事を全て追加
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