【イン・ザ・ルーム・ウィズ・ア・ナーサリー・ライム】
1
「サッムッライ! サッムッライ! サムサムララライサムライサイッゴー♪ オーイエーアアアーアーーー!」
ニウシはつま先で22回転し、華麗なるポージングを決めた。アニメどおりの22回転をキメられるのはクラスでもニウシ一人だ。母に内緒で教わった、イチネ兄さん直伝の22回転は、彼を一躍クラスの英雄にした。
中庭広場のネオン蛍光灯が明滅する。薄暗い、巨大なナゴエ団地階段の踊り場に斜めの光が煙る。ラクガキまみれの階段に少年の影が跳ね、踊り、もう一つの小さな影と交差した。ニウシは構わず踊り続けた。
「……どいて」
「サッムッライ! サッムッライ!」
「どいてよ。ニウシ=サン」
「サッムッライ! サッムッライ!」
「どいてってば」
「サムサムララライ! サムライサムライサムラ」
「どけよッ!」
「ウワッ!」
背中を押し退けられ、ニウシはよろめいて壁にぶつかった。隅に寄せていたランドセルがひっくり返る。その横をゴキブリめいて走り抜け、一目散に階段をかけ登る黒ずんだタビ靴の踵だけが見えた。鼻をつまんで睨む。見なくてもわかる。トバロは臭い。ナゴエ団地は22階建ての巨大団地だが、下層住人のやつらは誰も彼も臭い。決まってる。
ニウシの自宅は7階だ。7階は臭くない。6階より上の住人はエレベーターが使えるからだ。ニウシだって秘密特訓に階段を使っているだけで、部屋に戻るときはIC認証エレベーターを使う。
「サムサムララライサムライサイゴ!」
歌声をかき乱す重低音に、ステップを止める。ゴロゴロ……ゴロ。
遠雷だ。湿った風が吹き始めた。パーカー紐が煽られる。ニウシは額の汗をぬぐい、つま先でコンクリートのヒビを叩くと、ランドセルを背負った。剥がれた『お安いバイオソバ』のビラを己の影ごと踏み、踊り場の右手に回る。粉やビニル袋の踏みつけられた薄汚い階段を下る。来年からニウシもトバロも中学生になる。センタ試験に有利な高校を目指して……ニウシは煽情的な『ヨロコビ、あの世界』のビラから目を逸らした。
団地の中庭を背に、エレベーターホールのあるエントランス側に回り、懐を探る。エレベーターのパネルにIC認証を、
「ア。……ない」
ポケットを裏返す。
「ない。ない。アレッ?」
ランドセルを下ろし、空け、中身を出す。無い。エレベーターに乗るための認証カードが無いのだ。背筋に冷たいものが流れる。パーカーの裏ポケットを叩く。無い!
「ちくしょう、トバロの奴だ! ぶつかった時!」
ニウシはエントランス横の時計とエレベーターディスプレイの数字を交互に見た。夢中になって踊っていたので、いつもより遅い。これじゃ『サムライ探偵サイゴ』の放送時間にも間に合わない。それに母だ。父の失踪以来、帰宅が少し遅れるだけでひどく気を揉むようになった。
細かな雨が降り出していた。意を決して先ほどまでの踊り場に駆け戻り、目を凝らす。暗くて探せない。誘導灯が切れているのだ。稲光だけが頼りだ。這いつくばる。時間が過ぎていく。サムライ探偵サイゴ。間に合わない。22回転のオープニング・テーマ!
◆◆◆
悪臭漂う隅の液体に浮かんだカードケースをようやく見出したときには、重金属酸性雨は本降りになっていた。何度もケース表面をテヌギーで拭い、5回目にかざしたところでようやく『認証可ドスエ』の音声が応えた。
「ちぇ……ついてないや」
エレベーターの階数ディスプレイの数字が小さくなるのを見上げながら、疲れ切ったニウシは隅の丸椅子に座って待った。
ポーン。
金属扉が。開いた。
そして、――――が降りてきた。
(エ?)
丸椅子が熱い液体で濡れていた。失禁したのだと気づいたのはずいぶん後のことだった。降りてきた「何か」は影だった。真っ黒なナポレオンコートからサイバネの義肢が覗いていた。葉巻を指に挟み、灰を。灰。灰? は、落ちた傍から、床材を焦がし、熱融解させ、異臭を放ち、足跡代わりに点々と焦げ跡を作った。
――――は、ニウシに一瞥もくれずにエントランスを抜け、重金属酸性雨降りしきるネオサイタマ市街に去った。
賢明なる読者諸氏にはお分かりであろうがニウシのような一切のニンジャ耐性を持たぬ子どもが暴力的行為直後のニンジャを目撃すればNRSに堕ちるは必然であった。
よって、ニウシ少年が意識を取り戻し、遅くなったことを叱られやしないかと緊張しながら自室前のドアで佇み、エレベーター方向を振り返った時。
足元の黒い焦げ跡が、点々と己の足元まで続いていることに初めて気づいたとしても、無理はなかった。黒い焦げ跡と、赤い濡れた靴跡。
7階の。708号室。
「……鍵が開いてる」
ニウシは呟き、歪んだドアを開けた。
【イン・ザ・ルーム・ウィズ・ア・ナーサリー・ライム】
2
『サムライ探偵サイゴ! 次回の驚き事件は『これで死んだ肌が蘇る! ズンビーエキス配合! 今なら初回特典に2本付いてくる!『続いて次のニュースです。ネオサイタマ郊外戦闘地域で不可解な事件が『だからね、アタシ言ってやったのよォ。ムサシなんとかも言ってるじゃない犬が棒を『エッ!? お得がもっと!? コケシマートよりも安い! これは個人の感想であり実際の値段とは実際関係ありませんがネオサイタマ市民一万人にアンケートした結果、一切嘘のない』――ブツッ。「ロクな番組やって無いネ」
伯母が窓際にリモコンを放り投げた。開け放した窓から、ベランダにすり抜けてくるくると回る。ニウシはそれを目で追った。巨体の両端に、僅かに窓の外の闇が見える。外光の入らない部屋。伯母はニウシの倍以上幅のある巨体を揺らし、ベタベタと化粧を始めた。
222号室。
同じ団地でこうも違うものか。部屋の広さはニウシ一家の住んでいた708号室の半分もない。しかも床面積は巨体の伯母がほぼ占めている。あと室内で目に付く家具といえば、衣装ケース 、鏡台、絨毯代わりに敷きっぱなしの黴臭いフートン。ニウシのランドセル。僅かばかりの持ち物。そして、テレビ。(サムライ探偵サイゴ)ニウシは膝を抱えた。ロクな番組やってないネ。
母曰く「ろくでなし」の伯母にすら、ロクな番組じゃないと思われているサムライ探偵サイゴ。
「じゃあ仕事だからサ。朝にならないと戻んないし。アタシのフートン使っていいよ。アタシが遅かったら冷蔵庫のスシ食ってガッコも勝手に行きな。カギはポスト」
ニウシは黙って頷いた。
伯母は忙しく準備を終えて、出て行った。雨音がする。重金属酸性雨が降りしきっている。天井が揺れる。開けた窓から、上階の怒鳴り声と一緒に、雨風が吹き込んでくる。
リモコンを拾いにベランダに出ると、ちょうど上の階でもベランダに突き飛ばされるようにして子どもが追い出されたところだった。知った泣き声だ。
今や、ニウシより上階に住んでいる、臭いトバロの泣き声だ。
3
「ニウシ=サンは、『サムライ探偵サイゴ』の誰が好きなの」
伯母に引き取られてから、ニウシは『サムライ探偵サイゴ』のアニメを観ていなかった。伯母の出勤準備の時間に被るからだ。(ロクな番組やってないネ)
それどころか、セントーでトバロと一緒になる。トバロはニウシを仲間だと思っている。だが、ニウシはトバロとは違う。四日に一度しかトバロは来ない。二日に一度は来ているニウシとは違う。
「お前、サイゴなんか知らないだろ。テレビ無いンだから」
「でも、みんな話してる」
「サイゴはサイコーだからな。お前は知らないンだろうけど」
「コミックは見たよ」
ニウシはトバロを睨んだ。無言でパーカーを羽織り、振り切るように団地専用セントーを出る。連絡路で中庭を抜け、団地のエントランス裏口に続いている。団地専用。下層階専用。部屋に風呂がついていない5階以下の住人のための、湯垢の浮いた共同風呂。
「ねえ」
無視する。短い髪から水滴が落ちる。
「ニウシ=サンち、テレビあるんでしょ。サイゴもさぁ、」
エントランスの自動ドアが背後に閉まると、俄かに雨音が遠くなった。エレベーターホール、ディスプレイを何気なく見上げる。数字が変化していく。……ニウシの足が止まる。
ポーン。
金属扉が開き、ピザ宅配員の制服を着た、オレンジ髪の美女が出てきた。
追いかけてきたトバロがニウシの背にぶつかった。女は、キャップの下で少年たちに笑いかけた。ニウシは赤面した。宅配員女性は小さく手を振り、自動扉を出て行った。
「……いい匂い、したね」
「ああ」
ニウシは呆然として頷いた。トバロは、彼の隣に並んで囁いた。
「ゴミ捨て場で拾ったやつ、少しずつ集めてるんだ……【探偵ジュウロウと助手トキムネ】が出てくる話だよ」
「何の話?」
「コミックだよ。サイゴの。読みたくない?」
4
ニウシとトバロは、配管を7階までよじ登ってきた高揚感で、呼吸音だけを聞いていた。エレベーター横の排気ダクトから這いだし、廊下に降り立つ。
トバロは、立ち尽くすニウシの背に手を添えた。
708号室には「外して保持」テープが張りめぐらされていたが、一部は剥がれて床に垂れていた。歪んだままのドアには、テープを上書きするように、レインボースプレーで下品なグラフィティ・アートが描かれている。新たな入居者の気配はなかった。
ニウシの呼吸は浅く、瞳孔が大きく開いていた。
「ニウシ。ねえ。帰ろう」
「……でも、俺、ジュウロウみたいに、仇を、」
「うん」
割れたままの窓ガラスから、破壊の痕を残した708号室を吹き抜けて、風がニウシの汚れたパーカー紐を揺らした。遠雷。
「帰ろうよ。ニウシ」
トバロはもう一度、言った。
◆◆◆
その晩のことだった。
轟音とともに、ナゴエ団地が揺れた。ニウシは寝ころんでいたフートンから跳ね起き、ベランダに飛び出した。重金属酸性雨は止んでいる。中庭のネオンライト蛍光灯に影が躍っていた。葉巻を持ったサイバネ腕の影。背筋が泡立つ。
「ニウシ!」
泣き叫ぶような声がした。頭上を振り仰ぐ。ぼさぼさの赤髪が乱れている。トバロがちょうど顔を突き出していた。
「ねえ。爆発みたいな音、した。どうしよう」
「……お前んち、今誰もいないだろ」
「う、うん」
「降りて来いよ」
トバロが泣きそうな顔で頷き、顔を引っ込めた。ニウシはもう一度、中庭を見た。踊る影に、別の素早い影が重なっていた。
(イヤーッ!)
雲が動き、月が出た。ネオンライトと月光が交わり、切り結ぶ。カポエイラめいて手足の位置が目まぐるしく変わり行き違う。マフラーめいた長い尾を引く俊敏な方の影が身を伏せ、縮め、散る火花を身を捻り躱しながら、月を刈るかのように高く、高く跳んだ。投擲仕草。いびつな影がくの字に折れる。長い尾を引く影が、1回転、2回転、3回転……
「……サイゴ」
10回転、20回転、21回転、……22回転!
(サッムッライ! サッムッライ! サムサムララライサムライサイゴ!)
ニンジャ動体視力を持たぬニウシにニンジャ戦闘のスピードを追えたはずがあろうか。だが、確かに赤黒の影は実際22回転し……そのスピードを乗せた蹴りで、――の首を胴体から千切り飛ばし、爆発四散させた。
俊敏な影は、ザンシンのポーズを取った。ように、見えた。
5
『サムライ探偵サイゴ! 今日の事件は摩訶不思議、顔の見えない悪人が血だまりをワープし俺たちを襲って来る! だが君たちは不安に思うことなど何もない! なぜなら……! ♪ デデーッデッデッデデー! サイッゴ! サイッゴ!……』
「好きなら最初から言や良かったのに」
伯母がトバロとニウシ二人分の幅がある顔に白粉を塗りたくりながらそっけなく言った。ニウシは苦笑いした。
「そうだね」
「じゃあアタシ仕事だからサ。朝にならないと戻んないよ。フートンも好きに使いな。ガッコも勝手に行きな。カギはポスト」
「うん」
「じゃ、仲良くやんな」
ニウシは伯母を送り出して鍵を閉めると、濁った水を2つのグラスに注いだ。トウフ・バーを半分に折る。断面が崩れて裸足の甲に落ちた。
「トバロ」
水でカンパイし、サイゴの歌を口ずさむ。
「やっぱりサイゴはサイコーだね!」
「特に22回転がな!」
トバロがニウシに抱きついて笑った。テレビの光に照らされ、踊る影が重なり、跳ねた。
【イン・ザ・ルーム・ウィズ・ア・ナーサリー・ライム】終わり
楽しいことに使ったり楽しいお話を読んだり書いたり、作業のおともの飲食代にしたり、おすすめ作品を鑑賞するのに使わせていただきます。