庄司 薫「アレクサンダー大王はいいな」

※単行本に収録されておらず、現在では入手がやや困難なので、記録として...

「アレクサンダー大王はいいな」 (『新潮』1969年12月号)

 1
 私の悩みのたねは、要するにこの私が一つの巨大な秘密を持っているというところにある。巨大な秘密などというと、いかにもちっぽけなものに見えてくるところが、「言葉」のすりきれた現代における知識人諸兄の悩みのたねであろうが、私にしてみればそんなことはどうでもいい。つまり私の巨大な秘密は、そんな言葉とか言い回しといった細部にこだわるにはあまりにも巨大なのだから。
 それにしても、秘密を持つということは大変だ。私は時々自分が、人間の形をしたガスボンベかなにかのように感じだす時がある。私は、極めて頑健な骨格と鍛えあげたしなやかな筋肉を持っているが、ほんとにちょっとでもタルムと、そのすきに私の秘密がシューッと噴出しかねない。特に用心に用心を重ねなければならないのは、口金というか、要するに口だ。私の下顎が一般に極めて野性的な魅力に溢れている (分り易く言えば、原子人類のようにたくましく発達している) のは、今しみじみと或る感慨とともに思えば、ひとえにこのため、つまり口を閉じるべき時に閉じるための用意だったにちがいない。
 しかし、ここでも私の冷静さは、われながらさすがと思われるほどのものだ。つまり私は、いくらできがよいとはいえ、やはり人間の肉体を持つこの私自身に、過重なる負担をかけまいと配慮するほどの余裕を持っている。つまりごく具体的に言えば、私は時々シュッと、ささやかながら私の秘密をもらしてみせる。絶対に秘密をもらすまいなどという過度の緊張が、この脆い人間の肉体を持つ私をパンクさせないように (そうなったらモトもコもないってわけだろう?)、私は時々そっともらす。ほんとに時々そっとやるのだ。もちろん相手は選ばなければならないし、時と場合にも十二分の配慮を行わなければならない。そして、その上でそっともらす...シュッ...。
 もっとも考えてみれば、この私の秘密はあまりのもデッカイので、たとえかなり堂々ともらしても、ほんとうのところはかえってバレないという長所を持っている。この点では、同じ秘密でもいかにも秘密らしい秘密を抱えている連中に比べて、私は極端に落ち着いていられるわけだ。つまり、私の友人たちの例で言えば、複数の恋人を持っているとか、教授と同性愛関係にありながらかつその娘にもセマラレテいるとか、研究費をつかいこんでしまったとか、色盲だとか、まあこの世にはいろんな秘密があるものだが、こういったものは大変に人間的というか (当り前のことだね)、従って極端に豊かなリアリティをその秘密自身が持っているのだからたまらない。連中はみんな、こういった秘密をめぐって悩んだり暴れたりいろいろ騒ぎまくり、結局のところ「公然の秘密」にいくまではおさまらないという一般的傾向に従うことになる。
 それに比べれば、確かに私はラクだ。口笛も出ようってものだ。ただ困るのは、私自身がもらさなくても自然にバレてしまう危険のある場合だ。たとえば雨が降ってきたりする時のことだが、これはほんとうに神経を使う。まあ朝から降り続けている時などは、それなりの心構えもできているわけだが、たとえば教授や友達とおしゃべりに熱中しながら研究室を出てきて、急に夕立に出会ったりする時なんかは、あとで考えるとヒヤリとするようなきわどい場面にぶつかる。つまり、私だけがぬれないのならまだいいのだが、うっかりしてひどくかたまって歩いていると、私のみならず私のとなりの友達までがぬれずにすんだりする。それも極端に言えば、私に近い右半身だけぬれずに、左半身はビッショリといったことにもなりかねないのだからあわててしまう。そういう時は、一刻も早く、カサだカサだ、または、逃げろ、と叫んで雨やどりにかけこまなかればならない。ほんとうにいそがしい。
 それから、もちろん交通事故などには会わないよう、万全の注意を払わねばならないのは言うまでもない。八トン積みのダンプカーにうっかりハネとばされて、カスリ傷一つ負わないどころかダンプの方がメチャクチャになったりしては、これはおおごとだ。何故かときかれて、私は神様だからだ、なんて答えても信じてもらえないのはあまりにも分りきったことなのだから。交通事故には気をつけろ! ほんとうに、私がどんなに慎重に道を横切るか、まあ一度見て欲しいくらいのものだ。

 ところで、さっき言った「絶対に秘密をもらすまいなどという過度の緊張」を避けるために、私は数年前から一つのいわば機械的方法を採用してきた。つまり、私の専門 (?) である都市工学でも同じことだが (そしてまたすべての領域でも同じ原理が通用するだろうが)、或る目的を貫徹するには、その場その場の行きあたりばったりの「臨床主義」では結局ダメで、やはりまずすべてを統括する体系的方法が必要なのだ。それも長期にわたる場合には、ごく平凡なものが。
 そして私の場合には、要するに、日曜日を安息日にするという最も平凡なリズムを、私におけるいわば「制度的安全装置」として採用したわけなのだ。つまり、一般の人々とは当然逆になるわけだが、私は日曜日には人間であることを休業する。人々がその仕事から解放されて「人間らしく」過す日を、私は「人間らしくあること」から解放されてのびのびとくつろぐ。もちろん、雨や交通事故などには注意を怠らないし、それなりの制約はあるわけだが、これはやむをえない。
 そして、ことに最近はつくづく思うことだが、この私の方法は、実にうまく現代のリズムに合ったというわけだ。つまり、今やレジャーレジャーと草木もなびく日曜日 (というかウィークエンド) ではあるが、人々はどうやら「人間らしく」過す方法をあまりよく御存知ないらしい。これは、雨が降ったらキチンとぬれることも含めて、月曜から土曜までをいかに巧みに「人間らしく」過すか苦労している私から見ると、実によく分るのだ。人間らしく過すっていうのはこうやるんですよ、なんて教えてやりたくてウズウズする (もっとも、やや厳密に言えば、私のは、人間らしく過しているかの如く見える方法、というべきかもしれないが)。そして、かくして人々は、その「人間らしく」過すべきウィークエンドに、要するに最も混乱した支離滅裂の生活を送ることになるわけで、そこが私にとっては「人間らしさ」の手を抜くのにひどく好都合な状況になるというわけなのだ。安息日とは、どうやら誰よりもこの私のためにつけられた名前らしいが、もっとも考えてみれば、語源的にも当り前のことというわけだ。

 そして、今日は土曜日――。
 私は、土曜日が大好きだ。初めはただ、安息日の前日だということでなんとなく嬉しくて、シンデレラよろしく (いや彼女の場合とはむしろ逆だな) 真夜中の十二時になるのが待ち遠しいという感じだった。でも今では、すっかりベテランになって形式主義から脱した私は、十二時などというあまりにも機械的な区分にはこだわらなくさえなった。要するに安息日をウィークエンドに拡大して考えるだけの余裕を身につけた、といってもいい。それになにしろ、いまや世界の趨勢は、日本においても週五日制へと動きつつあるのだ。私とて世の中の動きに従わなければいけない。何故って、人々あっての私であることは、これだけは単に「神としての自己顕示症」にとどまらぬ真理なのだから、ね?

  2
 ところで今日は土曜日だが、私はとくにいそがしい。何故なら、まずあったく頭にくる話だが、明日の日曜日に、私はいわゆるこの世での「お仕事」ができてしまった。つまり私は、私が博士課程の大学院生として所属する都市工学研究室の一員として、明日、或る大コンビナート建設計画の現地調査などに行かなければならなくなったのだ。そして今日は、その準備のための会議・会議・会議・会議...というわけで、こういったことはすべて要するに人間関係だから、私は「人間らしく」振舞い続けるために大いに気を配らなければならないわけだ。そしてまあ、大いにいそがしく大車輪で働いて、夜のたとえ数時間でも「人間らしく」振舞うことから解放されたいというささやかな願いに胸をこがしたり、というわけだ (なにしろ明日の安息日が丸つぶれなんだからね)。
 ところで、このいそがしいさ中にさらにうんざりする話だが、どうも今日は空模様が怪しい。あちこちドタバタでかけていって、ややこしい「人間らしさ」を巧みに演じながら、しかも突然の雨にまで気を配らねばならないとすると (交通事故にも、もちろんだ)、これはうんざりするのも当り前だ。
 私は、まあとりあえずカサを持って出かけた。私自身はぬれなくてもカサはキチンとぬれてくれる、というところが、私がよくカサを持ち歩くことのひそかな理由なのだ。つまりカサがぬれて自分がぬれないというのがカサの原理だが、逆にカサさえぬれれば自分はぬれなくても疑われなくてすむという原理にもなるのだ (言っておくが、この原理は私が「人間らしく」振舞うために最もよく利用する基本原理でもあるわけだ、ね?)。

 それに、カサというか、雨というか、とにかく私は、雨の中をカサさして巧みに歩くたびに、或る説明のしようもない懐かしくも甘い気分になる。私における最も感傷的な気分と言ってもよいだろう。何故なら、私が私自身のこの巨大な秘密に気づいたそもそものきっかけが、このカサというか、雨だったわけだ。或る夏の日、突然の夕立に立往生していた私の前に、ヒマワリのような黄色いカサと、ダリアのような赤い小さい風船が揺れながら立ちどまった...。
 ――こんにちは、入れたげる。
 肩を並べて歩いていくと、突風がきて、ヒマワリもダリアもすっとんだ。私はヒマワリの方を追いかけてつかまえ、小さな持主のところへかけ戻った。
 ――あたしは、風船の方がよかったの。
 と、その小さな持主は小さな歯をくいしばって言った。
 ――風船はどっちへ行った?
 ――あっち、空よ。
 ――空か。
 ――すごく早かった。
 ――水素が入っていたからだよ。
 ――風が吹いたから。
 ――ああ、そうか。
 ――ちがう、水素が入ってたからね。
 ――え?
 ――カサとってくれてありがとう。
 風がやたらと激しくなり、私たちは小さなヒマワリのかげに隠れながら走り、小さな花屋の店先の日除けの下に駆けこんだ。
 ――あたし、あまりぬれなかった。
 ――小さいからね。
 ――でもあなたは、大きくても少しもぬれてないのね。

 風船と言えば、二ヶ月前のやけにいいお天気の日、或る公会堂の起工式のパレードで沢山の風船が集った。そして肥った代議士がクワを入れて、着飾ったきれいな娘たちは一斉に両手に持っていた風船を手放した。一人だけいつまでも両手から風船を放さない娘がいた。私はヘルメットにジャンパーのまま (こういうカッコのよさが建築家のとりえだ)、その娘に近づいた。
 ――まだ風船を持ってますよ。
 ――指が離れないんです。
 ――何故だか分りますか。
 ――いいえ。
 ――教えてあげましょうか。
 ――いいえ。
 ――え?
 ――分っちゃった。あたし風船が好きなんです。
 ――ぼくもなんです。

 3
 ところで私はカサを持ってでかけた。転ばぬさきの杖というが、ぬれぬさきのカサ、いや、まさにぬれないタメのカサだ (ね?)。
 朝九時から会議が始まった。およそすべての会議において、建築家ほど優雅な役割を演じられるものはあるまい、というのが私のつねづね考えてきたところだ。とくに都市工学などとくると、これはもうほんとに嬉しくなってしまう。現代における最も優雅な職業・建築家、その中でも最も優雅なるもの都市工学者...。
 黄色いヒマワリの花をかざして激しい夕立の中を突走り、しかもぬれなくて驚いて以来 (わがまなこから、まさにうつばりがとれたのだ)、私はしばらく大いに悩んだものだった。その悩みのなかでも最も具体的なものとして職業の選択の問題があった。つまり、私が私のこの巨大な秘密をあらわにし、同時に必然的にその巨大な使命を果すべく積極的に動きだすまでの間、私はいかに過すべきか。そして私は都市工学者を選んだ。
 まず、まったくの余計な気づかいであろうが、最近の大工さんがみんな (棟梁などとは言わずに) 建築家を名乗るからといって、私も大工=建築家なる方程式に基く連想から安易に建築家になったわけではない、ということは知っておいていただきたい (ちょっとまわりくどかったかな)。つまり私は、私なりの分析と思索に基いて、全く主体的に建築家という職業を選択したわけなのだ。
 理由を簡単に話すことは極端に困難と思われるので、まずごくあっさりと平たく言えば、要するにカッコいいのだ (そしてこれは、私にとってかなり大事なことなのだ)。たとえば、まずヘルメットというやつがある。これはもともとは兜であって本来戦闘用の装具だが、このような戦闘用装具を平和的にも使用することは、最もカッコいいことの一つなのだ (これについては私の友人の著書『平和のさなかに戦闘者であるための方法序説』を参照されたい)。そしてその方法には、探検家やレーサー、そして野球やアメリカンフットボールなどのスポーツ選手になることもいいが、なんといっても建築にたずさわることが近道だ。つまり軍隊・機動隊などの戦闘者集団以外で最も大量にヘルメットが使用されているのは、建築家というか、ほかならぬ建築現場においてなのだから。最近の映画やテレビドラマにおけるヒーローに、なんとも大量の建築家が登場していることにお気づきだろうか? そしてこれはただ、女子供の漠としたあこがれの英雄と言うだけではすまない。建築家のカッコよさには、それなりの十分なそして重大な理由があるのだから。
 たとえば、ヘルメットと角材を持って登場したスチューデントパワーも、実はほかならぬ建築家の巨大な影響下にあることを指摘したい。つまり、ヘルメットにしても角材や鉄パイプにしても、砕石にしても火炎ビン (要するにダイナマイトだ) にしても、こういったものが実はすべて建築家、というかもっと分り易く言えば建築現場に由来するものであることを想起してもらいたい。そしてもちろん道具立てだけではない。建築現場というのは、少くとも現代の都市では、常に <ぶっこわしてぶったてる> (編注: <>部傍点) という行動の場なのだ。何か建築するということは、同時に必ずぶちこわすということを前提とするわけだ。
 そして大事なことは、建築家にとっては、すべての修正主義・改良主義は、二流以下の仕事となるということにある。いやしくも一人前の建築家なら、誰でもそう思う。何もかもぶちこわした大地の上にこそ、ほんとうに新しい建築が構想される。ぶちこわす前に新しい青写真ができているか否か、といったいかにも知的で良識的な問いかけも、ここではそもそも問題ではない。どっちみち建築家の青写真は、すべてをぶちこわしたサラ地を前提として構想されるのだから。かくして建築家は、なんでもまずぶちこわしてから創造する。すなわち建築家ほど、常に「男の中の男」であり得る存在はいないわけだ。男東大どこへ行く? 要するに彼らは建築家の影響下に入ってきた。つまり (これは若干内証の話に属するが)、一連の大学紛争をひそかに演出したのは実は私たちの研究室なのだ。それに、言うなれば、何よりもこの私がツいていた、というか、いわば将来へのテストケースとして指先でツいた気味もあったというわけなのだ。

 会議は続いた。
 ――きみの意見は?
 と、教授が例の目くばせをした。
 ――都市計画は、人間のすべての分野、想像力の分野にまで責任を持つべきです。
 ――なるほど。
 ――もう少し具体的におっしゃってくださいませんか?
 ――人間の想像力は、建物を都市を、たてよこななめ、上からも眺めることができます。ひょっとしたら、地下からも。
 教授が笑い出し、みんながそれにならった。硬ばっていた会議の雰囲気がやわらいだ。
 ――これはキビシイお考えだ。手が抜けないってわけだ。
 ――流体力学の応用は、あくまでも必要悪とお考え下さい。大切なのはやはり人間ではないかとつくづく思います。できれば、その想像力まで楽しませ満足させたい。私たちのプランには、そういう気持もこめられています。甘いとお考えですか?
 ――いや、とんでもない。建築家というのは詩人ぞろいですね。

 私たちはみんななごやかに笑い出した。建築家、それも都市工学者を選んだことは、ほんとうに成功だったとつくづく思うわけだ。誰に対しても自信満々、余裕しゃくしゃくでいられる。社会科学者に対しては自然科学者・技術者となる。自然科学者に対しては、人間と物の集合である都市の専門家、つまり社会科学者になる。実際家に対しては瞑想的な哲学者・創造者として、夢想家に対してはこの手でものを創るたくましい行動者として (つまり、じっと手を見ておどかせばいいって感じだ)。そしてさらに、建築家は藝術家ですらある。しかもヘルメットにジャンパーに「現場」まである。これを要するに、なんと言うべきだろう? 建築家こそ、現代において最も神に近い存在形態ではあるまいか。そして都市工学者は、そのスケールの大きさから言っても、常に永い未来を考慮する点から言っても、建築家の中の建築家、神の中の神に近いのではあるまいか。
 笑わないで欲しいものだ。何故って、もともと私が何者かを考えていただきたい。私が言いたいのは、現代において都市工学者であることが、私が「人間らしく」振舞う労力をいかにラクにさせてくれているか、ということなのだから。預言者は故郷にいれられず...。これまでの彼らの失敗は、常にこの日常生活の「人間らしさ」における失敗に原因があった。言うなれば私は、「正常人」としても立派にやってみせなければならない。私という存在の秘密がいずれ明らかになった時、それが私の日常生活における「異常」と結びつけられるようなくだらないツマズキは、私自らが今からとりのぞいておいてやるのが親切というものだ。ツマズキをわざと沢山ならべて、ここまでおいで、甘酒進上、みたいなことは本来われわれがとるべき道ではなかったはずなのだから。
 それにしても、さらに興味深いことは、こういう各種の会議における私の役割が、いつの間にか、都市計画における人間性尊重を説くことになっている点だ。私は今から極めて自然な成行で、もう毎日人類愛を説いているのだ。もっとも私は、最初のうちは教授の目くばせを受けるたびに、彼の顔をうかがったものだ。もしかして彼は気づいているのではないか。彼は私の巨大な秘密を感づいていて、そして私に今からゴマをすっているのではあるまいか。いずれ、その節 (!) にはよろしく、なんてね。

 4
 朝からの三つの会議がそれぞれやたらとのびて、スケジュールがどんどん遅れだした。私たちのチームは、ついに昼食を省略し、大学から次の会議場であるホテルへ向う車の中でホットドッグなどをかじった。
 土曜日の午後ということで、東京中の道という道には車が溢れ、その混雑は中心部に近づくにつれてひどくなった。
 ――何故われわれは、あわててホットドッグを食ったのか? これならフルコースが食えた、車の中で。
 ――流体力学の応用は、必要悪だなどと言ったフザケタ野郎は誰だ?
 ――オレだ (私は、オレなどとも言うのだ。人間らしくやってるわけだ)。

 しかし、私も次第に頭にきてイライラした。実を言って (既にお察しのことだろうが) こういう時が私としてはなかなかややこしい。イライラしなければ「人間らしく」ないし、といってあまり手放しでイライラすると、ついうっかりと正体がバレるようなことをしでかしかねない。たとえば、空を飛んでってしまうのだ。見渡すかぎりの車の海をひとっとび、水素のいっぱいつまった風船のようにひとっとび...。あぶないあぶない。

 それにしても車は遅々として進まず、私はほんとうにイライラしてきた。何故なら、この調子で順送りに遅れていったら、ひどく楽しみにしていた一つのデートができなくなるかも知れない。例の風船の大好きな娘なのだ。
 あれから二ヶ月の間に、私は彼女と五回もデートした。ああ、そう驚かないで欲しい。私だって女の子とデートするのだ。いや、それどころではない。私は女の子が好きで好きでたまらない、ほんとうに私は女の子が大好きだ。そして私は、もちろんこのあたりに、若干の問題があることを認めないわけにはいかない。つまり、私は確かに私の巨大な秘密を抱え、それを明らかにする日のために人間たちへの愛情を育ててはいるのだが、この女の子を好きになるということと、人間を愛しいつくしむということとの間には差があるのかないのか? (さあ大問題だ。正直言って私には分らない、ほんとだよ、ほんとだ)。
 そこでまあ私としては、とにかく「人間らしく」振舞うという作戦要務令を第一にしてこの問題についても対処しようと考えている。つまり、魅力的な娘 (つまりカワイコちゃんだ) を見て心を惹かれることは、言わば最もふつうの人間らしいことではあるまいか...。ところが実は、さらに問題があるので困ってしまうのだ。と言うのは、この私には既にレッキとした、そしてチョッとした素敵な婚約者がいるのだなあ。
 まあ呆れずにきいて欲しい。
 結論を言うならば、つまり私は、この私の巨大な秘密を、その使命と力を、この二十世紀後半の現代でいかに有効にいかすかについて、それこそネナイで考えたのだ。そして得たのは、要するにじっくりと待つということだった。つまり、これまでの私の仲間の多くは、大てい三十代でデビュー (?) したものだが、二十世紀も後半となるとそうはいかない。平均余命 (平均寿命というのは科学的でないのだ) がのびているからというだけではない。若干現代の最も前衛的職業である都市工学者風にややこしく言うなら、情報化社会における疑似イメージの氾濫の中で、真に「巨大都市に呼ばわる声」に応じて、ほんとうに人類救済のために一仕事するにはどうすればいいか――そしてそのためには、要するに私といえども大いに力を養わねばならない、といようなわけなのだ (ああ、なんで私はこんなに遅くやってきたのだろう?)。
 もちろん、私がたとえば六十にしてタッたりして間に合うか? という疑問はあった。何しろ、たとえば最も身近な問題として、もしこのまま都市化が世界的に進行した場合、公害その他の環境悪化により、人類の半減期は十年となろうという説などがある。また、この十月に国際大会を後楽園競輪場でやって (ああ、競輪場でだ)、好奇心の強い私の友人どもをコワイコワイとワメカセタ「ものみの塔」のように、ハルマゲドンが1975年に始まると主張するものもいる。でも、結論を言えば、要するにあわててはいけない、なにしろ落ち着いて考えてみれば、この私に挨拶なく、そういう決定的事態が起るはずはそもそもあり得ないのだから、ね? (私は、今のところまだやや早合点で、時々そそっかしくあわてるという欠点がある。つまり、まだ実に人間っぽいところがあるわけだ)。
 かくして、要するに私は、この私がこの私の巨大な秘密をひた隠しにしたまま、あと何十年もの間「人間らしく」振舞わねばならぬかも知れないという恐るべき「茨の道」を見た。それも、さきにも触れたように、なんらの「異常なく」むしろ誰よりも「正常」に暮さなければならない、という拘束のなかでだ。とすれば、当然「家庭」などもつくらねばまずいし、従って結婚しなければならない。私に婚約者がいるのは、まあ、ざっとこのような理由によると理解していただければ幸いと思うわけだ (といっても、もちろん私は、いやいやながら彼女と婚約したわけではない。私の話し方に、「いやいやながら」のニュアンスがあったとしたら、それは私の巧みな「人間らしさ」、つまりテレ臭さの感情表現が成功した証拠だ)。
 そして、従って (話をスタートに戻せば)、私が困っている問題は、レッキとした婚約者がいながら、なおほかの娘とデートを続けるのは「人間らしい」振舞いなのかどうか、ということになる。そしてこうなって来ると、私にはほんとうに手に負えなくなる。いくらまわりを見回しても結論は出てこないのだ。つまり、つくづく思うことだが、このような迷い方をした場合に、私における馬脚、「人間らしく」振舞っていることの弱点が一挙に暴露されてくるというわけなのだ。
 ほんとに気をつけなければいけない。私より次元の低い存在ではあるが、久米の仙人の教訓もある。...でも、それにしてもあの娘は可愛らしいのだ、私は...アッ、やった。

 シマッタ、例の交通事故だ!

 5
 さすがにタダ者ではない私は、猛烈な衝突のショックのさ中にも、まわりの状況をキチンと見定める余裕は忘れなかった。ただ、おかしいのは、私がほとんど反射的に、両膝の間に立てて持っていたカサをしっかと握りしめたことだ。雨と交通事故には気をつけろ。東京では、交通事故はいまや雨よりも多いってのはほんとうのことなのだ。
 ところで、事故は、私たちの乗っていたベンツ300SEL (つまり某大企業が、現代の英雄である私たち都市工学者を迎える時は、常にかなりの体をつくすわけだ) の前部左側フェンダーに、左側から追い抜こうとした青いカローラがつっこんだものだった。衝突は、この混雑の中でそんなスピードが出せるとは信じがたい程度には激しく、私たち五人の乗客は、一応あちこちに倒れてぶつかった。しかし、私が、一体どの程度の「人間らしい」負傷または痛みを演じるべきか、と眺めたところでは、みんなさしたる被害はないようだった (ああ、ひとりで事故に会うのならともかく、こうして、他の人間たちと一緒に事故に出会う時は、まったくややこしいわけだ)。
 ところで問題は、衝突してきたカローラの方だった。運転していた男は、ハンドルにおおいかぶさるようにつっぷしたまま動かなかった。私たちはバラバラと車の外にとび出した。いつの間にかまわり中に車がとまり、人が駆けてきたりした。つまり白状すれば、私を含めて私たちは、みんな一瞬ショックにボヤッとして、車の中で腰を抜かしていた気味もあったらしいのだ。

 ところで、(もはや繰返す必要もあるまいが) さすがにタダ者ではない私は誰よりも先に、右側フェンダーとヘッドライトをつぶしたカローラにかけよった。そして右側の既にショックで開いてしまっているドアをひっぱって広く開け、ハンドルの上につっぷしている男をのぞきこんだ。
 ――どうだ、どうだ (これは友人の声だ)。
 ――ウム。
 私はまず、ハンドルを握ったままの男の右手首をとって脈を見た。ところが、脈がない! 私はあわてて男の手首をコネ回すように探した (白状すれば、私はこれまで自分のをも含めて、およそ脈をとるなどということはなかったのだ)。人間の脈ってのは、どこだどこだ。サイレンの音が四方から近づいてくるのがきこえた。
 ――どうした、どうした。
 ――ウム。
 私は、急速に近づいてくるサイレンの音に包囲されながら、突然の目覚めのように、自分がいまや一つの重大な選択を迫られているのに気がついた。私の左右から、友達がのぞきこもうとわりこんできて、そして車の四方の窓にも、顔をくっつけてのぞきこむ弥次馬たちが現れた。私はいよいよ追いつめられた...。私はどうするべきなのか? どちらが「人間らしい」のか? いや、ちがった。どちらを選択するのが、少くともその選択をする段階において「人間らしい」のか? いや、それもちがう。何故なら、ほんとうに人間らしければ、もともとこの男を生き返らせてやろうかどうしようかなどという選択そのものが、あり得ないのだから。とすれば、生き返らせたりしてはもちろん人間らしくない。でも、生き返らせてやりたいと思う今の私の気持ちは、確かに最も「人間らしい」のではあるまいか。さあ、どうする、どうする?
 ――どうなんだ、どうなんだ。
 ――ウム。
 ――あっ、雨だ。
 ――えっ?
  二つのサイレンが耳の鼓膜の一ミリ手前まできて次々とまり、弥次馬がざわめいた。そして確かに急に大粒の雨が降ってきて、車のフロントガラスに大きなしずくが次々とつながって縞模様を描きだした。まずい、これはいけない...。
 私はそして決心した。――シュッ!

  ――ウーン。
 とうめいて男は顔を動かし、ぼんやりと目を開いた。
 ―― (どうだね?)
 ――?
 彼はハンドルの上に顔をのせたまま、私の顔をやっと見つめた。たちまち驚きの表情が、夜明けの海の輝きのようにひろがった。彼は、恐らくは驚きのあまり口を開けたまま、声も出ずただじっと私を見つめるだけだった。
 ――神は死んだと思っていた。
 と、彼は呟いた。 
 ――神は死んではいない、ただ修行中なだけだ。
 と、私は微笑んでやさしく囁いた。
 ――死んだかと思った、生きてたんだ生きてたんだ。
 ――シィーッ。

 ――さあ、どいてどいて、どいてください。
 と、白衣の救急隊員がタンカをかついで、私の背中にまできた。
 ――さあ、どいてください。
 私がドアから離れると同時に、男はハンドルから上体を起し、大きくのびをした。
 ――どうなんですか?
  と、救急隊員が呆れて大声でどなった。
 ――さあ。
 と言って、男はのそのそと車をおりてきた。そして、いぶかしそうな表情で眺める人々の視線のまん中で、さすがに初めはおそるおそると、そしてやがては次第に大胆に、からだのあちこちを動かした。そして最後はニコニコしてラジオ体操だ。
 ――どうなってんの? これ。
 と、救急隊員が明るい素頓狂な声で叫んだ。その明るさはたちまちまわり中にひろがって、やがてみんな笑い出した。なかにはズッコケて涙を流しながら笑うやつもいた。
 嬉しいな、嬉しいな...。
 私も思わず涙ぐんだ。やっぱり助けてやってよかった。でも私は、右手の指先で目尻の涙をそっとぬぐいながら、急に思いついた。
 そうだ、雨が降ってるんだ! こんなささやかな涙ではとてもごまかしきれないほど大粒のやつが...。
 私は大あわてで、しかしあまり人目をひかぬよう、こっそりその場をぬけてベンツの中にもぐりこんだ。

 生き返った男になおも繰返し繰返し念を押したのち、白衣の救急隊員たちは引きあげた。それと同時に、それまでまわりに集っていた弥次馬もバラバラと離れていった (考えてみれば、救急車の必要がない交通事故なんてのは、見ているほどのこともないにちがいない、なんということだ!)。
 だが、それからいよいよパトカーに乗ってきた警察官の登場となり、双方の運転手からの事情聴取を始めたが、これがなんとも永々しかった。たまりかねた白髪まじりの教授が、ついに車から出て「名刺」を出し、私たちが現代日本における重要な英雄の一団、つまり建築家・都市工学者のチームであって、いまや日本の未来のために重要な大会議に急ぐ途中であることを説明したが、どうもかえって若々しい警官の反発をかったらしく、うまくいかなかった。
 ――おい、歩こう!
  と、彼は車の中をのぞいて、憤然として私たちにどなった。
 ――しかし先生、雨です。
 と、私は必死になって言った。
 ――もう、すぐそこだ。それに君はカサがあるじゃないか。
 それはそうなんだが、しかし先生、あなたにかさないわけにはいかないではないですか。
 ――行こう、行こう。
 と、みんなが車をおりた。会議への使命感からというより、明らかに警察権力への面あてという感じで...。私もスゴスゴとおりた。雨はかなり降っていた。私はカサを素早く開いた。そして、もちろん教授にさしかけながら、文字通り身を縮めて、なんとかカサのかげに全身が入っているかの如く見せようと努力したものだ。

 私たちが、雨水のたまった車道のふちを爪先立ってピョンとはねて歩道に上った時、突然例の男が警官の前を離れてこちらへかけてきた。私は一瞬カサのことも忘れてたちどまった。シィーッ! 誰にも言ってはいけないのだよ!
 男は、賢明にもすぐ事情を察知して、私のそばまでくると低い声で囁いた。
 ――もう死んだと思っていました。
 ――いいのですよ。
 ――もう一度、是非お会いしたいのです。
 ――私はいそがしいのです。
 ――一目見た時、分りました。あなたこそ私の求めていた方だ。お話したいことがあります。大事な大事なこと、あなた以外には話せないことです。
 こうまで言われては逃げる方法はもうなかった。断ったらこの男は、うっかりすると私の秘密をバラすかも知れないのだ。私の頭のなかに一瞬暗い後悔がよぎった。この中肉中背の、これといった特徴もない平凡なサラリーマン風の男...しかしこの男こそユダのように私を売るかも知れない。いや、ひょっとすると、このすべては罠だったのかも知れない。「人間らしく」振舞うことにあまりにも気をとられた私が、うかうかとはまった悪魔の罠だ。
 ――よろしい、あとで電話しましょう。
 と、私は低い声で言った。彼はニコニコして名刺を私に渡し、それから私の顔を見て、ぬれますよ、と私をからかった。

 6
 たとえば「疲れる」ということはどういうことなのか、私は時々えらく考えこんでしまうことがあるのだ。「眠い」ということなのか「パッとしない」ことなのか、それともどこかの筋肉が痛むのか...。私は、改めていうまでもなく、人間というものを誰よりもよく知る必要がある。そして恐らくは確実にそのために、私は「人間らしく」キチンと眠くなりダルくなり、またあちこち痛んだりパッとしない気分になったりもする。ただ困るのは、時々、どうにも理解できない人間的事実というか「言葉」にぶつかるということだ。雨に「ぬれる」というのもその一つだが、「疲れる」という言葉もそれだ。「疲れる」とはどういう意味なのか、どういう事実なのか...。考えれば考えるほど分らなくなる。
 もちろん私は、これは一種のデリカシー過剰のようなもの、平たく言えば私における一種のノイローゼ (ああ、この私にノイローゼがあるとすればだ) ではないかと何度か反省してみた。つまり、(まあ、こんな考え方ができることが、すなわちノイローゼなんかではない証拠であろうが)、すべての人間の言葉というものは、それを見つめ過ぎると意味を失うような性格を持つらしい。動機・原因のいかんに拘らず、たとえまったくの偶然からであっても、一つの言葉を見つめ過ぎるとその言葉が分らなくなる。そして、言葉が分らなくなるということは、要するにその言葉をめぐる「人間らしい」すべてが分らなくなるということだ。だから私にとって、「人間らしく」振舞うということは、常に「言葉」をあまり見つめ過ぎないようにする努力を意味する。見つめ過ぎてはいけない、考え過ぎてはいけない。これが「人間らしく」振舞うための一種のコツだ、というのが私の結論だ。

 ところで私は、私がどうやらその「疲れる」という言葉が人間に意味するらしい状態になってきたことを推察した。何しろ、事故現場からホテルまで、結局私たちは雨の中を早足で十分も歩かなければならなかった。そして遅刻した会議はもちろん遅れに遅れ、次の会議にもさらに大幅に遅刻し、次も、また次も...。そして私は「疲れ」て御機嫌が悪くなり、「人間らしく」やや皮肉になるという状態を演じてみる機会を持った。
 ――おしゃべりな画家たちについてお考えになったことがおありですか?
 ―― (え?)
 ――モンドリアンは、藝術の形式を決めるのは内面生活でありその力と喜びだと言って、純粋な線と色の構成のテーマを説明しました。マレヴィッチが四角形を選んだのは、人類の意志の最も明白な表現としてだそうですし、デュビュッフェは絵画が絵画でなくなるぎりぎりの限界にあることを望み、ラウシェンバーグはオブジェは絵具とまったく同じものだと言う。もちろん画家がおしゃべりをしてはいけないということはありませんが、考えてみると面白いでしょう? なによりも面白いことは、彼らの作品が彼らのおしゃべりによって実によく、いやむしろ、あまりにもうまく説明されるということにあります。ふと気づくと、彼らの作品が急に、古代エジプト展などにおけるミイラや壺やベッドと同じように、その制作目的・使用方法その他の解説の札をつけた古ぼけた美術品のように見えてくる。国際見本市における新機械といってもいいですが、ね?
 教授がさかんに目くばせをし始めた。お手柔かに、という意味だ。つまり、建築家の楽屋裏をあまりバラさないように、とくに都市工学とは、いわばその「おしゃべりな画家」の「おしゃべり部分」だなどとは絶対に悟られないように、云々...。そして私は、すぐに反省した。チームワークを乱してはいけない。何しろ私はまだこの先何十年も、現代における「男の中の男」、都市工学者として「人間らしく」暮すのだから。私は言った。
 ――画家というのは、実に気楽だとつくづく思うのです。そこへ行くと、私たち建築家の責任は重い。

 移動の途中もずっと雨だった。カサを開いたり閉じたり、ぬれないように、いや、ぬれているように! ああ、私もラクじゃない。
 車の窓からみると、街にはカサがいっぱいだった。黒いカサ黒いカサ、そして時々ヒマワリのような黄色い小さなカサ...。そして私はややシミジミとした気分になった。言うまでもない。私はもはや誰かのカサに入れてもらうことはないのだ。もう誰も、入れたげる、とは言ってはくれない。何故なら私はいつでもカサをさしているだろうから。カサもなしにヒマワリを追いかけることは、もう「その日」までないだろうから。

 ――おい、眠いのか。
 と友人がきいた。
 ――オレは疲れた。神のように孤独だ。
 と私は答えた (私はかなりユーモアのセンスがあるのだ)。みんな笑いだした。
 ――おい。ともう一人の友人が言った。あれはね、コンプレッサーを使えばいいよ。
  ――コンプレッサーだ?
 ――そうだ。ヘリウムを液体にする。そうすれば極端に容積は小さい。
 ――デカイのか?
 ――いや、いろいろあるそうだ。でも、一体何に使うんだ?
 ――それは言えない。神のみぞ知るだ。
 ――なんだ、ケチ!

 そして私は、どうやらあっというまに陽気になった。コンプレッサーとは気がつかなかった。会ったらすぐ話してやろう。あの娘はどんな顔をするだろう。私は鼻唄を歌いだした。私はまあどう見てももともと陽気なタチなのだ。それに何も、常に深刻で厳粛なばかりが私たちのとりえではない。そう思うのはむしろ人間たちの固定観念だ、というのが私の見解なのだ。何故かと言われても困る。この私を見れば分る、といっても今の私は既にお分りのように多分に私そのものではないし、ではいつ私がきちんと人間をやめて私そのものになるかは、まだ言えないのだから。

 7
 私は一時間も遅れてデートに駆けつけた。夕暮れの人の群れと、無数のカサの波をかきわけるようにしながら汗をかいて。もちろん私は、ほかならぬこの私が、このようないそがしいさ中にまで (シュッとやってカサの上をとんだりせずに) このように「人間らしく」振舞うことが、やや滑稽であることは知っている。でもね、そうすることがすごく嬉しい時もあるのだ。こうして、人の群れを、カサの波を、もどかしくかきわけながらデートに駆けつけるということ、そのいらだちと焦りに或るやさしい満足を感じる時が。分るだろうか。

 白い水玉模様のスカーフが揺れ、娘が立上がった。
 ――忘れたのかと思ってたの。ああよかった。

 私たちは雨の中を散歩した。私のカサの中にいっしょに入って、肩を寄せあって (彼女はカサを持っていなかったのだ)。
 ――お仕事おいそがしいのね?
 ――とってもね。
 ――絵をかいて待ってたの。
 ――なんの絵?
 ――風船。あなたの風船の絵。とっても可愛いの。
 ――あれはほんとにうまく行きそうですよ。コンプレッサーを使うんだ。
 ――一つ一つがね、サクラの花びらのような形をした風船にしない?
 ――花びらだって?
 ――そしてその花びらをマアルク花のように沢山集めるの。それでヨットの帆みたいに、行きたい方向に合せて、花びらを動かして閉じたり開いたりして、風をはらんでとぶの。地面におりてきた時は、小さくたたんで車にしてしまうんでしょ? その形もかいたの。海の上ではお船でしょ? それもかいたの。お子様ランチみたいに日の丸もたてたわ。見たい?
 私たちは、明るいお菓子屋の店先にたちどまった。娘は小さな赤い手帖をとりだした。無数の絵がかかれていた。私が話した夢、私たちがいつも話している大好きな風船の夢だ...。
 ――うちに帰ったら色をぬるわ。
 ――どんな色でもいいですよ。材料は半透明のビニールだから、まん中の部屋にポッと明かをともすと、全体がポーッと柔かく光るのです。赤でも緑でも紫でも黄色でも、どんな色にでも。
 ――どこへでも行けるのね。
 ――そうですよ。
 ――おなかすいちゃった。

 私は、次のパネル・ディスカッションに遅刻する覚悟を決めて、娘と食事した。娘は、その細いからだに似合わず実によく食べるのだ。モデルという彼女の職業は大変らしい。彼女はとても頭が悪いので、あまり口をきかないようにと母親にいつも言われているのだ。口をきくのはお嫁に行ってからにしなさい。それまでは、黙ってただ相手の顔をじっと見つめるだけにするのよ。しゃべるとお嫁に行けませんよ。そして、だまされないようにいつもネズミのように気をつけていなさい。風船を持って歩いたりしたらいけませんよ。そしてあまり食べても...。
 指摘されるまでもなく、私はまたシュッとやって、彼女の頭をなんとかしてやることはできた。だが、私はあれこれ考えた末やめたのだ。何故なら、彼女はこのままで十分美しいから、私はこのままの彼女が大好きだから、そして恐らくは何よりも、このままの彼女とならいつまでも風船の話ができるからだ。私が、このほかならぬ私が、風船の話などをするのだよ。そしてそれは簡単に言えば、つまり私のささやかなエゴイズムなのだ。私を信じない人間は救わない、などという巨大なエゴイズムを抑えに抑えているこの私の、ささやかなささやかなエゴイズムなのだ。
 ――風船を買いましょうか?
 ――いけない、笑われるわ。
 ――ぼくも欲しいんですよ。
 ――ほんと?

 私たちは一つずつ風船を持って、まだ少し前の中を散歩した。彼女は声もでないほど嬉しくなって、息をはずませて歩いた。私もだ。
 ――あら、あなた、それじゃぬれるわ。
 ――え?
 と、私はとたんに自分が、全然カサの下に入っていないことに気がついた。しまった。でも、私は微笑んだ。シューッ。
 ――ぼくは、ぬれないんですよ。ほら、見てごらん。
 ――あら、ほんと。じゃ、私も平気だ。
 私がどんなに柔かな楽しい気持になったかお分りいただけようか。
 私は彼女を地下鉄の入口まで送っていき、そこで一緒に一、二、三で風船を手離した。風船は素早く雨の夜空に消えていった。それでは、また次の土曜日に...。

 私は、まだ風船のヒモを持っているようなかっこうをした指先を頬にあてて帰っていく彼女のうしろ姿を、いつまでも見送った。もし私が、こんなにも巨大な秘密を持たぬただの男だったら、ほんとうに全力をあげて私たちの風船のために頑張るかも知れないな。一つ一つが花びらのかっこうをした風船を無数に集めて、そのまん中に色とりどりの明りのつく柔かな部屋を作って、空を山を海をどこまでもどこまでも行く。安全のためにヘリウムをつめ、ヘリウムは高価だから、空から降りる時は風船から抜いても外には放出しないで、コンプレッサーで液体にしてしまいこむ。いかにも人間らしい夢、人間が人間であることに疲れた時に夢見るようなちっぽけでささやかな夢...。そして私は、つくづく人間を愛しているなと思った、ほんとうにしみじみと、雨の中で、雨にぬれずに...。

 8
 ――またお会いできた。
 ― (え?)
 見ると。例の私が生き返らせた男が、青いカローラをぴったりと歩道に寄せて、助手席側の窓から顔を出して私を見ていた。
 ――あとをつけていたのか?
 ――いいえ、とんでもありません。
 ――あとで、私の方から電話をすると言ったではないか。言ったでしょう? (この言い直しは、私が思わず知らずこの男に対して、旧態依然たるもったいぶった権威主義で臨んでいることに急に気づいて、あわててとりつくろったというわけなのだ)。
 ――信じてください。本当に偶然なのです。そうだ、強烈な偶然、驚くべき偶然です。
 彼はそう言うと、突然にゲラゲラ笑い出した。それは、ほかならぬこの私を前にしてやや不謹慎な態度に思われたが、しかしまあ、この男は考えてみれば、彼自身信じきれぬような目にあった、そして今もなおそうなのだから、情状酌量の余地はあるわけだ。
 ――まだお疑いなら、車の前を見てください。ヘッドライトもフェンダーもすっかり直っているでしょう? そっくりとりかえのです。それでも、午後中ずっとかかりました。
 なるほど、その通りだった。しかし、それにしてもこの男は、たった今の私、風船などを持っていた私を見たのではないか? 私は男をじっと見つめた。確かに私は、旧態依然たる権威主義をもって人々に臨む気はない。もちろん私は、いずれその日が来た時には、なんらかの犯し難い権威をもって臨まねばならぬのは当然だが、しかしそれもいわゆる伝統的な <私たちらしい> (編注: <>部傍点) 権威ではいけないことは予測している。そんなものは要するに滑稽だからだ。誰よりも私自身がテレてしまうではないか。それに前にも述べたが、私とて世の中の動きには従わねばならない。ナンセーンスとゲバられるような古めかしい権威などで、私自身を誤解させツマズかせるようなヘマは避けなければならない、ね? しかし、それにしても風船はまずい。権威主義を避けるあまり、あなどられることになってはいけない。風船などという、チャチな、あまりにも人間らしいちっぽけな夢は、これはいけないよ。
 ――お乗りになりませんか。あなたに是非打明けてお話したいことが、山ほどあるのです。
 ――私は、これからまだ会議があります。
 ――では、お送りさせてください。終るまで待ちます。
 ――会議のあとでしなければならないことがあります。
 ――そのあとでいいのです。
 そして彼は私を見つめ、からかうというよりどちらかといえば脅迫するように、ぬれますよ、と言って笑った。私はやむをえず車に乗り込んだ。

 ――ほんとうに死んだかと思いました。
 ――そう何度も言う必要はありません。
 ――ああ。しかし、まあ、驚きました。どういうか、つまり出来事の方で私をつかまえるなんて。
 男は、ハンドルを握って陽気に車を走らせながら、クックといかにも愉快そうに笑った。変な奴だが、なんとなく陽気で愉快なところはめっけものだ、と私は考えた。何故なら、私は確かにこの男の生命の恩人という立場ではあるが、考えてみればやはりかなり不用意に秘密をもらしたという一種の弱味を握られていることに変りはないわけだ。従って、この男が陰険ないやな裏切りやろうだったら、私は不本意ながらまたシュッとやって、やくざ映画のテクニカルタームで言えば「口を塞ぐ」ような真似をせざるを得ない状況に追いこまれる危険もなしとは言えない。いや待て。陽気で愉快だということはかえって危いかな。はしゃいでみんなについしゃべってまわったりする...、もっとも誰も信じはしないだろうが (そこがまあ、とにかく私の最大の強味なのだから、ね?)
 ――ねえ、気がつきませんか?
 と、彼はニコニコして私をチラッと見た。
 ――え?
 ――私はね、どういうのかなあ、つまり、一種の幸福をまきちらす男をやっているのです。出来事の配達人と自分ではひそかに呼んでいるのですがね。
 ――...?
 ――たとえば、一番カワイゲあるやつで言いますとね、この車なんです。ブルーのカローラ。うしろのシートを見てごらんなさい。
 見ると、花模様のシートカバーの上に、ジュラルミン製のデカいトランクが三つ積んであった。
 ――三億円強盗犯人と同じでしょう? もう、一年もこうやって走っているのです。今でもかなりの人が、アッと言って眺めますよ。そこで私は、わざとあわててサッと逃げてやる。サービスです。御苦労さま。もちろん週末だけですがね。私は何しろ、最も有能で勤勉で、将来の日本を背負って立つエリート中のエリートなのです。そこで土曜日の十二時までは役所で誰よりも奮戦する。まるで働く機械です。でも十二時過ぎれば、こっちのものだ。
 ――シンデレラみたいに逃げるのですか。
 ――ええ。そしてついあわてて車をぶつけた。あれもサービスと言いたいところですがね。
 私は、まじまじと男を眺めた。
 ――でもまあ、このカローラなんてのは、言うまでもなく、ほんの通りすがりのサービスなのです。問題はトランクの中です。三億円どころじゃない。この中には、言わば幸福の手がかりがギッシリ詰っています。私と出会うということが、誰にとっても確実に出来事となるように、ですね。これは大変に難しい。かなり骨が折れる仕事です。何しろ、出来事は世につれ世は出来事につれ、というわけで、絶えず緊張していなければなりませんからね。
 ――なるほど。
 ――しかし、なんといっても一番難しいのは、誰に配達するかということです。つまり、私と出会うというこの素晴しい出来事を誰に配達するか...。これが難しい。何しろ私には時間がありませんからね。そこでどうしたと思いますか? 私は要するに運命論者になったのですよ。まあ、やさしく言えば、行き当りばったりですね。もちろん、時々すごく心が痛みます。みんなにサービスできないのはすごくつらいことです。でもまあやむを得ません。ですから、今日みたいな出会い方、それも二度も出会うなんていう驚くべき偶然に会うと、私は大変ほっとするのです。ほんとに私の心がどんなに晴れやかに快活に踊っているか、分っていただきたいなあ!
 彼は、それからまたクスクスと笑い出した。
 ――こう言う注釈をつけること自体が、あなたへの侮辱、そして私自身の男を見る目のあやまりを意味するのじゃないかと心配ですが、私はね、ああ、まったく愉快なことに、大変正常な男だということを一応確認させてください。まあ、この場合リトマス試験紙がないのが玉にキズですが、要するに、お分りのように、私はこうしてヌケヌケと誤解を招くような言動をやるほどわが身の正常さについての自信に溢れている、といったわけですね。平気で、しかも苦労して、こうやって人々にささやかな幸福をバラまこうなどと思うほど、まあ要するに驚くべき正常な人間らしさを持っているわけです。ただし週末だけですが、これはやむをえない。
 私の頭に、この時初めて、それまで思いもかけなかった或る疑いがヒラメいた。別に、彼の態度が次第にあまりにもナレナレしくなってきたから、ということだけではなくてだ。
 ――でも、あなたのような人だと、ほんとうに嬉しいものですよ。もちろん、相手の程度によって差別することはいけませんが、正直に言って、やはり優秀な人と出会う方が張合いがある。ところが、まったく、呆れるほど少いのですよ。大ていの場合は、さして汗かく必要もない。たとえば、私のかの輝かしいジュラルミン製トランクの中のレパートリーで言うと、アレクサンダーなんてのであっさりすんでしまう。
 ――え?
 ――これがね、まあ、ズッコケないできいてくださいよ。アレクサンダーといってもカクテルじゃなく大王の方なんだ。要するに、どう言うのかな、まあ誰でもいいわけだが、アレクサンダーなら安全パイという種類のことですね。つまり、五十歳のシーザーが、涙流してボヤいたわけだ。アレクサンダーは三十三歳で世界を征服したのに、オレは、五十歳でまだローマの主人にもなれない。そしてパスカルいわく、いまさら改めて嘆く器でもあるまい (アハハ)。そして以下、カゴに乗る人かつぐ人、そのまたワラジを作る人...ね? そこで、たとえばアレクサンダーで免疫を作れば、かなりの範囲まできく。つまり、デッカイことはいいことだで、絶望するにしろアキラメルにしろ、いっそデカく、アレクサンダーを相手にやれってことですね。最も簡単な形で言えば、年表を確認すればいい。十六歳で初陣、二十歳で王位につきヘラス同盟盟主となり、二十二歳の春まだ浅き頃、全ヘラスの王として東方遠征に出発、騎兵五千に歩兵三万を率い、糧食はわずか三十日分。イッソスの戦いでは六十万の敵軍を撃破し、アルベラの戦いではなんと敵軍は百万人...。まあ、あなたにこんなことを言ってもしょうがないことでした、ね? そしてまあ、結局のところ私は、みんなを素直に絶望させたりアキラメさせたりしてあげる。肩の荷をおろしてホッとさせてあげるわけです。そしてみんなに、アレクサンダー大王はいいな、なんて素直に、でも心から悲しんで呟かせてあげれば、それでいい、私の配達は完了ってことになる。星のように小さなささやかな幸福が、また一つキラリと光るんです。
 ――主の道を直くせよってわけですね。
 ――え? それはすごい。
 ――しかし私は、やはり確かめることにした。
 ――車がぶつかった時、あなたは死んだと思ったのですか?
 ――え? そうなのですよ。よく言うでしょう? その一瞬、走馬灯のように無限の思いがひらめくなんて。私もそうでした。自分のだけでなく、それこそアレクサンダーの生涯まで全部ね。その全征服の行程一万一千二百五十マイル、所要時間八年六ヶ月がですよ。七十タラントンのもとでで、二十万タラントンは分捕った。十二億金マルク、約一千二百億円の財宝だ。ああ、マルクは切上げたんでしたっけね。
 ――そして、その瞬間、神もホトケもないもんだ、と思ったわけですか?
 ――え? そりゃそうです。でも、どっこい、カスリ傷一つしなかった。
 ――どうしてだと思います?
 ――運がいいんですね。それに、何しろこうやって、せっせと人のために幸福をバラまいて汗かいているんですから。
 ――神様は生きていて、ちゃんと御存知だってわけですね。
 ――アハハ、まあ、そんなところでしょう。
 私は思わず笑い出した。あーあ、確かに私は早合点でそそっかしい欠点があるとは知っていたが、これはひどい。この男は何も気づいてなどいなかったのだ。私は、要するにこの私の影に、この私の巨大な秘密の影に自分でおびえてオタオタしていたというわけなのだ。

 ディスカッションの会場であるホテルの前で、私は慎重にカサをさして車から下りた。そして、極めて礼儀正しく (もちろんだ、もはや、ね?) しかし快活にお礼を申し述べた。
 ――車でお待ちしてますからね。
 と、彼はなおも言った。
 ――いいえ、おひきとりください。
 ――しかし、ねえ、あなた、正直に答えてください。あなたは私の話、少くともこの私に、かなりの興味を持たれたはずだ、そうでしょう?
 ――あなたを傷つける気持ちはまったくありませんが、正直に言って、お話をきいて最初抱いていた極めて私風というか、私独特の興味は消えてしまいました。
 ――どういうことですか?
 ――さあ、(と私はやや得意で、余裕しゃくしゃくシュッてわけだ) 私は、ほら、カサをちょっとどけてもぬれないでしょう?
 ――じゃあ、こう言えばまた興味がわくでしょう。私が、あれこれ言って、かくもつきまとうのは、実は私が最初、あなたの目の中に深い苦悩と孤独とそして悲しみの涙を見たからだ、と...。
 ――時間に遅れているので、失礼します。
 ――とにかく私は待っていますからね。
 ――ゴドーを待ちつつ、ってわけですか?
 私はそう言うと、あまりにもハシタナク笑い転げそうな気がして、大急ぎでホテルの方へ、それこそ「ぬれない」のもかまわず駆けこんだ。

 9
 何しろ、都市工学者を中心とした建築家ばかりの会合だったので、大変な活気だった。お酒も出ていたこともあるが、まさに現代の半神たちの怪気炎が渦巻いていたわけだ。そして遅刻の罰に私も早速やらされた。もちろん、尻込みなどする私ではない。建築家とは、何しろほかならぬこの私が、現代において最も神に近い日常的存在形態として選んだものなのだ。従ってその権威を高める機会を大いに利用することは (たとえ仲間ぼめでも)、すなわち私の「茨の道」をいくらかでも居心地よく柔げることになるわけだ、ね?
 ――その都市に入ると、すべての曲線や直線が、形が、色が、その集り方、空間のとり方が、女を感じさせるような都市、或いは男を感じさせるような都市を創るのはどうでしょう。つまり明らかなセックスを持っている都市ですね。何故なら、現代の文明はすべて中性化しつつあります。いち早く独り立ちした自然科学については改めて言うまでもないと思います。自然科学は、たとえば私の友人の物理学者どもが信じているような (というのはカムフラージュで、私はもちろん知っているわけだ)、この宇宙は最終的には光子によってできていて、光子の存在と光子の不存在、つまり平たく言えば光と闇の無限の組合せからできあがっているということが明らかになるまで、中性化の一途をたどるでありましょう。また人文科学においても、まず法律が、そして政治学も経済学も、国家の中性化を実現するために自ら中性化しました。哲学・歴史学・心理学・社会学、いずれをとっても、学問的発達は中性化へと傾斜しているわけです。ここで中性化とは、論理性・合理性・首尾一貫性といったことであって、普遍的人類、平均的人間、抽象化された状況、最大公約数的モデルといったイメージへのなだれこみのことであり、夢や冒険を、その領域を狭めるという形でのみとらえようとする清掃業者のごとき良心の持ち方のことであります。...云々。(そして、もちろん、なんだかんだと言ったあげく、例のいまや建築家の責任は重いと強調し、乾杯だ)。

 しかし、いくら私にとって頼もしい会合ではあっても、永引かれては困ったわけだ。何故なら、あまり夜がふけては、せっかく私が「人間を休業」するウィークエンドの楽しみの、それこそ「領域」が狭くなる。自信満々の都市工学者であることも含めて、「人間らしく」振舞うことから休息する時間が、どんどん奪われてしまう。せっかくの日曜日を「お仕事」にとられた上、せめてもの楽しみであるこの土曜の夜の、それも雨の中での数時間さえ奪われては頭にくるではないか。
 そしてこういう時に、私はつい、ほかならぬこの私の不幸、などということさえ頭にうかべてしまったりするのだ。二十世紀などというとんでもない時期にまぎれこんだおかげで、仲間たちのような三十代でのデビューなど思いもよらず、六十・七十でやっとタツことなどさえ予想して、なんと結局はバレないようにバレないようにとオズオズ「人間らしく」振舞い続ける、こんな馬鹿げたことが一体あるのだろうか! こんなことを続けていて、欲求不満でも累積したら (ああ、私の欲求不満なのだ) どうなることか。私はほんとうに時々人類のために不安になるほどなのだ。
 それにね、私は、もともと大したことを要求してなどいないのだよ。たとえば、日曜日を一日「人間であること」から解放されて私が一体何をやるかというと、これがまあ、転んだ子供のすりむき傷をシュッと直したり、落し物をシュッと元へ戻してやったり、季節はずれの花をシュッと咲かせたり、風の向きをシュッと変えたり、まあ、われながらホロリとするようなささやかなシュなのだ。つまり、つくづく思うことだが、いつの間にか私は、安息日にまで、無意識にバレないようにという思いをひそかに抱き続け、オズオズとつつましやかに息をひそめて暮らしているのだ。

 会合が終るや否や、私は、もうそのとたんから手抜きして、挨拶もソコソコにまっさきに会場をとびだした。さあ、どこへ行って、何をしよう。土曜日といっても雨だから、早く行かないと、少なくとも人間たちの中にうまくまぎれこむという形での休息はとれなくなってしまう。前にも言ったが、土曜の夜を「人間らしく」過しているつもりの人々は、まあ実に支離滅裂で「人間ばなれ」しているので、その中にまぎれこむのはかなり気楽な「人間休業」のための手なのだ。なかでも自分を神様だと思っている前衛藝術家たちのグループなどにまぎこれむのは、私が大好きな実にホッとする気晴しだ。それから自分を女神だと思っている見知らぬ美女とも案外すごしやすいもんだ...。
 だが、そう思ったとたんに、ロビーの椅子から立上った淡いグレーのミニドレスの素敵な美人が、シャム猫のようにしなやかに身を寄せて私をとっつかまえた。驚いたことには、これが私の婚約者というわけなのだ。
 ――あなた、夕方からどこ行ってたのよ。
 ――食事だ。
 ――どうして、一人だけ別だったの?
 ――時には、ひとりで孤独な食事もしたくなるではないか。
 ――へえ...。あした、調査でいなくなるんですって?
 ――うん。
 ――何故教えてくれなかったの?
 ――いそがしかったんだよ。
 ――あなたがいそがしくても、あたしはひまだってこと、お分りでしょ。
 ――きみがひまでも、オレはいそがしいんだよ。
 ――せめて、今夜はつきあってくれるんでしょうね。
 ――え?
 ――さ、行きましょう。設計図また書いたのよ。ね?
 私は、婚約者に腕をとられてロビーを横切りながら、私の「解放」への要求がだらしなくもぐらつくのを感じた。私の婚約者というのは、ほかならぬ私の子孫を伝えるべき人類にとって大事な女性だから、もちろん頭もいいしなかなかのものなのだが、どうやらちょっと色情狂のようなところがあるのだ。そしてそれも、「婚約者」らしく (?) キスしたがるなどというのでなく、えらく爽やかに私と寝ることばかり考えているのだ。そして白状すると、この点でも私は、大いに「人間らしく」振舞うことにおいてやぶさかでない、といったところがある。つまり、彼女は今さかんに私たちの新居の設計を考えていて、その設計図をしょっ中変えて、そのたびに必ず私とベッドの中で検討するくせがあるのだが、するとこの私は、彼女に設計図を書いたと囁かれると、ついいかなる時にも人間に戻ってしまう、というか人間のまま留ってしまう傾きが前からあるのだ。もちろんこれは、とにかくこれから先数十年を、恐らくは彼女とともに「人間らしく」暮すことになる以上、むしろ喜ぶべき要素なのかもしれない。でも時々、ふっと気がとがめるわけだ。つまり私は、この私があまりにも「人間らしさ」を金科玉条として、それを口実に私自身の使命から逃げまくっているのではないかなどと、ちゃんと自ら疑いを抱いているわけなのだ。

 しかし私は、ホテルの玄関を出たどたん場で抵抗の手段を思いついた。例のアレクサンダーの奴だ。
 ――友達が待っているんだ。
 と私は言い、玄関のわきの車寄せにとまっていた青いカローラに、カサもささずに近づいた。
 ――やあ、お待たせしました。
 ところが彼は、私たち二人を見ると夜目にも明らかに頬を染めて、あわててしまった。
 ――どちらへ。
 ――うちへ。
 と、間髪いれず彼女が澄まして答えた。
 彼女はそして、もうジュラルミンのデカいトランクでいっぱいの感じの狭い後部シートをいいことに、すぐに私の膝の上に乗っかってピッタリとからだを寄せてきた。私は当惑して、なんとか彼女の攻勢を鎮めようと試みたが、やがてあきらめた。どうも私は、この婚約者が苦手なのだ。もしかすると私は、いずれすっかり彼女に降参して、おとなしい模範亭主になるかも知れない (ほかならぬこの私がだ)。そして彼女の期待通りの優秀な建築家として大成する。子供の沢山いる円満な家庭をつくって、とてもほんとうの人間とは思えないほど「人間らしい」生涯を送る。いやはや、もちろんそうなれば人類は滅亡だな...。

 10
 雨はいつの間にかやんだ。
 私は、真夜中過ぎに恋人のうちを出た。門の前に立って見上げると、雨上りの、雲の動きの素早い夜空に、月が目にしみいるような白さで冴えざえと輝いていた。私は、しばらくつったって眺めていたが、やがて考えるのをやめて、たたんだカサをゆっくりふりながら歩きだした。もしこのまま帰って眠ってしまえば、私は次の「ウィークエンド」まで、それこそずっと安息日なしで「人間」を続けなければならないというわけだ。次のウィークエンドまでだよ。私はカサをクルリとまわした。

 ――やっと出てきましたね。
 ――え?
 見ると、高い石塀に沿った暗い影の中に、まぎれもない例のカローラがとまっていて、男が煙草を持った手を窓から出して合図していた。確か、私たちをおろすと、さよなら、と手をふって帰ったはずだったのに。
 ――ずっと待っていたのですか?
 ――そりゃそうです。
 ――何故ですか?
 ――何故って、お分りでしょう? あなたは私に興味がないと言った。それでは帰れない。
 私は笑い出した。
 ――今じゃ、大変興味があります。
 ――それはそうでしょう。あなたが、素敵な恋人と恐らくはベッドで愛し合っている窓の下で、三時間も待ったわけだ。かくも手をつくしている。まあ、とにかく、私が幸福をバラまいていることは、認めてくれますね? 正確に言えば、とにかく私はあなたに、興味ある出来事を配達した。興味ある出来事に出会うということは、それ自体幸福だと思いませんか?
 ――分りました。受領証があればハンコを押してもいいですよ。
 ――ほんとうですか。
 ――ほんとうです。
 ――ではね、受領証の代りに、私のささやかな質問に答えてくださいよ。
 ――いいですよ。
 ――あなたの夢はなんですか?
 ――え?
 男は目をそらし、しかし怖しく真剣な表情でじっと前を見つめて、煙草をふかした。私には、彼の意図が分らなかったが、なんとなくその突然の真剣さに緊張して考えこんだ。私の夢はなんだろう? 夢といってもいろいろある。とくに私の場合には...。そして、(考えてみれば大変うかつだったのだが) やがて私はふと見つけ、そして思わず口に出したのだった。
 ――人間になりたいな。
 ――え?
 ――人間になりたいな。
 ――どういう意味ですか?
 私は、直ちに自分の言った言葉に気づいて茫然とした。どういう意味と言われても困るではないか。
 ――あなたのいう人間という意味が分らない。もしふざけているのならこれで失礼します。
 ――ふざけてなんかいないのですよ。
 と、私はやさしく言った。
 ――では何故そんなことを言うのです?
 私は考えこんだ。そしてやがて決めた。何故って、明日の日曜日は丸つぶれで、今日の夜もついに息が抜けず、そしてこのままずっと来週いっぱい、私は「人間」を休めないのだから。そうだ、私の欲求不満が人類に対してどれほどの危険となるかも考慮しようではないか。私は静かに言った。
 ――もし、私は神だ、と言ったら、信じますか?
 彼は、暗い車の中から、しかし明らかに私を穴のあくほど見つめた。
 ――信じません。と、これだけきり言わないのにどんなに努力してるか分りますかね。
 だが彼は、すぐに、ああそうか、と呟いて笑い出した。
 ――あのね、いいんですよ、あなたがサービスしてくれなくっても。そういう、出来事のお返しはいらないんです。びっくりしちゃうなあ。
 私も笑い出した。まあ、考えてみればいつものことなのだ。人間にとってあまりに巨きすぎる秘密は、言わば秘密にすらならない。
 彼が続けた。
 ――私のは、ほんのチッポケな夢でいいんですよ。どこにでもあるような小さなもので。事情を説明しましょうか? 実はね、私はどうやらバクのように夢を食べちまうタチらしいのですよ。どんな夢でもいいのですが、一つの夢が三日ともたない。すぐしゃぶりつくしてしまうんですね。そこで、夢を狩り集めに出かけることになる。三億円にしてもアレクサンダーにしても、私のサービスはみんな実はそのためなんだ。なんて、この話も実はサービスの一つかも知れませんがね。とにかく、気軽に話して下さいよ、あなたの夢を。小さな小さなものでいいのですから。
 私はなんとなくホッとして空を仰いだ。ほんのちっぽけな夢でいいのだそうだ。この、巨大な秘密に、そして大きな使命にはじけそうに緊張している私の夢などではなく、「人間らしく」振舞うために不器用にオタオタしている私の夢、ちっぽけな「人間」のささやな夢でいいのだ。
 私は微笑みながら言った。
 ――風船の夢なんかはいかがですか?
 彼の目が、たちまち星のように輝いた。
 ――ほんとうに、悲しくなるほどささやかな、つまり恐らくは「人間らしい」夢なのですよ。一つ一つがサクラの花びらのような形をした風船を、まあるく花のように沢山集めて船を作るのです。そのまん中に色とりどりの明りのつく部屋を作って、空を山を海をどこまでもどこまでも行くのです。風船は半透明だから、まん中の部屋にポッと明りをともすと、全体がポーッと柔かく光るのですよ。花びらを閉じたり開いたり動かして、風をはらんでどこへでもとんで行く。お子様ランチよろしく旗なんか立てて、水素では火事の心配があるから、ヘリウムを使うのですが、ヘリウムってのは高いから...。

 男の目の異様な輝きに気づいた時は、私はもう遅かった。キーが回りヘッドライトが急についたかと思った瞬間、彼は、窓際にもたれかかるようにしていた私をふり落すようにして車をスタートさせていた。私は、月明りに一瞬うかびあがったその男の最後の横顔を、声にならぬ叫びと共に見送った。バクというのはどういう顔をしているのだろうか?
 そして、アッという間にカローラの最後の尾灯が視界から消え、私はたった一人、冷たい月光が白く溢れる夜の中に残されていた。
 なんておかしな野郎だろう。
 私はどこか泡立ち騒ぐ心を鎮めようと、つったったまま考えこんだ。言うまでもなく、この私にとって最も大切なもの、この私の巨大な秘密が無事であることは、改めて考えるまでもないほど確かだった。では、何もあわてることはあるまい。彼が私から何か奪っていたとしても、それはたかがちっぽけな風船の話、いかにも人間らしい夢、いや、人間が人間であることに疲れた時に夢見るようなささやかなささやかな夢なのだから。
 私は再びカサをふりながらゆっくりと歩き出した。ほんとに人間てのはうらやましいな。そうだよ、アレクサンダーはほんとにいいな。いくらなんだかんだと言っても、彼だって結局は人間だったのだから...ね?

 でもその時、私はふと、どこからともなくきこえてくるシューッという音に気づいたのだ。シュッ・シュッ...シューッ。なんだろう? 私は思わず立ちどまって耳をすました。シューッ...。あわててはいけない、と私は慎重に自分に言いきかせた。大体私は、もう何度も繰返したけれど、早合点でそそっかしいのだから、ね? あわててはいけない、あわててはいけない。これは、どうしたって私の耳の間違いだ。だって、そもそもそんなことがあるはずがない。第一、私が何者かを考えてみれば、それだけで分るじゃないか、ね? そうして、私はとにかくまたカサをふりながら歩きだしたわけだ。

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