「無駄」との出会い

先日、ボカロ界隈でこのようなツイートが話題になった。

「ボカロ界隈では初投稿からすごいタイプの人が注目されがち」というツイート。

この背景にあるのは、いわゆるZ世代に多く見られる、効率を求めて無駄を省くことに過剰なまでにこだわる傾向だと思う。
恐らく、地道に下積みを重ねて勝利を掴むよりも最初から天才的な作品を送り出した方がカッコよく、それゆえクオリティの低い作品は「無駄」でありダサい、ということなのだろう。

だが、「無駄」を徹底的になくすのは、果たして健全なことだろうか。むしろ、何もかもなくしてしまって虚しい気持ちにはならないのだろうか。

地道に頑張ったボカロPと、初投稿から天才的な才能を発揮するボカロP。両者に上下など存在しないが、少なくとも「無駄」と真剣に向き合った前者を嘲笑するような行為は絶対に辞めるべきだろう。


筆者もZ世代に分類される人間ではあるが、こうした「無駄」を省く傾向には疑問を感じる。
手っ取り早くなりたい自分になる、という心理から効率化を求めるのは理解できるが、エンタメに詳しくありたいがために映画を倍速で視聴したり、漫画のあらすじを短く解説した動画をいくつも見たりするのは、さすがに娯楽本来のあり方とは離れているのではないだろうか。

そもそも娯楽というのは、生産性のないまさに「無駄」であり、そこにあって好きなものを血眼になって探す行為は、「無駄」を省く、つまり娯楽そのものすら排除することにつながるのではないか、と思う。

村上龍の『新13歳のハローワーク』には、「何も好きじゃない」と悩む子に対して、このような記述がある。

「好きなこと」は、見つけるというより、「出会う」ものなのかもしれない。「好きなこと」は、テレビの映像の中や、本の中の言葉や、誰かの言ったことの中に潜んでいて、突然その人を魅了するのかもしれない。
村上龍(2010)『新13歳のハローワーク』幻冬舎

世界は非常に広い。何が自分の感性を刺激するか、わからない。
でも、だからこそ、無駄だと思えることをあえてしてみることで、新たなる発見につながるのではないだろうか。

話は逸れるが、筆者は去年(2022年)の10月から、「プロジェクトセカイ」というゲームに登場するキャラクターすべての誕生日を祝うことを続けている。

推しではないキャラクターに時間を割くなんて行為は、まさしく「無駄」だと自覚している。
しかし、「無駄」なことをあえてやってみることで、新しい発見…この場合はキャラクターの今まで気づかなかった魅力を発見できた。
だから、筆者にとってキャラクターの誕生日祝いは「無駄」が翻って「無駄ではない」と言えるのである。

このように、娯楽を楽しむにあたっては、「これは自分に合わないから無駄」と切り捨てずに、ほんの少しでも興味があれば真剣に向き合ってみる、というのも大切ではないだろうか。

映画の倍速視聴やら楽曲のイントロスキップやらを否定するつもりはない(というか筆者もイントロスキップは時々やってる)が、それが自分にとって本当に楽しいのか?ということを考えてみるのもいいだろう。

もし、「なんだか好きなものも楽しめなくなっちゃったなあ」とモヤモヤするようなことがあったなら、改めて自分が娯楽を求める理由を思い出してみてはいかがだろうか。
今までの娯楽の中で「無駄」を切り捨てるようなことをしていたのならば、モヤモヤの原因はそこにあるのかもしれない。

もちろん映画の倍速視聴などに楽しさを見出せるのであれば問題はない。しかし、そうやって省いてきた「無駄」には、実はあなたの感性を強く刺激する「好き」が隠れているかもしれない。

だからこそ、「無駄」に見えることでも、たまには目を向けてみると面白いと思うのである。

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