エヴァンゲリオンを観終えて

このnoteはネタバレを含みますのでご注意ください。なお、内容は考察はなく、純粋な感想記事となります。












というわけで。

私は途中からエヴァンゲリオンという作品を、碇ゲンドウがどういう結末を選ぶのかという目線でしか見られなくなっていました。失った唯一大切なものを取り戻すため、またそこに紐づく理想的な世界のために、既存の計画を乗っ取り、容赦なく他を廃し、前へ進んでいく男。

「エヴァンゲリオン」という作品を見始めた当初、子供だった自分は、理不尽な社会に叩き込まれる碇シンジに共感していた筈でした。にも関わらず、途中からそんな碇ゲンドウに共感していたのです。これは純粋に、年齢に応じて悩みの性質がシフトしてしまっただけだと思うので、あの作品は純粋に、年齢や、見る人によってどう見えるかがかなり違う作品なのだろうと思っています。

あの作品において碇ゲンドウは、父親越えの物語として、碇シンジにとり、あるいは世界にとり障壁でしかないため、対峙したうえで敗北するか、あるいは共倒れするか道は2つしか存在しなかったと思っています。メタ的に言えば、このふたりが向き合わないままだと話として成立しなくなるので、碇ゲンドウは自分の写し鏡のような存在に絶対に向き合わなければならなくなります。これは、どれほどつらいことなのでしょうか。

自分の存在を承認してくれた唯一の存在がこの世界から消える。世界との接点そのものがなくなる。もう二度と会うことはできない。目の前には再会を可能にする一縷の望みがある。元々唯一の存在以外には一切の興味はなく唯一の存在以外はどうだっていい。他人と一緒にいたくなかった。ひとりの時間が好きだった。本は他人を介在させずに得るものがあるから好きだった。音楽もまた。とすれば彼に迷う道理も義理もないですし、彼は世界に背を向けたまま前に進み続けることになるのも道理だと思います。

だからこそ私は、碇ゲンドウの結末がああもあっさりであったことに悔しさを感じます。これまで為してきたことを思えば許されることはないにせよ、せめてイマジナリの中でユイと共に安らかであって欲しかった。しかしそれは叶わず、ユイはずっとエヴァの中でシンジと共にいて、そして母となったミサトにも想定外の追撃を受けてしまう。

ずっと遠ざけていた存在の中に自分が必要としていたものがあった。でも、気付いた頃にはもうすべてが手遅れで。あの瞬間、下車したゲンドウはどこへ行ってしまったのでしょうか。彼は何を下車したのでしょうか。

世界と自分との境界を本と音で断絶した男は、世界との接点を持ったものの、結局はそれを失い、律する力と共にそれらを再び取り戻しかけたのに、世界の側にいる人間の繋がりや思いに敗北する形になる。であれば、ああいったタイプの人間はどうすれば救われるのでしょうか。

その答えが、本来であれば鏡写しの存在になる碇シンジの行動なんだと思うのですが、彼に好意を抱くように設計された存在のおかげで、彼が腹を括れて、前に進むことができたとするなら、彼を受け入れてくれる存在がいたから立ち直ることができたのだとしたら、そうではない人間はどこへ行けばいいのでしょうか。

冬月は綾波タイプの死亡を碇ユイの死と重ねて「同じ経験をさせた」と言っていますが、僕はあれは「同じ経験」ではないと思っています。「喪失」という結果そのものは同じでも、過程が違った。歯車の歪みが整って、徐々に走り出せるようになっていく。

結局は、そういう存在に出会えることを祈るしかないということなのか。運の世界なのか。

腹を括ること、向き合うことの大事さの部分でその点を補強しているんだと思ってはいるんです。そのこと自体は本当にそうで、自分の感情を信じて、自分でそれを行うと決めて、決めたことの責任を負う覚悟をもって、実直に、後悔がないように望む。そのことは本当に大事で。

それもやっぱり、苦しいなと思いました。なぜかって、それは、誰もがあんなに、責任感を持っていて、自分の仕事に実直で、他人に気を配れて、優しくて、気遣ってくれたりしないからです。もっと無責任で、もっと残酷な人の方が、寧ろ多いんじゃないかと思うからです。

人を陥れて、卑下た薄笑いを浮かべる人間も、全力で体重を預けて何もしない人間も、ただ憂さ晴らしだけのために当たり散らしてくる人間もいる。そういう人に何度も使い潰されてきたから、余計にそう思ってしまう。

全編通して優しい映画だったと思っています。登場するキャラクターがみんな優しかった。特にトウジとケンスケの接し方は本当に良くて、個人的にはケンスケが過干渉を避けた点がめちゃくちゃポイントが高かったです。

そんなわけで、本当にただの感想でした。面白いものでもないので気が向いたら消しちゃうかもしれないですが、ひとまず。