もっと美しいもの

 姉さん。僕はたばこをやめました。もともと、全然必要ではなかったんだ。ただただ、悪く格好つけたかったんだな。やめても、何も変わらない。これで、多少は健康になって、じき姉さん家に遊びにいけるだろうか。静子は、もう二歳か。もう僕のこと覚えてないだろうな。実のところ、僕も顔をよく覚えていない。悪いな。
 ここ数年、入れ替わり立ち替わり僕のところに人が訪れては、去り、僕も、さまざま顔を覚えては、忘れ、そういう調子で、まったく、不安定なのです。
 姉さん、人は、ひとりでなくなれるのだろうか。この世は、僕にはとても耐えられんよ。誰かと出会っては、焼かれ、別れては、蒸され、よくよく考えたら、安定も、安心も、僕の中にはありゃしねえんだ。僕が安定安心だと思っていたものは、安定安心への予感と期待。それらは本当に手の内に収められそうになったときに、決まって崩れる。最初っからなかったみたいに。虹は掴めねえな。集団幻覚だろ、恋も、愛も、資本主義も、日本国も、全部、僕らのそうであってほしいという期待だけでできあがった蜃気楼なんだ。この世は、ばかばかしい。
 母さんがいるうち、僕は死ねないんだ。母さんは、母さんだけは裏切れない。母さんにだけは、地獄のようなこの世で、救われてほしい。そのためには、僕自身が、母さんの期待する通りに、母さんの生きる限りに、生きなくてはならねえんだ。
 毎日、酒、酒、酒、酒、酒、酒、酒、貧乏ゆすりに、鼻をすする音、僕の生きる道とは、一体なんだ。本は全部棄てた。僕には、もう読めない。僕の部屋?腐臭と、空き瓶と、僕のみ。
 クソ、えいクソ、なんだってまた、姉さんに手紙なんて書いて、めまいがする。目がぐるぐる回っている。ああクソ、星!

 つまるところ、僕はすてられたのです。一世一代の大恋愛の果てに、その人はたち消えて、もういない。僕が悪いんです。気がちがってね、帰り道に川辺で、一緒に飛び込もうなんて言って、イヤよなんていうから、遮二無二口づけをして、僕はいずれ死ぬ、君もいずれ死ぬ、今じゃだめなのか、一緒に生きていくこと、一緒に死ぬこと、どちらが尊いんだと、囁いて、ライターでその娘の髪に火をつけようとして、いよいよひっぱたかれて、さよならと言われて、それきりなのです。
 もう、終わりです。僕は、死なないけれど、消えます。母さんにだけは、手紙を出し続ける。姉さん、僕は愚かです。しかし、いまの社会で普通に息をして、普通に暮らしている人々は、愚かじゃないのか。姉さん、心の中で、世に問うてください。僕が過ちを犯したのか、僕の過ちが糾されるのか、あるいは、あんたたちの共同体が、なにもかも歪んで嘘で集団幻覚なのか。ああ、それでもなお、そうだとしても、美しいじゃないですか!人間は美しい、感情は美しい、これは、本当だ。僕も等しく、美しく、ただ僕は、真っ黒な恒星なのです。
 姉さん、さようなら!

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