イワンのばか

 表題の小説、トルストイの、は、読んだことがない。ただ、それをつぶやいてみたい気分だったのだ。
 話では、ばかのイワンは、純朴で、キリストの教えの実践者で、つまり見返りを求めず人のために尽くす男で、話の最後ではあくまとの戦いに勝つ、らしい。
 私は、イワンにはなれない。私は、ばかというより、馬鹿で、自分の一挙手一投足を意識してかっこうよく魅せようとして、ずっこけるたちである。ばかを、かっこうつけて莫迦と書こうとして、どこかを間違えて書いてしまうたちである。
 この馬鹿のたちのおかげで、私がこれまでどれだけの失態をおかしてきたか、それは思い出したくないことだ。人生の暗部である。そういうふうに、何度も何度も、自分の人生に泥をぬって、それでもこの癖をどうにもできていないのだから、いよいよ、お前なんか死んでしまえばいいんだよと自分に唾を吐きつけて、ぐしゃぐしゃに丸めて、宇宙のごみにしてしまいたい。
 私は、どうしよう。私は、自分の人生の歩み方が、てんでわからない。意地が悪くて、いやらしくて、おおげさで、げびていて、だめで、だめで、とってもだめで、そういう人間を、どうやって動かせばいいのかわからない。
 私は、精神病ではないが、なにをどうしても、こうやって、自分を卑下して、他人の同情を乞おうとしてしまうのだけは、病気のように思えてならない。こういう文章を、もう何回書いたか。飽きることを知らないのだ。治し方を教えてくださいな。
 こういう夜は、もう徹底的に、地獄の底を這っている気分で、そして救いの糸など、ここには届かない。
 私は、私を馬鹿だと思うし、私には人から評価や愛を頂戴したり、まして私からそれを与えるような権利はないと思う。が、私は一体なにをしたのだ。私は、一体、私は、ほんとうに、生まれてから、わるくなろうと思ったことはないし、独創的であろうとしたことはあったかもしれないが、人を出し抜いたり、騙したり、こけにしたり、笑いものにしたり、そういうことばかりの人生だったわけではない。
 ではなぜ、私は、いま自分を悪魔みたいに書き綴って、こきおろして、殺そうとしているのだ。本当の敵は、私の中にいるのか。私の人生に私以外が登場せず、いつだって、私、私、私、私、私、と、自分のことばかりを気にして、体裁を気にして、あえて体裁を崩したりして、そして人から見放されてきたのは、やはり私が、わるい人間だからなのだろうか。
 私の人生のあるときから、罰がはじまっている。私の望むものの全てから遠ざけられ、からかわれ、あそばれている、そういう妄想をして、幻覚をみて、最後死んでしまうまでの、長い長い、苦しい罰が、いつからかはじまっている。
 私はかなしい。私はむなしい。私はさびしい。私はせつない。私はくるう。私はおかしい。私は、ああ、馬鹿。馬鹿。馬鹿なのだ。それだけのこと。
 私は、そういう罪を犯したのだね。
 この世界に閉じ込められた囚人たる私は、天使様がラッパを吹きにきて、終末がやってくることを望むことしかできない。

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