初期研修病院の選び方 パート2

 前回の記事で書き忘れたことを早速思い出した。また忘れないうちに記すことにした。それと、以前に予告していた内容も一部記す。


友人と同じ病院を選ぶことについて(意識が高い人と研修できる環境かどうか)


 一人くらいならまだしも、仲良し同士何人も集まって研修するのは勧められない。その全員が切磋琢磨し自己研鑽に努めるのならよいが、悪い意味で馴れ合い、だらけてしまうおそれがあるからだ。学生時代のグループ学習で経験したかもしれないが、意識の低い人がいると、それに引っ張られ自分まで意識が低くなってしまう。入職したところ自分以外の全員が意識低い系だった、なんていうのは最悪である。がんばればがんばるほど、周りから「浮く」のである。自分が成長するには、周りの意識が高い方がいいに決まっている。このように同期の空気・意識の高さは初期研修で重要であり、ハイパー病院を勧める理由の一つでもある。


土日祝日に休めるかどうか、について


 病院説明会で、土日祝日は休みだとアピールする病院がある。こういう病院は勧められない。土日祝日が休みなんてむしろ当たり前とか、労働基準法云々とか、学生が思うのはともかく国までもがそんなことを言っている。一般論としては正しいのだが、いつかの記事で書いたように、医者(医療職)が他の社会人同様に休めると思ったら大間違いである。ご存知の通り、病院は土日だろうが深夜だろうが、「営業」している。なぜなら、入院患者がいることに加え、土日・時間外に医学的介入が必要となる場合があるからだ。虚血性心疾患、脳卒中、外傷、出産など挙げればきりがない。すぐに手術が必要だというのに、「時間外なんで働けません」と言えるわけがない。
 日本の「誰でも安く、すぐに医療を受けられる」という世界でも他に類を見ない医療は、皆保険制度と医者の自己犠牲の上に成り立っている。病院ははっきりいって、ブラックである。医者の過重労働は問題視されているが、上記事情に加え、応召義務があるため解決しがたい。
 というわけで、医者にとって土日祝日は、一般外来が無いだけで必ずしも休みなわけではない。最初の二年間は土日を休めたとしても、三年目以降は休めない。ちなみに私は、医者になってから自宅で年を越したことはない。ずっと病院で年を越してきた。年末年始は特に、年配の先生が優先して休むので、裏を返せば若い人が働くことになる。自分の権利をとかく主張する人がいるが、このように現代社会のルールが最優先されるのである。

 さらに、研修医は土日であっても入院患者、とくに重症・急性期の患者を診察するべきである。こういった患者は日単位、時間単位で病状が変化するので、その患者を数日間診ずして十分な経験をつめるはずがない。また自分の治療により病状がどう変化したかもチェックしなければならない。治療は、病態のアセスメント→プラン決定、治療→その効果の検証→再度アセスメント→・・・という繰り返しである。土日休みということは、5/7すなわち7割程度しか診ないということであり、そんなんでどうやって診療できるようになるのかと不思議に思う。ちなみに私は別に「土日も来い」と言われたことはないが、重症患者であれば土日だろうが自主的に診察しに行ったものである。
 また、入院患者の診療は平日と土日祝日で異なることを知っておいてほしい。土日祝日・時間外はスタッフの数、できる検査が限られる。すなわち、なるべく病態が変化しないよう平日のうちにプランを練り、それでも状態変化が起きた際どうするかまで考えられるようになってほしい。私は研修医一年目の頃、よく土日や夜に病棟から呼び出された。上記のことができていなかったからである。病棟から電話が来るということは、病棟が困っているということである。どうすればそうならないかを必死に考え工夫した結果、二年目ではそうそう呼び出されることはなくなった。
 以下愚痴で恐縮だが、上記をまるで考えていない二年目研修医のせいで、土日に(代わりに)働いている私、そして患者が迷惑を被っている(しかも中には、それを指摘すると逆ギレする奴がいる)。経験しなければわからないことはたくさんある。初期研修から土日に働き苦労しておくべきだと思う。


研修医室について;医局と同じところ VS 別室


 病院によって、研修医室が医局と別に設けられている場合と、研修医も他の医者と同じ医局に机を並べる場合とがある。とある病院に見学しに行った時そこの研修医から、「研修医室は医局(学校でいう職員室みたいな部屋)と離れてある方がいい。そうでないと気が抜けないし、仲間うちで愚痴とか言えないから。」と言われたことがある。確かに、別室の方が一息つきやすいだろう。
 しかし、私は医局内に研修医デスクがある方がいいと思う。第一に、先輩方の働きぶりを肌で感じられるからである。別に誰かをガン見せよ、というわけではない。同じ空間で過ごすことで、将来自分の目指すべき姿を直接目にすることができる(反面教師の場合もあるかもしれないが)。また先生方同士の議論を耳にする(盗み聞きではなく、聞こえてくるもの)ことも勉強になる。
 第二に、先輩方とコミュニケーションをお互いとりやすいからである。冒頭に出てきた研修医もそうなのだろうが、先輩には気を使うからあまり絡みたくないという人がいる。わからなくはないが、医者以前に社会人たるもの、社会で人間関係を良好に構築することが求められる。後輩として、先輩には敬意を払い、礼儀を守る。それが潤滑油となり、後輩が先輩に質問・相談しやすく、また先輩も指導しやすく、あるいは指導したくなるものである。研修医に限らず若い社会人の中には、自分から努力して良い人間関係を築こうともしないくせに、やれ教えてくれないだの、仕事を任せてくれないだの、意地悪されるだの言う人がいるが、それは社会人の感覚からすればまるで見当違いである。賛否はともかく学生であれば「教えてもらって当然」かもしれない。だが社会では、「教えてもらう」などという受け身の姿勢そのものが間違っている。自分で意識していないのだろうが、「学生気分」が抜けていないのである。これについて、次の章で詳しく記す。


ハイパー病院では「教えてもらえない」、とかいう主張への反論


 ハイパー病院に対してよく聞く非難に、ちゃんと教えてもらえないとか、教わるヒマがない、というのがある。また、誰々先生はしっかり教えてくれるけど、誰々先生は教えてくれない、という話を聞くこともある。前章でもふれたが、そもそも社会人が「教えてもらう」などという姿勢でいることそのものが間違っているし、当然でもなんでもない。鳥のヒナのように、口を開けていれば誰かがエサを持ってきてくれるなどということはない。某漫画の利根川が言うように、「世間はお前たちのお母さんではない」。

 「自分から積極的に学ぶ」という姿勢が重要であり、それが当然なのである。教えてもらうのではなく、先輩のところに教えてもらいに行く、自ら学びに行く、という極めて能動的な営みである。なおそのためには、先程触れた「人間関係の構築」が重要である。
 もっとも、自分で学ぼうとする姿勢、一人で勉強し場合によっては先人に教えを請いに行くというのは、受験生・学生にも共通することで、医学部に入学し卒業した人なら誰しも経験したはずである。なだいなだ氏のように、授業を一回聞いたらすべて理解できるという人もいるが、大抵はそれだけでなく一人で机に向かい問題集を解きまくり参考書・教科書で調べたり、わからないところを先生に聞きにいったのではないか。個人がいかに勉強に向き合うかが重要だと受験の時には気づいていても、社会人になるとそれを忘れている人がいるのは不思議である。これには医学教育、ひいては日本の教育に起因するところもあるように思うが、それはまたいつか別途記事にしようと思う。

 改めて、「教えてもらえない」などという批判は的外れなのであるが、私はむしろハイポ病院こそ「教えてもらえない」のではないかと思う。病院によっては、勉強会やらセミナーをしているとアピールするところがある。それ自体は良いのだが、実際に患者を診ずしてどれだけ効果があるものかと思う。座学は当然重要だが、それだけではほとんど学生実習・国家試験の勉強と同様に思える。いや少し言い過ぎたが、患者の顔を見ず、なんの診察もせずにただ検査結果だけを見て薬を出している研修医を見ると、思うところがあるのである。私がいったいどれだけの誤診を見つけ医療過誤を未然に防いできたことか。
 またハイポ病院では、後で述べるが、ほぼ完全に放置という場合もある。これは文字通り、何も教えてもらいない。


主治医制について


 前章に関連するが、初期研修中に主治医をさせてもらえると非常に勉強になる。いまやそういう病院はほとんどない気もするが。ちなみに小生は一年目の四月から主治医として患者を受け持っていた。病棟に出て四日目には、新規に入院してきた患者を四人、主治医として受け持った。こういう話をすると学生にドン引きされることがあり、我ながら凄まじかった、というか非常に大変だったが、主治医という責任感が自らを律し、文字通り死に物狂いで勉強したものである。自分の診断は本当にこれでいいのか、この薬でいいのか、自分が失敗して患者に何かあったらどうしよう、などと不安でしかたなかったので、常に院内では本を持ち歩き、調べまくった。そのおかげで、学生時代不勉強だった私だが、初期研修のうちに一人で病棟患者対応も救急外来もこなせる自信がついた。

 対照的に今自分が目にする研修医は、責任を持たされていないんだろうなというのが丸わかりである。患者の病態を全体像としてとらえることができず、検査異常値を正常値にするといった、目の前のことしか見えない。ポリファーマシーでも薬を整理・吟味しない。ろくに調べず、わからないからとりあえず「経過観察」する。かと思いきや、エビデンスもないのに持論で治療しようとする。途中から愚痴になってしまったが、二年目なのにこんなレベルということから、いかにこれまで責任をもって診療してこなかったかがわかる。責任を早いうちから持たせておけば、普通は私のように「ビビって」慎重になり、調べ勉強するはずである。それができないということは、普段ろくに仕事を任されず、やれ点滴を出したり、少しは薬を出せるくらいのしか経験していないのだろう。それを一年くらい続けると、入職当時はあったはずの「危機感」が時間とともに薄れるのだろう。正直言って、こういう研修医が一番怖い。まだ一年目の方が慎重なだけましに思える。車の運転は少し慣れたころが危ないと教習所で聞いたが、それに似ている。

 主治医制の話をすると、「いやそんな滅茶苦茶な、自分にはできねーよ」と学生は当然思うだろうし、私もそうだったが、それで正常なのである。無理だと思うからこそ勉強し、その結果できるようになるのである。責任を持たされずに育つ方がかえって医療過誤を招くように思えてならない。


「そこまで忙しくない病院、というつもりで入職したら超ハイポ病院で、研修中に超あせった」という話(人聞き)


 こういう話はよくある。なぜか、その逆はあまり聞かない。多分、忙しすぎるのを無意識のうちに避けようとしているのだろう。良くも悪くも「安全策」を選びがちな学生は、忙しすぎず、ヒマすぎずという病院を選ぼうとする。しかし上記理由から、「思ってたよりハイポな病院」を選ぶことになってしまうのだろう。

 最初からハイポ病院志望という人は論外として、そうでない人がそういう病院で研修するのは不幸である。後輩の友人の話で人聞きもいいところだが、「入職してみたら想像以上にハイポで、全然手技とかやらせてもらえない。同期がやれ手術をしただの何々をさせてもらったというのを聞いて、超あせるわ。」だそうである。この人はまだあせっているから将来性があるなとは思うが、実際に実力の差が広がっていることと思う。


 m3の記事に、「死亡診断をしたことがない三年目の医者」というのがあった。初期研修時代に一度もしたことがないそうである。本当に二年間、一体何をしていたのかと思う。これは極端な例ではあるが、いずれにせよ、ハイポ病院で研修するデメリットは大きすぎる。二年間も無駄に費やすメリットが見つからない。能力の低い医者になってどうするのだろう。患者からしたらたまったものではないが、そういうことを考えたことがあるだろうか。なぜ、医者になったのだろうか。本ブログのタイトルは、この私の気持ちに由来している。


以上

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