やさしい言葉を操れる人になりたい

こんばんは。お身体にお気を付けくださいね。とnoteのAIがやさしい言葉を与えてくれている。思いやりの気持ちが嬉しいと感じているだけなのだけれど、やさしい言葉を受けると安心する。日々不安なことを抱えながら生きているのだから誰もがやさしい言葉を受ければ安心するのだろう。少なくとも私はそうだ。
では具体的にやさしい言葉とは何なのだろうか、 簡潔な文章で伝わるような言葉を選んで書いたり話したりすること? やはり、この気持ちを伝えたいというその心づもりで書いたり話したりすることだろうか? 書いたり話したりする上で私が怖いと感じているシーンを思い出してみる。
自分の話や意見を伝えようとして、何言ってるかわからない笑と拒絶を感じる態度に当たった時? 自分の文体とか構文に気持ち悪いと思われたりしないかという憂慮? 家族との会話や説教を受けている時そんな障壁になっている気持ちによって私は黙りこくる。これでは溢れてくる反論を一つずつ拾い集めて後から自分で整理することしか自分の言葉と向き合うことはできないというのか。兄妹は感情ベースで行動をする人で、私はすぐ彼女の気に触れては大きな声量に圧倒されている。大きな声というのは怖い。 でもよくよく考えてみたら私が怖いと思っているのは、その声量を出す時の大きく歪んでいく何とも論説するのが難しい口や目な気がする。大きな声が出るというのは目や口を見て警戒を踏んでいるから、無意識ではあるけど自分の気を強く持って少しは自衛の準備をする時間をとっていると思う。
インターネットで投稿した言葉は不特定多数の目に当たるので注意していなければいけないということは義務教育課程において先生方からも聞いて、教育テレビのドラマをみて体系的に理解している。でもどこか心の中には私の文章や言葉は何億といる人間の一人生の上で生産、産出するものであり、もし自己の存在がぽっと消えてしまえば一生掘り起こされることはない形のないインターネット化石になってしまう。無常なもんじゃないかと思う。少なくとも私はパソコンのタイピングという素晴らしいアウトプットの技を身につけたので、大きな成長をしていると思う。
これでは私が自分の文体とか構文に無駄なストレスを抱えるのかがわからない。辻褄が合わない。自分の内面や意識の変化を視覚を使って本当の客観視をしているだけだ。それが怖いのか?おい

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