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さよならのかわりに。

中条あやみを見ると25.6歳の頃に好きだった女の子を思い出す。彼女には4回もフラれた。まぁその頃はクソが歩いてるような男だったので仕方ないんだけど。

それでもちょっとチャンスはあって。

夜20時ごろに仕事から帰ってきて風呂から上がると、その子から何回も不在着信があった。飲みの誘いは日常茶飯事だったので今日も奢ってよの催促の電話かと思ったけど折り返した。

彼女は切羽詰まった感じで「誰かが私の部屋を覗いてる!」と言うではないか。急いで車を走らせた。

どうやら洗濯物を取り込もうとした時に、洗濯機の影に隠れていた男と目が合ってしまったらしい。何事も無くて良かったと思ったのだが「1人で居るのが怖い」と言われたので一晩泊まることにした。

彼女は泣いていた。

そんな彼女を見ながら床で横になっていると「こっちきて」と声を掛けられた。小さいベッドに2人で横になるとなかなかの緊張感がある。近さの緊張感と転げ落ちやしないかという、どうでもいい考えがごちゃ混ぜになってよく分からない感情が沸々と沸いてきたわけだ。

で、ぼくは若いのでやっぱり女性が横にいる状況というのは悶々とするわけだ。

だけど、今しがた怖い思いをした人に手を出せるだろうか。ぼくは結果的に何も出来なかった。ただ抱きしめて一睡もできなかった。

そんな彼女は今や2児の母だ。なんとも青い春である。


出会いがあれば別れもある。
ぼくにとって「ぷるぽ」という人格というか存在というのは、とても大切だった。そう、過去形である。

ぷるぽは、発達障害やメンタルヘルスを調べるために作ったアカウントであり、その界隈はなかなかにシンドいことが多く見るに耐えない争いも幾度となく見てきた。

なんというか…疲れたわけです。

発達と定型を分けて見ている感じがぼくには理解出来ないし、発達だからとかうつ病だからという言葉はなんでも言っていいですよ!の免罪符じゃない。ここを勘違いしている人が多くて疲れちゃうんだよな。

発達界隈を卒業だとかなんだかんだ叩く人がいますけど、そもそも入学した覚えがないし発達障害は一生ものなので卒業って概念がナイチンゲールです。

そんなに定型と発達をわけたいんですかね。どういう心理が働いてそうなるのか、誰か教えてください。

でね、疲れちゃうから、Twitterを覗くのを程々にしてたんですよ。そしたら別に必要ないんじゃね?と思えてきて。ぷるぽがいなくなっても誰も悲しまないし、発達界隈は何も変わりませんもんね。

だから、いなくなっちまおうと思ったわけです。

アカウントを消してしまおうか悩んでいるんだけど、なんとなく、なんとなく愛着があるので躊躇してしまっているんですよね。クソほどどうでもいい話だなぁ。

もし、アカウントを消してしまった時のために記しておきます。

さよならのかわりに、ありがとうございました。

さまざまな人に出会うために旅をしようと思っています。 その活動をするために使わせていただきます。 出会った人とお話をして、noteで記事にしていきます。 どうぞよろしくお願いいたします!