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定めと施し

السلام عليكم

9月24日でカイロに来てから2週間経ちました。
今回はカイロに来てから衝撃だったことについて書きたいと思います。

少しショッキングな内容かもしれないので、ご注意ください。

カイロで2週間生活して気がついたのは、エジプトは日本よりも貧富の差が目に見えて分かるということです。

日本でも、ホームレスの方は駅や公園で見かけますが、それよりも数が圧倒的に多い気がします。そして性別や年齢層も多岐にわたることが、エジプトにおいては顕著です。

わたしが住んでいるアパートからメトロの駅に行く時にいつも通る道でも、通るたびに物乞いの方が食べ物が欲しいと近寄って来たり、ホームレスのような風貌の方がシャッターが降りた店の前に寝転んでいる姿を見かけます。そのほかにも胸が痛くなるシーンには遭遇しましたが、ここには全部は書かないでおきます。

悲しいのは、日本とは違って女性や子どもの物乞いもいるということです。

メトロの階段でティッシュを売ったり、赤ちゃんを膝に乗せて、道ゆく人に物乞いをする女性もいます。

子どもが物売りをしている姿もまったく珍しくありません。

観光客の多い場所に行くと、子どもが商品を買って買ってと後を着いてくることもしばしばあります。
この前タハリールを歩いた時にはバッグの中に勝手に綿菓子を入れられました。(くれたのではなくて、買えということです)

道端はもちろん、カイロのメトロでは電車内でも物売りがされていて、メトロの騒音にかき消されまいとすごく大きな声で売り文句というのでしょうか?「はいみなさん、このティッシュ5EGP!!!!」みたいなことを叫びながら車内を渡り歩いています。(まだ何を言っているのか全ては聞き取れません)
車両によって売るものもまちまちです。エジプトのメトロは終日女性専用車両があるので、そこではヒジャーブピンやアクセサリー、メイク用品などとりわけ女性用の商品が売られています。イヤホンや子ども用のズボン、絆創膏などもうなんでも売っています。この前はちりとりを売っている人がいたのですが意外と売れていて、(そういうものも需要あるんだ…)と見ていておもしろかったです。

子どもの労働について話を戻すと、この前深夜に乗った際、6〜7歳くらいの男の子がキャンディを売っていて、とても大きな衝撃を受けました。
自分の妹よりももっと小さな少年が、売り文句を言いながらかごを抱えて、夜遅くによちよちと電車内を渡り歩く姿が忘れられません。

それを目撃した次の日にメトロに乗った際には、今度は足を怪我した女性が点滴袋を持ちながら物売りをされていました。
悲しそうに買ってください、とお願いされても断るしかなかったのですが、連日あまりにもショッキングな姿を見てしまい、ぐちゃぐちゃした辛い気持ちに耐えられなくて、恥ずかしながらメトロの中ですこし泣いてしまいました。

自分には何ができるのか?ティッシュ一袋くらい、キャンディ一つくらい、買うべきだったのでしょうか?

アラブ人の友人に、この格差が衝撃だったという話をすると、彼らを「不運」と形容していました。
綺麗な靴を履いて、おしゃれをして街を歩く若者がいる中で、砂埃だらけの素足にサンダルを履いて、一生懸命小物を売ったり、大人から邪魔がられたりする子どもがいる事実に、運が悪い、の一言で片付けて良いものなのだろうか?と、悶々とした気持ちになります。

留学する前に、先輩が「道端にいるその辺のエジプト人と、大学で知り合うエジプト人は全然違う。前者と友達になることは絶対にできない」という風におっしゃっているのを聞きました。
その時は意味がよくわかりませんでしたが、このような格差を目の当たりにしたり、面白がってアジア人を冷やかす若者を目にすると、同じエジプト人でも外国人への接し方が、コミュニケーションを取る相手としてみなしているか否かにおいて、まるで違うことに気付きます。
物売りや物乞いをする人々にとって、当然かもしれませんが、外国人はお金を持っている人、ビジネスの相手としか映っていないようなのです。

わたしも日本では母子家庭で、あまり裕福とはいえない家庭ではありますが、住む家があり、愛する家族もおり、奨学金やアルバイトで生活には余裕があるわけではなくとも困りはせず、ここに来てから恵まれていることをあらためて痛感することになっています。
ただ、自分よりも「不運」だった人たちが、わたしが受ける恩恵を気付く種とさせられるのも、何だかおかしなことだと感じます。

エジプトでは1970年代のサダト大統領による開放政策以降、就職口を拡大させて多くの人に雇用の機会を提供する取組が行われて来ました。
それによって多くの人が手に職をつけることができましたが、文字通りどんな作業にも人を配置することになったので、賃金が高いとは言えず、わずかな給料で生活をやるくりする人も少なくないようです。

イスラームの教えには貧しい人に喜捨をする教えがあります。エジプトでも道ゆく人が、物乞いやホームレスの方に食べ物を渡している姿は何度も見かけました。友人と歩いている時には、彼女が道に座り込む老人にお金をさっと渡していたこともありました。
こういった施しによって、その人たちが1日過ごすための糧が手に入っていることは、日本での生活によって培われた価値観からは、あまり考えられないことです。

「食べ物で意地悪をしてはだめ」と、きょうだいがお菓子の取り合いなどをしていると、幼い頃から母に繰り返し宥められてきました。
「隣人がお腹を空かせているのに、自分だけ満腹でいてはいけない」というハディースもあります。食べ物を独り占めしないことの大切さを実感する今、この教えは自分の中で大きな存在を示しています。

よだん
ちなみに一番好きな教えは「3人でいる時に、他の誰かが来るまでは、2人しかわからない話をしてはならない。残りの1人を悲しませることになるから。(意訳)(sahih bukhari 6290: 79,62 )」です。
現代社会で生活する中でも、よくありがちなことだと思いますが、気にするだけでうんと思いやりを持てる人になれるのではないかなとおもいます。
よだんおわり

路上でぼろぼろの服を着て埃を被った商品を売ったり、灼熱の太陽の下で寝転がる人を見るたびに胸が痛むこと、これからわたしの目はこの光景に慣れていくのか、ずっとこのままなのか、と考えたり考えなかったりする今日この頃です。

数日間考えてみて、月並みですが些細なことでもできることはしておきたいという結論に辿り着きました。これ以上のことは、今のわたしでは思いつきません。
マスクを買うにしても、スポンジを買うにしても、スーパーではなくて、毎日通りで顔を合わせる人たちから買ってみようかなと、思っています。

良くも悪くも、定めはある程度存在するのでしょうが、その分それを変えてゆく術も、人間には与えられていると思うのです。そこに施しは紛れもなく含まれているでしょう。

今日はここまで

الله يسهل لكلنا
(神さまがみんな(の人生を)容易くしてくださいますように)

早春

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