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☆2020.11.6白い魔法使いからのお手紙

おはようございます。

この時間になってようやく陽が射し始めましたが、日の出前は台風の後みたいな生温い風が吹いていました。今日は久しぶりに晴れそうです。

今日の占いです。

「架空の誰か」に語りかけているような文体で「お手紙という名の占い」を紡ぎます。なので、「お手紙全部が今日の占い(今日の雰囲気)を伝えている」と捉えて読んで頂けたら幸いです。

(昨日、毎日の占いの書き方を変えたばかりなので、しばらくの間、冒頭にこの文章を置いておきますね。)

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~親愛なる名を持たない友へ~

昨日はどこまで話をしたっけ?

そうだ、「水」を探せ、って話だったね。

エレメント(属性)的に「水」は「感情」を示すと言われてる。最近わたしはこう思うんだ。「水」って何でも映し出すものだ・・って。占いのスクライングの方法の原始的な形だ、って思う。透明だから何でもそこに映し出すことができる・・鏡みたいなもの。自分自身の姿も、その後ろの背景も映し出す。

「何でも映し出す」ってことを憶えていれば良いけれど、時として私たちはそのことを都合よく忘れる。

だから醜い姿や悪しき姿や、見たくない風景が映り込んだ時にものすごく驚く。「だって私そんなつもりではなかったのに・・」「もっと綺麗に生きてきたはずなに・・」と嘆いたり、悲嘆に暮れたり・・

そんな自分自身に傷ついていることすら水は映し続ける。感情を伴ったもの、エモーショナルなこと、情動が揺すられること・・というのはそんな瞬間にこそ思い出されるんだな、と最近よく考える。

無慈悲に映し出すもの vs   感情と記憶

これはたぶん方程式のようなもの。

どちらかがどちらを毎瞬刺激し合ってる。対面に誰かいるのであれば、この方程式はもっともっとリアルになるし、傷つけあう結果を齎す。それで気付いたらいつの間にか自分の、もしくは相手の深いところまで降りて行っていることに気付く。

昨日の話の「水」はそんな「深いところ」から湧き出している「水」のことを言ってる。「源泉」。

その源泉に触れていたい・・その水に手を浸していたい・・そう心から願う時「痛み」が走るのかも知れない。冷たい水に触れたときに痺れる感覚があるような、そういう種類の痛み。

触れたいものに触れているその感覚がいつも痛みを伴うものならば きっとそれはあなたがあなた自身の心に触れている証拠 痛みの印 あなたを通じてその痛みの印が解放されているその瞬間 似た痛みの印を持つ者と出会い再会することもあるでしょう 何故か? 感情や記憶を揺さぶるものと無慈悲に映し出すものとはセットだから 互いに何かを掴みたいと願う関係性にある対極のものだから

わたしの「源泉」には今日はどんな水が溢れるでしょう。そしてどんな「そのままの姿」が映し出されるでしょう。どんな風が立ち、どんな風景が映り込むでしょう。木立の後ろに隠れたままでいる忘れられない記憶もそこに映り込むでしょうか・・

そう言えば「水」は「記憶」にも繋がっているね。このお話の続きはまた明日。

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「そのままの姿」とか「あるがままの自分」って生易しいことではないよね。誰かにそう気軽に言われたら私はたぶん傷つくだろうな・・「だってこれが私じゃん・・」と怒るかも。でもそんな傷つくことを平気で忘れて誰かには「そのままでいて」とか「そのままの姿が一番だよ」とか言うわけで、人は本当に忘却の生き物なのだなって思わない?

ある絶対的な忘れ難い体験や、人とは分かち難い体験をした時に私はこの言葉に救われた。


ーある限定された瞬間――過去や未来から切り離された現在の一瞬――に自分を注視してみるならば、わたしたちは罪無き者である。そういう瞬間には、わたしたちは、あるがままの自分でしかありえない。

こんなふうに瞬間を切り離してみることには、ゆるしが含まれている。しかも、このように切り離すことが、執着から離れることであるー

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

「切り離すこと」そこに顕れる痛み・・そこに手を伸ばしてみようと思う。それは既に「執着」を超えた純粋な情動だと気付いたから。
  

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親愛なる全ての友へ 心に灯火を

愛するあなたへ 幸いあれ

星言葉紡ぎ屋 白い魔法使い

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