とある幻覚、あるいは選択

「じゃあ、坂口さんはどうしたいですか?退去しますか?」

「え・・・」

それは、とあるグループホームでの出来事。
精神に障害を抱えた者が住まう、家の中での会話。
ここの利用者の一人である坂口まひろは、サービス管理責任者のスタッフに相談していた。
隣の部屋の同居人がドアを機嫌次第で乱暴に閉めるのである。
その音は他の同居人からは「この家が壊れるんじゃないかってくらいの音」と言われていた程だった。
そんな音をすぐ隣の部屋で立てられたら、自分の部屋にいるのに静かに暮らせない。
何より心臓に悪い。
その事を今まで何度もスタッフに相談し、スタッフは隣の部屋の同居人に注意をしていたが、彼女はその場では泣いて謝るが、しばらくするとまたドアを乱暴に閉めるようになる。
まひろはもう限界だった。
辛いのだとスタッフに相談した。
すると言われたのが冒頭の言葉である。
まひろはショックを受け、困惑して、

「私は助けてほしくてSOSを出したのに、なぜ私がここを出て行かなければならないのでしょうか」

「坂口さんが苦しくて可哀想だと思って、楽な方法は何かを確認したかったです」

――――ああ。
スタッフの言葉を聞いた時、まひろは自分は信頼する相手を間違えたのだと悟った。
だから言った。

「分かりました。私、ここを出て行きます」





ざあざあ。ざあざあ。
風が木々を揺らし、葉がざわめく。
まひろはその中に一人立って、音に耳をすましていた。


『このキチガイが。さっさと出て行け!!』


自分に向かって怒鳴る母親の声を思い出す。

「・・・あーあ。どこにあるのかな、私の居場所」

どこを探してもないんじゃないのかな、そんなものは。
そう考えて静かに絶望しそうになった時。

「ちょっと、お嬢さん」

背後から男の声がした。

「!?」

驚いて振り向くが、そこには誰もいない。
否。
視線を下へ向ければ――――

「犬・・・?」

「はい」

毛がふさふさした大型犬、ゴールデンレトリバーがいつの間にかそこにいて、まひろを“ひた”と見上げていた。
その目は青い。

「・・・・・・・・・犬がしゃべっ・・・・・・・・?」

まひろの頭が真っ白になりかけた。

「おれは天使です」

「てん・・・?」

「はい」

犬はこくんと頷く。
しばし、その場に静寂が満ちた。
公園の木々がざあざあとうごめいている。
たっぷり時間をかけて考えた後、まひろはくるりと方向転換して逃げ出した。
が、

「ぎゃんっ!?」

「はいダメ~~~」

犬もすかさず駆け出して、まひろの背中に跳びかかった。
たまらずまひろは倒れる。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・天使が何の用ですか」

「おっと呑み込みが早くて助かる」

「話進めないとこの茶番終わらないじゃないですか」

「言い方が辛辣~~~」

周りを見やれば、公園の遊具で相変わらず親子連れが楽しそうに遊んでいる。
彼らはこちらを気にする気配がない。

(・・・この天使?のせい・・・?)

訳が分からない。正直不気味だ。
だが――――

(・・・・どこにも居場所なんかないんだ。いつまで生きられるかなんて分からないんだ。だったら、)

この茶番に乗ってあげる。
そう思ったまひろは自称天使の話を聞く事にした。

「おれは仕事エンジョイ勢の天使でね」

「・・・・」

「人間を幸せに導くのが楽しくて楽しくて仕方ない!!」

「・・・・」

「そんな所に君を見つけた」

「・・・・」

「騒音立てる同居人のマダムがあの家を出て行けば君は救われる。そうだね?」

「――――は」

「は?」

「あははははっははははははははははは!!!!」

まひろは可笑しくてたまらない、というように声を上げて笑った。
倒れた彼女の背中に乗っている犬は青い目をぱちくりさせた。

「ははは・・・ははっ・・・・・はあ・・・」

「何がそんなに可笑しい?」

犬が首を傾げて聞けば、

「確かにそれなら問題は解決するよ、でも、私が本当に失望したのは“同居人さんではなく私に「出て行け」と言ったスタッフさん”なんだよね」

同居人が騒音を立てていたのは今に始まった話ではない。
前からずっと続いていた事だ。

「彼女はいくら注意しても直そうとしなかった。彼女はもう変わらない。だったら“変わる可能性のある”私に何か言う方が賢明だ。スタッフさんはそう考えたんじゃないかな」

けれどまひろの立場からしてみれば、自分は何も悪い事をしていないのに突然「出て行け」と言われた事になる。


「あのスタッフさんはね、私の信頼を裏切ったんだよ」


そこまで聞いた天使は言った。

「それならそいつに復讐すれば君は救われるのか?」

「んな訳ないじゃん」

まひろは否定する。

「あの人にそこまでしてあげる価値、ないよ」

「じゃあどうすれば君は幸せになるんだ」

青い目をした犬が問う。
まひろは迷わなかった。

「ここにいられて幸せだなあ、って場所に“自分の力で”いられるようになる事」

「・・・なるほどな」

それじゃあ天使はお呼びでないってか。
そうつぶやくと、犬はまひろの背中からどいてワン!と吠えた。

「あんたにとって、その道は険しいだろう。せいぜい頑張んなよ」

犬はそう言って、たちまち走り去って行ってしまった。
その姿をまひろは立ち上がりながら見ていた。
公園を風が吹き抜け、木々がざわめく。ざあざあ。ざあざあ。
ふ、と笑う。

「・・・なんか面白い幻覚見ちゃったな」

そう言って彼女はグループホームへ帰って行った。
残りわずかしかいられない我が家へ。




青い目をした犬は人目のつかない路地裏へ行くと、たちまち人の姿になり――――その背中から翼が広がった。
その翼の色は黒。

「――――はっ、失敗、失敗。また背中をちょいと押せば堕ちそうなエモノを探さねーとな」

青い目をした悪魔は、そう言って笑った。


おわり

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