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一日を一生として生きる

昨日、ふと、
いざ自分が「あした死にますよ」って言われたとして、後悔する生き方としない生き方があったとしたらその違いはなんだろう?という疑問が湧いた出来事があって、それを一日半ぐらいぼーっとしたときに考えてたの。

自分なりに現段階で納得のいくひとつのアンサーみたいなのが出たので、文字に起こしながら自分の頭の中からアウトプットしてみようと思う。

まず、いきなり死んだら後悔が残る生き方は、やっぱり「未来型」の生き方だなと。夢とか到達地点をタイムライン上未来に設定して、その一点を目掛けて進む生き方。いまと違うなにかに「成る」ことを目指すようなね。

夢を描くことは決して悪いことじゃない。素敵なことだと思う。
たいせつなのは、どうやって進んでいくかということ。

ゴール地点の一点しかじぶんの目が捉えていなければ、その地点までの道のりはただの作業でしかなくなり、景色も見えない。窓のついていない高速バスに乗っているような。もしその窓のついていないバスの中で、いきなり「あなたの今回の人生は、きょうで終わりでーす」って言われたら、きっと大きな悔いが残ると思うんだよね。

”せっかくここまで頑張ったのに”

”あと少しで目的地にたどり着けるところだったのに”

とかね。

もし、無事に辿り着けたとしても、じゃあその後どうする?
その一点突破方法で辿り着いた人は、また次の目的地を設定するだろう。

じゃあ、どういう生き方をしたら、「きょうで◯◯さんの今世の人生終わりでーす」と言われたときに、「わっかりましたーありがとうございまーす!」って潔くお返事できるんだろうか。って考えた。変な人だよね。笑

それが、「プロセス型」の生き方だったんだよね。「一瞬完結型」ということもできるかな。

夢や実現したいことはあってもなくてもどっちでもいいし、大して重要じゃない。もし夢があったとして、その夢の結果ではなく、そこに行く過程を味わう生き方。目的地まで、大きな窓のあるバスの中で、移り変わる景色を眺めて味わうような。

わたしたちはなんのために生きているか?を問うということは、どのように生きるかに直接的に影響するからぜひ問うてみてほしいんだけど、わたしのこの問いの今の地点でのアンサーは

「精神性を高めて、源の意識(愛)へと回帰するため」

正直にいうと、いちばん奥底にあるのは「なんのために生きているのか(生かされているのか)はわからない」という答え。笑
元も子もないw

でもわからないからこそ、自分で自由に創造できる。
なんのために生きたいか、自分で自由に創造できる。

なんのために生きたいかが定まれば、どうやったらそのように生きれるだろう。が見えてくる。

わたしたちがこの世界でどんなことを成し遂げようと、名声を得ようと、お金を得ようと、生を終えたらその体・アイデンティティとはさよならしなければいけない。そこにくっついていた名声、お金、その他諸々ともさようならする。

でも、その生を通して培った感情や体験、意識は消えずにその後の生命へと続いていく。と思っている。これはわたし個人の信じていることだから、実際のところどうなのかはわからないけれど。

だから、どう生きるかは、すべてわたしたちひとりひとりの自由。
それならばわたしは、やっぱりいま一日一日、一瞬一瞬の生命の鼓動を感じながら生きたいなと改めて思ったのでした、、♡



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